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2021年10月10日 (日)

マタイによる福音書 4章18~22節 「神に従う」 高柳研二 神学生(農村伝道神学校)

 本日はお招きいただきありがとうございます。自己紹介を交えながら聖書の言葉を分かち合いたいと思います。

 私は1969年の生まれで、キリスト教徒であった両親に連れられ物心つく前から生田教会(川崎市多摩区)に通っており現在もそこに所属しています。受洗は高校入学の1885年、就職は1993年で結婚は2003年です。連れ合いは未信者でしたが結婚してしばらくして受洗に導かれました。息子が二人おり、現在高校二年生の長男が昨年クリスマスに受洗に導かれました。こう振り返ってもこれまで神様の備えて下さった道は自分には少々出来すぎという思いがあって、いつかは神様の為に働かないといけないという漠然とした思いがありました。仕事は充実していましたが50歳になり今後の人生について改めて考えたときに、正に「今がその時だ」との思いで会社を辞め、神学校への入学を決めました。

 さて本日の聖書の箇所ですが、これは4人の弟子達の召命の場面です。ここで驚くのは弟子たちの思い切りの良さです。ペトロとアンデレはその場で「網を捨てて」、またヤコブとヨハネは「舟と父親とを残して」イエスに従います。これは仕事、財産、家族の全てを捨てて従ったということです。この時にイエスが彼らに語りかけたのが「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。シンプルでありながら大変力強い召命の言葉です。その言葉だけを純粋に信じて、全てを投げ出して従いました。この姿に信仰の原点を見る思いがします。なかなかここまで思い切ることは難しいと思う一方、私たちが信仰生活を送る上で勇気づけられるのは、これらの弟子たちもまた決して完璧な人間ではないということです。お互い誰が偉いかと議論したり、大事な場面で居眠りしたり、筆頭弟子といわれるペトロでさえもイエスとの関係を否定したりと、聖書の随所で人間としての弱さをさらけ出しています。そんな弟子たちをもイエスは用いられました。

 現代においても神は様々な人を招いてくださいます。私たちは誰一人として完璧な人間はいませんが神の前では平等であり、年齢や性別、社会的地位や財産の多寡、心身の障害の有無、人生経験や信仰生活の長さなどによって優劣が付くことはありません。ただ謙虚に神を信じ、そのみ言葉に従うことによって、神が道を備えて下さり私たち一人一人が用いられます。備えられる道や用いられ方はそれぞれ違いますが、それらは全て神の大きな計画の一部です。一人一人が神から与えられた賜物を生かして用いられることを願い祈りつつ、これからも謙虚に神に従っていきたいと思うものです。

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