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2021年10月24日 (日)

マルコによる福音書 9章37節前半 「さあ、つながろう」

 ~キリスト教教育週間を覚えての礼拝~

 礼拝でキリスト教教育週間の学習資料、「バングラデシュの貧困家庭のこどもたちの教育支援に」の紙芝居を使いました。これを作ったのは「アジアキリスト教教育基金[ACEF](エイセフ)」です。

 「村には学校がなかったので、家の軒先や大きな木の下」での青空教室から始まり、やがて建物が作られていったとあります。学習については、日本の古い言い方だと「読み書き算盤」のように、いわゆる寺子屋から発展していきました。基本的な学習ができないと、生活していくうえで不便なだけでなく、人に騙されてしまうことの可能性も高くなります。仕事の機会なども限定されるために貧困に直結していくこともあります。だからこそ、[ACEF]のような活動が大切なのです。

 今日の聖書、マルコによる福音書9章37節までの文脈では、弟子たちの中で誰が一番かというマウントを取ることで自己実現するおとなの論理を主イエスが否定しているところです。「一番になる」とは、誰かと比べてより優位に立ち、機会があれば君臨したいというバベルの塔の精神の極みであるとさえいえるのではないでしょうか。自分の優位のためなら、他の誰かを蹴落とすことさえ厭わないという心の卑しさが物語られているのではないでしょうか。

 教育とは本来、そのようなものであってはなりません。誰かと一緒に、たとえ対立や意見の違いがあったとしても、より豊かな関係性を作り出していく過程にあるものなのではないでしょうか。教育の機会の平等さは、すべての子どもたちに対して開かれていくべきであり、教育を受けていないが故に不利益を受けることを避ける必要があるのです。学ぶことで目指したいのは、自分が自分になっていくことを自分の言葉で言い表しつつ、自分が誰彼との比較に依らずに一人の自分として立っていくこと。自分でものを考え、判断する知恵を育てていくことは、自分自身のことに留まらず、誰かという他者に対する想像力や対話によって、より豊かな関係性を作り出していくことにつながります。このような方向を目指す教育の必要性は現代社会にとって非常に重要な点であると思われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」ということは、学ぶことで頂点を目指すのではなく、学ぶことで他者を、より小さい者・弱い者を発見していくこと、共に生きる道を探っていくことであると思います。

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