コリントの信徒への手紙一 11章23~26節 「イエスの食卓の方向性」 (世界聖餐日礼拝)
本日は聖餐式を行うことはできませんが、聖餐について共に考える時としたいと願っています。聖餐の恵みは、キリスト教の多数派によれば洗礼を受けた者にのみ許されているとされます。しかしわたしたちの教会では、洗礼を受けていない人も聖餐に与ると理解しています。さらに言えば、聖餐と日常の食卓とは全くの別物なのではなくて、もっと世界大に広がりゆく方向性があると考えます。最終的には大規模な飢餓の現実をなくしていくことであり、少なくともその方向を目指すことでしょう。とりわけコロナ禍において現在進行形で問題になり明らかになりつつあるのは、飢えに直面している家庭や人々が激増しているということも、心に留めたいと思います。
この現代的課題抜きにして、教会の神々しい儀式として自分がキリスト者であるという自己確認のためだけに聖餐を祝っているとしたら、主イエスの身体と血潮を無駄にすることになるのではないでしょうか。主イエスの体と血潮に与るということは、主イエスの道を歩むようにとの招きと促しに与ることでもあります。主イエスのなさったことの中でも、5千人、4千人に食物を与えた記事は、炊き出しを思い起こさせます。わたしたちが他者の飢えに関して無関心でいられるのならば、聖餐を受ける喜びが足りない、とも言えるのではないでしょうか。わたし自身は常に満腹でいられるという状況の中で、飢えを語ることの偽善性を自覚しつつ、言うのではありますが…。
互いに分かち食べることのできていない現実は世界規模であり、かつ複雑です。わたしたちのできることなど限られていますし、わずかなことしかできないでしょう。できるところからしていくしかなく、食の生活スタイルを変えていくことも考えなくてはならないと思います。
主イエス・キリストに示される世界観に立ち返ることから、現代的な意味において聖餐を再解釈していくことが必要です。聖餐が示すのは、洗礼の更新という意味合いに閉じられていくのではなく、今生きるために食べるという行為、しかも共にという態度から理解されるのは、開かれゆく食卓理解なのです。
わたしたちは、主イエス・キリストによって呼ばれ、招かれています。それゆえ、主の道へと歩まなければならないのです。決定的に正しい答えなど見つからないまま模索しつつ、現代社会の歪みに対峙し、別の物語の可能性に向かっていくのです。主のからだと血潮に与ることによって、わたしたちは主にある広がりに生きることが赦されているのです。
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