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2021年9月

2021年9月26日 (日)

マタイによる福音書 11章28~30節 「招き」

 聖書に書かれてある「疲れた者、重荷を負う者」の重荷とは、現代の読み手であるわたしたちの解釈からすれば、日毎に立ち現れる様々な課題や困りごとや悩み、心に深く圧し掛かってくること全般だと理解されているのではないでしょうか。今、自分のすぐ前にあり、のしかかってきている課題全般としてです。ここで主イエスから与えられるのは、「休ませてあげよう」です。課題や困りごとや悩みなどを「取り除いてあげよう」、ではないのです。休息する中で、今一度冷静になって自分の今をしっかりと見つめ、確認し、別の物語や可能性がないのかを思いめぐらせる猶予期間が与えられるのです。「だれでもわたしのもとに来なさい。」と語る主イエスの元で一息つき、自らの重荷を客観視することで、実際以上に重く感じていた荷から余分なものを取り除き、そしてまた、傍らの主イエスから力をいただいて、新たに背負い直す力を与えられるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者」の現実自体は変わらなくても、「軛は負いやすく」「荷は軽い」と実感できる出来事を引き起こすのは、「インマヌエル」、主イエスが共にいてくださる現実に他なりません。「軛」とは、荷を引くために牛や馬に付ける道具ですが、二頭立てのものが一般的だったようです。であるならば、わたしの隣で共に荷を引くのは主イエスご自身です。このことを知らされた者は、主イエスの「柔和」と「謙遜」ゆえに、「重荷を負う」力が添えて与えられているのです。

 「休ませてあげよう」という言葉の持つ力、方向性は、聞き手の中で「主体性」が起こされていくということです。追い詰められた状況にある時、往々にして人は主体性を失いがちです。「主体性」とは、しっかりと自分で状況を観察し、考え、判断し、行動していくことです。そこには逃げることも含まれます。主イエスの寄り添いに対して「今この時」の応答の決断を為し、主イエスからの招きにより相応しい道へと歩んでいけばいいのです。

 わたしたちは、自分だけで躍起になって「疲れた者、重荷を負う者」として孤軍奮闘して、しばしばくずおれてしまう弱い存在なのかもしれません。しかし、共にいてくださる主イエスによって、主体的に担う力と勇気が備えられているのです。この方向に向かって主イエスはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と今日も語りかけているのです。 

2021年9月19日 (日)

コリントの信徒への手紙二 4章16節「日毎に新しく」

 おはようございます。本日は、コリントの信徒への手紙二 4章16節をテキストに「日毎に新しく」という題で説教します。

 パウロは「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」と今日、高齢者の日礼拝において語りかけていることを確認しながらお話します。

 歳を重ねていくことには絶えず、マイナスのイメージがつきまとうことは否定できません。慢性的な病や体調の不良など若い日には起こらなかったであろうことが日常となってきます。身体の様々な働きが緩慢になり、鈍くなります。心や頭の働きのシャープさも衰えてくるでしょう。あるいは、訳もなくイライラしたり、老人性鬱、という症状が出てくるかもしれません。しかし、生活の繰り返しは続けられています。朝と夜の逆転があったり、時間が細切れになったり、リズムが崩れたりしたとしても、眠って起きる、という営みは続いているのです。死ぬことを聖書ではしばしば「眠る」と表現します。キリスト教会において死のことを「永眠」と表現する元となる考え方です。いわば、人は日毎に「眠り」という死のイメージから目覚めという誕生のイメージを繰り返しつつ、暮らしているのです。

 今日の聖書が語るのも、「外なる人」の衰えを感じる日々にあっても、目覚めにおいて「内なる人」が新鮮な事柄として新たにされるのだということです。創世記の天地創造神話において人は土くれから起こされたとあります。人の形にした土の塊の鼻に神が息を吹き入れたがゆえに、人は生きるものとされたのです。この事実をパウロは「土の器」と表現しています。この「土の器」に光である主イエス・キリストのいのちが注がれているがゆえに、わたしたちの今のいのちがあるのです。歳を重ねていけば、どこかしらに弱りが現れることもあるでしょうし、「衰え」も生じます。この事実をマイナス面だけに集中するのか、それとも別の可能性を求めるのかによって、そもそもの生きることへの態度が全く別のことになってくるのではないでしょうか。古びて朽ちていくだけと思うのか、それとも「日々新たにされていきます」と受け止めるかによって、人生の質はまったく方向が逆のこととして理解されるのです。

