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2021年9月 5日 (日)

マタイによる福音書 11章20~24節 「何故イエスは町を叱ったのか?」

 おはようございます。本日は、マタイによる福音書 11章20節から24をテキストに「何故イエスは町を叱ったのか?」という題で説教します。

 今日の聖書は、読み手にとって戸惑ってしまう箇書の一つだろうと思われます。この裁きの記事を元にして「陰府」(≒地獄のイメージ)を持ち出して脅すような「伝道」を繰り返している教会もあるようですが、論外だと言っておきます。それにしても何故、このような厳しい言葉が語られているのでしょうか。聖書の学問的な発想からすれば、マタイ福音書の教団の「伝道」がベトサイダやカファルナウムで失敗したことを半ば八つ当たりのように語っているのが妥当かと思われます。しかし、そうなのでしょぅか?

 今日は、「何故イエスは町を叱ったのか?」というテーマを通してできるだけ主イエスの心への接近することを求めていきたいと思っています。テキストの概略を今一度確認してみます。主イエスが数多くの奇跡を行ったにもかかわらず、それに応える悔い改めを行わなかった町に対する裁きとなっています。コラジンとベトサイダは裁きの日にティルスやシドンよりも重い罰が与えられるとし、カファルナウムはソドムよりも重い、となるのです。

 ここで比較の対象とされている三つの町について簡単に説明しておきたいと思います。たとえば、ティルスについてはイザヤ書23章で、シドンについてはエゼキエル書26章から28章で、それぞれ異教に飲み込まれてしまっていることを非難することが描かれています。ソドムについては創世記19章で、神の前に正しい人がいない町とされています。いずれも神から離れてしまった、悪く酷い例としてここであげられています。今日の聖書では、コラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムがそれ以上の裁きの対象なのだというのです。しかし、これらの非難されている町がそれほど堕落し酷いものであったとは新約聖書からは読み取れません。カファルナウムは主イエスの初期の活動の拠点でもありました。コラジンはルカの並行記事があるだけです。ベトサイダでは奇跡を行った形跡はありますが、目立った反発を読み取ることはできません。そうすると、やはりコラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムに対する八つ当たりのように読めてきます。そこで、どのように解釈すべきかを考えるために、今日の聖書の前の部分から読んでみます。11章16節以下です。

11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 ここで例に挙げられているのは、おそらく当時の子どもたちの「ごっこ遊び」です。葬式ごっこでしょう。17節には、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」とあります。呼びかけたのに応じない様子が描かれています。これをたとえとして示し、洗礼者ヨハネの呼びかけには「あれは悪霊に取りつかれている」とあしらい、主イエスの呼びかけに対しても「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と切り捨ててしまう当時の時代精神のあり方を示しているのです。ですから、このすぐ後にくる今日の箇書は、コラジン、ベトサイダとカファルナウムという三つの町は、個別の非難ではなく、当時の状況の危機を理解出来ない人々の代表として語られているのではないかと思うのです。

 時代精神は、その時々の状況を空気のように支配しています。洗礼者ヨハネと主イエスの立ち位置や方向性は決定的に異なるものではありましたが、時代のあり方を批判しないことで容認していくことへの危機感に関しては、共有していたと思われます。

 この時代精神、もっと広く考えれば、その時代を空気のような共通の「当たり前」として、無自覚なまま疑うことすらしない状況に対して、必要なのは「悔い改め」なのだと言いたいのではないでしょうか。ただし、注意しなければならないのが、この「悔い改め」という言葉です。キリスト教では、「悔い改め」はパウロがそうであったように、他の宗教や考え方からキリスト教に「回心」することなのだと考えるのが一般的です。キリスト教徒になるとか、すでにキリスト教徒であるなら、より正しい方向に向かうことを意味します。しかし、ここで使われているのは、そのような意味での「悔い改め」ではありません。本田哲郎神父は今日の聖書の20節を「イエスは、自分の力あるわざがいちばん多くなされた町々について、低みに立って見なおすに至らなかったことを非難し出した」と訳しています。この点について、同じく本田哲郎神父の『聖書を発見する』という著書で、「大事なのは、かってに悔い改めようとするのではなく、まずメタノイアする(視座を移してみる)ということです。今どんな立場、主義、主張であってもかまわない、傷みの響いているところに、そこに視座を移して、そこから現実を見てくださいということです。」このようにあります。メタノイアという言葉は、「~の上に」「~の後に」「~と共に」を意味する前置詞に「知性」や「思い」を意味するヌースという言葉がくっついたギリシャ語からきています。メタノイアとは、生き方全般の方向を転換することです。

 本田神父の指摘に従って読み直せば、コラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムに対する裁きの言葉は、八つ当たりなどではないことに気づかされます。この三つの町が問題ではないのです。求められているのは、それぞれの時代にあって、主イエスの視座に従って、自らの生き方の全般を批判的に捉え返すことに他ならないのです。今日のテキストは口調が厳しすぎるように感じますが、悔い改めが必要だという点はその通りです。

 ここで心に留めたいのは、他ならぬ主イエスの生き方である「低みに立って見なおす」ことに適っているか自己検証するようにとの促しが、今日のテキストの主眼なのではないでしょうか。つまり、これらの町が叱られていることを、自らのこととして受け止め直すことが求められているのではないでしょうか。確かに、わたしたちは、間違いを犯し続ける弱い存在です。しかし、そう開き直ってしまうとしたら、人間としての成長もなければ前進もありません。停滞し、心動くこともなく、時代精神の操り人形のようになってしまいます。

 主イエスがもたらす裁きは、滅びへと方向づけられるものではありません。はらわたが痛むほどの憐みによって(十字架刑に処せられるほどに)共にいることを貫かれた主イエスのお叱りの言葉は、ただ単なる裁きとしてではなく、恵みとして、また憐みとして聞くことができるのではないでしょうか。言葉の上っ面だけを読み取るならば、裁かれて終わりです。しかし、そうではないのです。裁きは、より良き道への促しであり、それゆえに救いなのです。そして、この裁きという救いは、これら三つの町だけに限定されているのではありません。すべての町に広がりゆくもの、誰にでも当てはまるものだと言えるのではないでしょうか。罪深く弱い存在であるわたしたちが、しかしそこに停滞することなく、神に向かって前進できるよう、視座を移せ、との叱咤激励です。

 この点に関してパウロは、コリントの信徒への手紙二 13章で述べています。すなわち、

13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。13:6 わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。13:7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。13:8 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。13:9 わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。

 ここで言う「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と、今日のテキストは共鳴しているのです。そしてさらに言うなら、マタイ福音書の11章19節の主イエスの「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」とのあり方への方向付けとなってくるのでしょう。

 主イエスの生き方の方向性とは、十字架に至るまで弱さや屈辱など「低みに立って見なおす」生き方を貫くことです。それゆえに裁きの前に立ちながらも「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」との生き方が、それぞれに用意されており、その責務をぬなって担っていることが約束されていることを信じることができるのです。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 この言葉を語られた方のゆえに裁きを恵みとして受け止めつつ歩むことへと招かれているのです。ここに、わたしたちのキリスト者としての生き方があるのです。

祈り

いのちの源である神!

今日は主イエスからの厳しい言葉を聞きました。

戸惑いを覚えますが、この中に隠された恵みと憐みを受け止める希望を与えてください。

時代精神の海に溺れてしまいそうなわたしたちを助けてください。

「悪より救い出だしたまえ」と祈りつつ歩ませてください。

主イエスにある「低みに立って見なおす」悔い改めの道を歩みたいと願っています。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                    アーメン。

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