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2021年9月26日 (日)

マタイによる福音書 11章28~30節 「招き」

 聖書に書かれてある「疲れた者、重荷を負う者」の重荷とは、現代の読み手であるわたしたちの解釈からすれば、日毎に立ち現れる様々な課題や困りごとや悩み、心に深く圧し掛かってくること全般だと理解されているのではないでしょうか。今、自分のすぐ前にあり、のしかかってきている課題全般としてです。ここで主イエスから与えられるのは、「休ませてあげよう」です。課題や困りごとや悩みなどを「取り除いてあげよう」、ではないのです。休息する中で、今一度冷静になって自分の今をしっかりと見つめ、確認し、別の物語や可能性がないのかを思いめぐらせる猶予期間が与えられるのです。「だれでもわたしのもとに来なさい。」と語る主イエスの元で一息つき、自らの重荷を客観視することで、実際以上に重く感じていた荷から余分なものを取り除き、そしてまた、傍らの主イエスから力をいただいて、新たに背負い直す力を与えられるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者」の現実自体は変わらなくても、「軛は負いやすく」「荷は軽い」と実感できる出来事を引き起こすのは、「インマヌエル」、主イエスが共にいてくださる現実に他なりません。「軛」とは、荷を引くために牛や馬に付ける道具ですが、二頭立てのものが一般的だったようです。であるならば、わたしの隣で共に荷を引くのは主イエスご自身です。このことを知らされた者は、主イエスの「柔和」と「謙遜」ゆえに、「重荷を負う」力が添えて与えられているのです。

 「休ませてあげよう」という言葉の持つ力、方向性は、聞き手の中で「主体性」が起こされていくということです。追い詰められた状況にある時、往々にして人は主体性を失いがちです。「主体性」とは、しっかりと自分で状況を観察し、考え、判断し、行動していくことです。そこには逃げることも含まれます。主イエスの寄り添いに対して「今この時」の応答の決断を為し、主イエスからの招きにより相応しい道へと歩んでいけばいいのです。

 わたしたちは、自分だけで躍起になって「疲れた者、重荷を負う者」として孤軍奮闘して、しばしばくずおれてしまう弱い存在なのかもしれません。しかし、共にいてくださる主イエスによって、主体的に担う力と勇気が備えられているのです。この方向に向かって主イエスはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と今日も語りかけているのです。 

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