 「老人力」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは赤瀬川原平という芸術家が、1997年に使い始めたとされる考えです。通常、「物忘れが激しくなった」などを老化による衰えというマイナス思考があるのですが、これを「老人力がついてきた」というプラス思考へ転換する逆転の発想です。赤瀬川は「ボケも一つの新しい力なんだから、もっと積極的に、老人力、なんてどうだろう。いいねえ、老人力」とこの言葉を思いついたといいます。たとえば、

【ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、「あいつもかなり老人力がついてきたな」というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。】

 赤瀬川の芸術家としてのユーモアなのか本気なのかはハッキリしません。しかし、「衰え」をしっかりと受け止めつつも、マイナス評価で終わらせることではなくて、生きる積極性へと転じていく発想を感じ、なるほど、と共感します。誤解してはならないのが、これは「老人の力強さ」とか「老人の頑張り」、歳をとってもまだまだやれるとか、まだまだ若い者には負けない、ではないことです。「衰え」をきちんと「衰え」として受け止めているということです。体力や知力でも、「衰え」の現実を見つめているのです。ある種の人たちにとっては赤瀬川の主張は反感を買うものでもあり、当時、今もかもしれません。この歳を重ねることの現実を受け入れられない人は少なくなかったようです。「常識」や「良識」に囚われていれば仕方のないことなのかもしれません。しかし、「老人力」をマイナスにしか捉えることができないのは、心の狭さのゆえかもしれません。逆説的な意味合いを理解するユーモアが足りないのではないでしょうか。

 この高齢者にありがちな「衰え」にまつわる事柄を信仰的に捉えなおすことから、高齢者の祝福へと理解を整えるのが今日のテーマです。この「衰え」は信仰的にはマイナスではないということです。若い日の信仰理解は、他の事柄への理解同様「もっと知りたい」とか「もっとしっかり」とか「もっと深く」など「もっと」という何かしらを追い求める傾向が強いのではないでしょうか。いわば、余計なものや事柄を身にまとうことで、より豊かな信仰的な人間になっていくことを追及していくあり方です。しかし、信仰における「老人力」は、余計なものを剝いでいき純粋な、ピュアな方向へと向かうのです。かつてお付き合いしてきた、また今お付き合いしているところの高齢者の信仰のあり方から気づかされるのは、この点です。実感と言っても良いです。「衰え」の中にこそ、純粋な信仰が立ち現れてくるのです。様々なことは忘れても、一番大切な中心というか核が心の奥底に刻まれており、それが磨かれて輝いてきているのではないかということです。たとえば、認知力が落ちてきていても「主われを愛す」の讃美歌は忘れないという人は多くいらっしゃいます。慣れ親しんだということだけではなくて、この讃美歌に凝縮されているような「主われを愛す」現実に支えられているからだと思うのです。忘れられない主の恵みがあるということです。いわば、より若い者が新しい知識や経験を身に付けていく中で自分の信仰を確証するという道筋とは、唐突かもしれませんがダイアモンドのより大きな原石の荒々しさにたとえられるのではないでしょうか。年老いていく信仰者の態度は違うのです。

 信仰についても同じことが言えるのではないかというのが、ずっと感じ続けているところです。何人もの高齢者の信仰的な、中心を捉えた純粋なあり方に触れた経験から思うのです。若い時に様々な「良きもの」を身につけていくことでダイヤは大きくなっていき、しかし、今度はそれらを削っていくことで輝きが生まれてくる。そしてもちろん、形を整え磨いてくださるのは神に他なりません。記憶や気力、体力が「衰え」ていても、というよりもむしろ、であるからこそピュアであり、その人の病や不安や痛みのあるままで、その人らしさを貫かれているのです。神が人の人生の奥底にまで入り込み、神が人となった現実は軽やかな神のユーモアに満ちたものです。イエス・キリストの愛は、底が抜けるほどに奥深いものだからです。

