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2021年9月19日 (日)

コリントの信徒への手紙二 4章16節「日毎に新しく」

 おはようございます。本日は、コリントの信徒への手紙二 4章16節をテキストに「日毎に新しく」という題で説教します。

 パウロは「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」と今日、高齢者の日礼拝において語りかけていることを確認しながらお話します。

 歳を重ねていくことには絶えず、マイナスのイメージがつきまとうことは否定できません。慢性的な病や体調の不良など若い日には起こらなかったであろうことが日常となってきます。身体の様々な働きが緩慢になり、鈍くなります。心や頭の働きのシャープさも衰えてくるでしょう。あるいは、訳もなくイライラしたり、老人性鬱、という症状が出てくるかもしれません。しかし、生活の繰り返しは続けられています。朝と夜の逆転があったり、時間が細切れになったり、リズムが崩れたりしたとしても、眠って起きる、という営みは続いているのです。死ぬことを聖書ではしばしば「眠る」と表現します。キリスト教会において死のことを「永眠」と表現する元となる考え方です。いわば、人は日毎に「眠り」という死のイメージから目覚めという誕生のイメージを繰り返しつつ、暮らしているのです。

 今日の聖書が語るのも、「外なる人」の衰えを感じる日々にあっても、目覚めにおいて「内なる人」が新鮮な事柄として新たにされるのだということです。創世記の天地創造神話において人は土くれから起こされたとあります。人の形にした土の塊の鼻に神が息を吹き入れたがゆえに、人は生きるものとされたのです。この事実をパウロは「土の器」と表現しています。この「土の器」に光である主イエス・キリストのいのちが注がれているがゆえに、わたしたちの今のいのちがあるのです。歳を重ねていけば、どこかしらに弱りが現れることもあるでしょうし、「衰え」も生じます。この事実をマイナス面だけに集中するのか、それとも別の可能性を求めるのかによって、そもそもの生きることへの態度が全く別のことになってくるのではないでしょうか。古びて朽ちていくだけと思うのか、それとも「日々新たにされていきます」と受け止めるかによって、人生の質はまったく方向が逆のこととして理解されるのです。

 「老人力」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは赤瀬川原平という芸術家が、1997年に使い始めたとされる考えです。通常、「物忘れが激しくなった」などを老化による衰えというマイナス思考があるのですが、これを「老人力がついてきた」というプラス思考へ転換する逆転の発想です。赤瀬川は「ボケも一つの新しい力なんだから、もっと積極的に、老人力、なんてどうだろう。いいねえ、老人力」とこの言葉を思いついたといいます。たとえば、

【ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、「あいつもかなり老人力がついてきたな」というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。】

 赤瀬川の芸術家としてのユーモアなのか本気なのかはハッキリしません。しかし、「衰え」をしっかりと受け止めつつも、マイナス評価で終わらせることではなくて、生きる積極性へと転じていく発想を感じ、なるほど、と共感します。誤解してはならないのが、これは「老人の力強さ」とか「老人の頑張り」、歳をとってもまだまだやれるとか、まだまだ若い者には負けない、ではないことです。「衰え」をきちんと「衰え」として受け止めているということです。体力や知力でも、「衰え」の現実を見つめているのです。ある種の人たちにとっては赤瀬川の主張は反感を買うものでもあり、当時、今もかもしれません。この歳を重ねることの現実を受け入れられない人は少なくなかったようです。「常識」や「良識」に囚われていれば仕方のないことなのかもしれません。しかし、「老人力」をマイナスにしか捉えることができないのは、心の狭さのゆえかもしれません。逆説的な意味合いを理解するユーモアが足りないのではないでしょうか。

 この高齢者にありがちな「衰え」にまつわる事柄を信仰的に捉えなおすことから、高齢者の祝福へと理解を整えるのが今日のテーマです。この「衰え」は信仰的にはマイナスではないということです。若い日の信仰理解は、他の事柄への理解同様「もっと知りたい」とか「もっとしっかり」とか「もっと深く」など「もっと」という何かしらを追い求める傾向が強いのではないでしょうか。いわば、余計なものや事柄を身にまとうことで、より豊かな信仰的な人間になっていくことを追及していくあり方です。しかし、信仰における「老人力」は、余計なものを剝いでいき純粋な、ピュアな方向へと向かうのです。かつてお付き合いしてきた、また今お付き合いしているところの高齢者の信仰のあり方から気づかされるのは、この点です。実感と言っても良いです。「衰え」の中にこそ、純粋な信仰が立ち現れてくるのです。様々なことは忘れても、一番大切な中心というか核が心の奥底に刻まれており、それが磨かれて輝いてきているのではないかということです。たとえば、認知力が落ちてきていても「主われを愛す」の讃美歌は忘れないという人は多くいらっしゃいます。慣れ親しんだということだけではなくて、この讃美歌に凝縮されているような「主われを愛す」現実に支えられているからだと思うのです。忘れられない主の恵みがあるということです。いわば、より若い者が新しい知識や経験を身に付けていく中で自分の信仰を確証するという道筋とは、唐突かもしれませんがダイアモンドのより大きな原石の荒々しさにたとえられるのではないでしょうか。年老いていく信仰者の態度は違うのです。

