« マタイによる福音書 11章20~24節 「何故イエスは町を叱ったのか?」 | トップページ | コリントの信徒への手紙二 4章16節「日毎に新しく」 »

2021年9月12日 (日)

マタイによる福音書 11章25~27節 「神の思いの向かうところ」

おはようございます。本日は、マタイによる福音書 11章25節から27節をテキストに「神の思いの向かうところ」という題で説教します。

 神の思いの向かうところはユダヤ教とキリスト教の場合、「神の選び」という理解から得られます。ただし、この「選び」という信仰理解は曲者で、「選民意識」に基づく覇権主義につながる非常に危険なものでもあります。旧約聖書を通して読んだ印象では、イスラエルは神の「選び」を誤解し、勘違いし続けてきたのではないかと思うのです。自分たちこそが神に「選ばれて」いることを根拠に他の宗教や民族に対して排他的になり、優越感に浸る傲慢さに溺れていったのではないかと思えます。それはイエスの時代にまで続いていたことは洗礼者ヨハネの裁きの説教からも分かります。マタイによる福音書3章7節以下です。

7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 つまり、「我々の父はアブラハムだ」という風に思い込むことができる自己理解から自由ではなかったということです。ユダヤ教としての宗教、イスラエル民族としての優越性に縛られていたのです。この点を洗礼者ヨハネの場合は、それでは不十分だとして問題視したのです。主イエスの場合は違うのですが、後で扱います。

 イスラエルの「選民意識」に支えられて侵略を正当化していく思想はヨシュア記にハッキリと示されています。出エジプトの後、カナンに入ってからしばらくは、問題が起こるたびに立てられる裁きや調停などの役割が与えられた「士師」と呼ばれる人々が活躍します。しかし、やがてイスラエルの民は王を欲しがるようになります。周りの国々を見て、民の支配者としての「権威」が欲しくなったのかもしれません。このあたりについてはサムエル記上8章に描かれています。民の要求に対して祭司サムエルは、もし王を立てたら王はあなたたちの息子を兵隊にとるぞ、王のために農作業させ、武器などを造らせるぞ。娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にするぞ。様々な畑を取り上げて家臣に分け与えるぞ。収穫物の十分の一も取り上げる。家畜の十分の一も取り上げる。戦力に徴用し、王のために働かせるぞ。結局、あなたたちは王の奴隷となるのだ。このように説明しても民は王を欲しがり、サムエルは折れて王を立てるのです。そしてできたこの王国はサウルからダビデ・ソロモンの王朝の繁栄に至ります。「選民意識」が王国の繁栄という、ひとつの到達点を得たのです。しかし、約70年の後には北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、やがて北王国がアッシリアに、少し遅れて南王国はバビロニアに破れ、イスラエルの指導者を中心にバビロニアに連れて行かれます。その後バビロニアがペルシャに滅ぼされ、捕囚の民イスラエルは帰ることが許されます。このバビロン捕囚の経験はイスラエルにとって、ある意味信仰を捉えなおす機会に成り得ました。イスラエルの自己理解は様々であり、一言でいうことは難しいですが、肝心な点は申命記7章6~8節にあると思います。

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

 イスラエルが神に選ばれたのは、他の国々や民族と比べて優れているとか財産があるとか武力が強いとか人数が多いとかではなかったのです。「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」からです。捕囚の経験は、それまでの他国への侵略を正当化する支えであった、わたしたちは優れている、「正しい」という思想に待ったをかけたのです。神がどこに目を留められたのかについては、申命記が指している出エジプトの出来事に対するあり方から分かります。出エジプト記のモーセの召命が描かれている3章6節以下に、こうあります。

6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

 このように「苦しみをつぶさに見」「叫び声を聞き」「その痛みを知った」神が、イスラエルを救い出したいとモーセを立てたのです。旧約聖書の証言する神は、「苦しみ」「叫び」「痛み」に共鳴する方なのです。この神が「インマヌエル」「神は我々と共におられる」として、具体的な一人の人となった事実こそが、イエス・キリストに他ならないのです。今日のマタイによる福音書11章27 節で、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」とあるのは、「苦しみ」「叫び」「痛み」に共鳴する神が、主イエスとしてこの世に来られたということであります。出エジプト記で「苦しみをつぶさに見」「叫び声を聞き」「その痛みを知った」神、また申命記で「他のどの民よりも貧弱であった」からイスラエルを選んだ神、この神がイエス・キリストとして人になったのです。そして、教会は主イエス・キリストを通してしか神に対する理解に至れないという限界をもつということが、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」の意味するところです。