讃美歌21の364番は、神のイメージを捉え返す努力を続けつつ実践している、ブライアン・レンによる歌詞です。この讃美歌は、神を様々な年代にたとえながら歌っています。4番の歌詞は以下のようにあります。「4.年老い弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解 限りなし。いざ、ホサナ、老いし主!」

 高齢に至る中で、余計なものを剝ぎ取り磨かれていく生き方としての信仰の姿がここにはあります。常識では、歳を重ね高齢化していくことのマイナス面だけに心が奪われてしまいます。しかし、それは根本的に間違っているのだと今日の高齢者の日礼拝で確認しておきたいのです。ここには、恵みと祝福が確実にあるのです。このような意味を踏まえていけば、今日の聖書の御言葉が働きつつ、語りかけていることに気が付くのです。すなわち「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と。これは、このままで受け止めるに十分な言葉です。添えて与えられる「配慮」「理解」「知恵」は、余計なものを剝ぎ取られてこそ意味が深められていくのです。知識は削ぎ落とされ知恵となり、「理解」は突き詰めていけば「真に理解することはできない」との受容になっていくのではないでしょうか。この「配慮」「理解」「知恵」とは、「常識」や「良識」の枠を超えた意味において逆説的に働くものです。だからこそ、説得的であり力強いのです。この点をこそ理解したいものです。「弱いからこそ強い」とのパウロの信仰理解とも共鳴します。

 歳を重ねることに対する痛みや不安は、肉体をもつ人間には避けられない厳しい事実として、ここにあります。実際、難しい病に侵されている方、絶えず不安にさいなまれている方、家族の不和の中にある方などの高齢の信仰者との出会いを経験してきました。多くの場合、何故ここまで心豊かでいられるのだろうかとの驚きがありましたし、今もそうです。しかし、それにもまして主にある信仰のゆえに純粋さは衰えることがないのです。それは、主イエス・キリストが共にいてくださるという信仰理解が、ただ単に頭で理解する教えに留まらず、日毎の生活において肉となるようにして染み込んでしまった純粋さに生かされているからなのではないかと思うのです。主イエス・キリストの信仰は、このようにして高齢者を日ごとに支え導くのだと思わされています。それゆえに、信仰のわたしたちはこの日にパウロの言葉に聴くことが許されているのです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と。ここで語られている、日毎に新たにされるいのちに恵みと祝福とが満たされていることについて感謝をもって信じ、ご一緒に祈りを合わせましょう。 

祈り

いのちの源である神!

歳を重ねつつ歩んで来られたお一人おひとりを顧み、祝福してください。

これまでのいのち、今のいのち、これらからのいのちに主イエス・キリストが共にいてくださる現実を感謝します。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                               アーメン。

2021年9月12日 (日)

マタイによる福音書 11章25~27節 「神の思いの向かうところ」

おはようございます。本日は、マタイによる福音書 11章25節から27節をテキストに「神の思いの向かうところ」という題で説教します。

 神の思いの向かうところはユダヤ教とキリスト教の場合、「神の選び」という理解から得られます。ただし、この「選び」という信仰理解は曲者で、「選民意識」に基づく覇権主義につながる非常に危険なものでもあります。旧約聖書を通して読んだ印象では、イスラエルは神の「選び」を誤解し、勘違いし続けてきたのではないかと思うのです。自分たちこそが神に「選ばれて」いることを根拠に他の宗教や民族に対して排他的になり、優越感に浸る傲慢さに溺れていったのではないかと思えます。それはイエスの時代にまで続いていたことは洗礼者ヨハネの裁きの説教からも分かります。マタイによる福音書3章7節以下です。