 信仰についても同じことが言えるのではないかというのが、ずっと感じ続けているところです。何人もの高齢者の信仰的な、中心を捉えた純粋なあり方に触れた経験から思うのです。若い時に様々な「良きもの」を身につけていくことでダイヤは大きくなっていき、しかし、今度はそれらを削っていくことで輝きが生まれてくる。そしてもちろん、形を整え磨いてくださるのは神に他なりません。記憶や気力、体力が「衰え」ていても、というよりもむしろ、であるからこそピュアであり、その人の病や不安や痛みのあるままで、その人らしさを貫かれているのです。神が人の人生の奥底にまで入り込み、神が人となった現実は軽やかな神のユーモアに満ちたものです。イエス・キリストの愛は、底が抜けるほどに奥深いものだからです。

讃美歌21の364番は、神のイメージを捉え返す努力を続けつつ実践している、ブライアン・レンによる歌詞です。この讃美歌は、神を様々な年代にたとえながら歌っています。4番の歌詞は以下のようにあります。「4.年老い弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解 限りなし。いざ、ホサナ、老いし主!」

 高齢に至る中で、余計なものを剝ぎ取り磨かれていく生き方としての信仰の姿がここにはあります。常識では、歳を重ね高齢化していくことのマイナス面だけに心が奪われてしまいます。しかし、それは根本的に間違っているのだと今日の高齢者の日礼拝で確認しておきたいのです。ここには、恵みと祝福が確実にあるのです。このような意味を踏まえていけば、今日の聖書の御言葉が働きつつ、語りかけていることに気が付くのです。すなわち「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と。これは、このままで受け止めるに十分な言葉です。添えて与えられる「配慮」「理解」「知恵」は、余計なものを剝ぎ取られてこそ意味が深められていくのです。知識は削ぎ落とされ知恵となり、「理解」は突き詰めていけば「真に理解することはできない」との受容になっていくのではないでしょうか。この「配慮」「理解」「知恵」とは、「常識」や「良識」の枠を超えた意味において逆説的に働くものです。だからこそ、説得的であり力強いのです。この点をこそ理解したいものです。「弱いからこそ強い」とのパウロの信仰理解とも共鳴します。

 歳を重ねることに対する痛みや不安は、肉体をもつ人間には避けられない厳しい事実として、ここにあります。実際、難しい病に侵されている方、絶えず不安にさいなまれている方、家族の不和の中にある方などの高齢の信仰者との出会いを経験してきました。多くの場合、何故ここまで心豊かでいられるのだろうかとの驚きがありましたし、今もそうです。しかし、それにもまして主にある信仰のゆえに純粋さは衰えることがないのです。それは、主イエス・キリストが共にいてくださるという信仰理解が、ただ単に頭で理解する教えに留まらず、日毎の生活において肉となるようにして染み込んでしまった純粋さに生かされているからなのではないかと思うのです。主イエス・キリストの信仰は、このようにして高齢者を日ごとに支え導くのだと思わされています。それゆえに、信仰のわたしたちはこの日にパウロの言葉に聴くことが許されているのです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と。ここで語られている、日毎に新たにされるいのちに恵みと祝福とが満たされていることについて感謝をもって信じ、ご一緒に祈りを合わせましょう。 

祈り

いのちの源である神!

歳を重ねつつ歩んで来られたお一人おひとりを顧み、祝福してください。

これまでのいのち、今のいのち、これらからのいのちに主イエス・キリストが共にいてくださる現実を感謝します。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                               アーメン。

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コメント

素晴らしいお説教だと思いました。そういえばわたしの父も、認知症がみられるようになっていますが、以前に比べてとてもピュアな人になっていっているのです。「余計なものが削ぎ落とされていく」のお言葉に、なぜ認知症が進みつつある父の信仰が輝き出したのかを理解できました。

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