 今や、神の意志は主イエス・キリストなのだということになります。この、主イエスの祈りの言葉が今日の箇書、11章25節から26節となります。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と祈り始めます。神への賛美であり、祈りであり、告白でもあるのですが、自らの使命が神の思いそのものだとの宣言、神の思いを引き受けたという宣言の言葉でもあります。この後「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と続けます。「これらのこと」とは何であるのかは特定できないと多くの聖書学者は指摘しています。しかし、それに続く「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」というのは常識や価値観や考え方の基礎をひっくり返すほどのことです。わたしたちの社会においては通常、専門家などその領域において優れているとされる人たちには権威があると考えられがちです。信仰においても同様です。しかし、そこには神の思いはない、「隠されている」というのです。「選民意識」の延長線上にあるとも言える、律法学者やファリサイ派、あるいは富んでいる者、権力者をはじめとする強いとされる立場には、神の思いは無いというのです。「幼子のような者にお示しになりました」とあります。「のような」は余計な翻訳であり、端的に「幼子ら」です。当時の感覚では、自分で何もすることのできない者であるとか一人前でないとか価値がないとか能力がないなどの感覚が強かったと思われます。ここでいう「幼子ら」という言葉によって示されるのは、「知恵ある者や賢い者」と正反対の人々が想定されています。いわば、抑圧・差別の対象とされ続けてきた下積み生活を余儀なくされた人たちです。罪人、徴税人、娼婦、病人など底辺に押しやられ、蔑まれた人たちにこそ、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という出来事が起こる、ということです。これが「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」の意味するところです。これは「山上の説教」の「幸い」の宣言とも共鳴します。この「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という出来事として、主イエスご自身が「御心にかなう」と宣言する祈りです。底辺に押しやられ蔑まれた人たちを積極的に、そして無条件に肯定する祈りとも言えます。

 この、主イエスの祈りによって、わたしたちは支えられており、生きるべき道が「知恵ある者や賢い者」たちではなく「幼子ら」の道にあって「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ことを知ることができるのです。そして神の思いに触れることへの促しを知るのです。「幼子ら」のあり方に立ち返るには、少々わたしたちは「知識」「プライド」「経験値」など、余計なものを身に付け過ぎてしまっているかも知れません。おそらく現代日本に生きるわたしたちは「知恵ある者や賢い者」の部類にいると思います。それでも、主イエスの言葉に立ち返りたいと願うのです。主イエス・キリスト以外の力や権威などを一切関係のない「幼子ら」として歩む道をお互いに模索していきたいと願うのです。わたしたちが「知恵ある者や賢い者」から「幼子ら」へと立ち位置を変換出来るよう寄り添うように、主イエスは今日も祈っているに違いないのです。

 「幼子ら」のあり方を八木重吉の一つの詩に聞いてみたいと思います。

さて/あかんぼは/なぜ あん あん あん あん/なくのだろうか/ほんとに/うるせいよ

あん あん あん あん/あん あん あん あん/うるさか ないよ/うるさか ないよ

よんでいるんだよ/かみさまをよんでるんだよ/みんなもよびな/あんなに しつっこくよびな

 このようにして主イエスの祈りによって、わたしたちは支えられていることを信じましょう。生きるべき道が「幼子ら」の道につらなりつつ、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」神の思いに応えるべく、主イエスへの呼びかけの祈りの道を歩んでいきましょう。

祈り

いのちの源である神!

「インマヌエル」「神は我々と共におられる」神の思いに応えるべく、祈りつつ歩ませてください。

余計な知恵をはぎ取り、純粋な信仰へと至らせてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                               アーメン。 

« マタイによる福音書 11章20~24節 「何故イエスは町を叱ったのか?」 | トップページ | コリントの信徒への手紙二 4章16節「日毎に新しく」 »

マタイによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« マタイによる福音書 11章20~24節 「何故イエスは町を叱ったのか?」 | トップページ | コリントの信徒への手紙二 4章16節「日毎に新しく」 »

無料ブログはココログ