7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 つまり、「我々の父はアブラハムだ」という風に思い込むことができる自己理解から自由ではなかったということです。ユダヤ教としての宗教、イスラエル民族としての優越性に縛られていたのです。この点を洗礼者ヨハネの場合は、それでは不十分だとして問題視したのです。主イエスの場合は違うのですが、後で扱います。

 イスラエルの「選民意識」に支えられて侵略を正当化していく思想はヨシュア記にハッキリと示されています。出エジプトの後、カナンに入ってからしばらくは、問題が起こるたびに立てられる裁きや調停などの役割が与えられた「士師」と呼ばれる人々が活躍します。しかし、やがてイスラエルの民は王を欲しがるようになります。周りの国々を見て、民の支配者としての「権威」が欲しくなったのかもしれません。このあたりについてはサムエル記上8章に描かれています。民の要求に対して祭司サムエルは、もし王を立てたら王はあなたたちの息子を兵隊にとるぞ、王のために農作業させ、武器などを造らせるぞ。娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にするぞ。様々な畑を取り上げて家臣に分け与えるぞ。収穫物の十分の一も取り上げる。家畜の十分の一も取り上げる。戦力に徴用し、王のために働かせるぞ。結局、あなたたちは王の奴隷となるのだ。このように説明しても民は王を欲しがり、サムエルは折れて王を立てるのです。そしてできたこの王国はサウルからダビデ・ソロモンの王朝の繁栄に至ります。「選民意識」が王国の繁栄という、ひとつの到達点を得たのです。しかし、約70年の後には北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、やがて北王国がアッシリアに、少し遅れて南王国はバビロニアに破れ、イスラエルの指導者を中心にバビロニアに連れて行かれます。その後バビロニアがペルシャに滅ぼされ、捕囚の民イスラエルは帰ることが許されます。このバビロン捕囚の経験はイスラエルにとって、ある意味信仰を捉えなおす機会に成り得ました。イスラエルの自己理解は様々であり、一言でいうことは難しいですが、肝心な点は申命記7章6~8節にあると思います。

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

 イスラエルが神に選ばれたのは、他の国々や民族と比べて優れているとか財産があるとか武力が強いとか人数が多いとかではなかったのです。「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」からです。捕囚の経験は、それまでの他国への侵略を正当化する支えであった、わたしたちは優れている、「正しい」という思想に待ったをかけたのです。神がどこに目を留められたのかについては、申命記が指している出エジプトの出来事に対するあり方から分かります。出エジプト記のモーセの召命が描かれている3章6節以下に、こうあります。

6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

 このように「苦しみをつぶさに見」「叫び声を聞き」「その痛みを知った」神が、イスラエルを救い出したいとモーセを立てたのです。旧約聖書の証言する神は、「苦しみ」「叫び」「痛み」に共鳴する方なのです。この神が「インマヌエル」「神は我々と共におられる」として、具体的な一人の人となった事実こそが、イエス・キリストに他ならないのです。今日のマタイによる福音書11章27 節で、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」とあるのは、「苦しみ」「叫び」「痛み」に共鳴する神が、主イエスとしてこの世に来られたということであります。出エジプト記で「苦しみをつぶさに見」「叫び声を聞き」「その痛みを知った」神、また申命記で「他のどの民よりも貧弱であった」からイスラエルを選んだ神、この神がイエス・キリストとして人になったのです。そして、教会は主イエス・キリストを通してしか神に対する理解に至れないという限界をもつということが、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」の意味するところです。

 今や、神の意志は主イエス・キリストなのだということになります。この、主イエスの祈りの言葉が今日の箇書、11章25節から26節となります。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と祈り始めます。神への賛美であり、祈りであり、告白でもあるのですが、自らの使命が神の思いそのものだとの宣言、神の思いを引き受けたという宣言の言葉でもあります。この後「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と続けます。「これらのこと」とは何であるのかは特定できないと多くの聖書学者は指摘しています。しかし、それに続く「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」というのは常識や価値観や考え方の基礎をひっくり返すほどのことです。わたしたちの社会においては通常、専門家などその領域において優れているとされる人たちには権威があると考えられがちです。信仰においても同様です。しかし、そこには神の思いはない、「隠されている」というのです。「選民意識」の延長線上にあるとも言える、律法学者やファリサイ派、あるいは富んでいる者、権力者をはじめとする強いとされる立場には、神の思いは無いというのです。「幼子のような者にお示しになりました」とあります。「のような」は余計な翻訳であり、端的に「幼子ら」です。当時の感覚では、自分で何もすることのできない者であるとか一人前でないとか価値がないとか能力がないなどの感覚が強かったと思われます。ここでいう「幼子ら」という言葉によって示されるのは、「知恵ある者や賢い者」と正反対の人々が想定されています。いわば、抑圧・差別の対象とされ続けてきた下積み生活を余儀なくされた人たちです。罪人、徴税人、娼婦、病人など底辺に押しやられ、蔑まれた人たちにこそ、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という出来事が起こる、ということです。これが「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」の意味するところです。これは「山上の説教」の「幸い」の宣言とも共鳴します。この「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という出来事として、主イエスご自身が「御心にかなう」と宣言する祈りです。底辺に押しやられ蔑まれた人たちを積極的に、そして無条件に肯定する祈りとも言えます。

 この、主イエスの祈りによって、わたしたちは支えられており、生きるべき道が「知恵ある者や賢い者」たちではなく「幼子ら」の道にあって「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ことを知ることができるのです。そして神の思いに触れることへの促しを知るのです。「幼子ら」のあり方に立ち返るには、少々わたしたちは「知識」「プライド」「経験値」など、余計なものを身に付け過ぎてしまっているかも知れません。おそらく現代日本に生きるわたしたちは「知恵ある者や賢い者」の部類にいると思います。それでも、主イエスの言葉に立ち返りたいと願うのです。主イエス・キリスト以外の力や権威などを一切関係のない「幼子ら」として歩む道をお互いに模索していきたいと願うのです。わたしたちが「知恵ある者や賢い者」から「幼子ら」へと立ち位置を変換出来るよう寄り添うように、主イエスは今日も祈っているに違いないのです。

 「幼子ら」のあり方を八木重吉の一つの詩に聞いてみたいと思います。

さて/あかんぼは/なぜ あん あん あん あん/なくのだろうか/ほんとに/うるせいよ

あん あん あん あん/あん あん あん あん/うるさか ないよ/うるさか ないよ

よんでいるんだよ/かみさまをよんでるんだよ/みんなもよびな/あんなに しつっこくよびな

 このようにして主イエスの祈りによって、わたしたちは支えられていることを信じましょう。生きるべき道が「幼子ら」の道につらなりつつ、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」神の思いに応えるべく、主イエスへの呼びかけの祈りの道を歩んでいきましょう。

祈り

いのちの源である神!

「インマヌエル」「神は我々と共におられる」神の思いに応えるべく、祈りつつ歩ませてください。

余計な知恵をはぎ取り、純粋な信仰へと至らせてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                               アーメン。 

2021年9月 5日 (日)

マタイによる福音書 11章20~24節 「何故イエスは町を叱ったのか?」

 おはようございます。本日は、マタイによる福音書 11章20節から24をテキストに「何故イエスは町を叱ったのか?」という題で説教します。

 今日の聖書は、読み手にとって戸惑ってしまう箇書の一つだろうと思われます。この裁きの記事を元にして「陰府」(≒地獄のイメージ)を持ち出して脅すような「伝道」を繰り返している教会もあるようですが、論外だと言っておきます。それにしても何故、このような厳しい言葉が語られているのでしょうか。聖書の学問的な発想からすれば、マタイ福音書の教団の「伝道」がベトサイダやカファルナウムで失敗したことを半ば八つ当たりのように語っているのが妥当かと思われます。しかし、そうなのでしょぅか?

 今日は、「何故イエスは町を叱ったのか?」というテーマを通してできるだけ主イエスの心への接近することを求めていきたいと思っています。テキストの概略を今一度確認してみます。主イエスが数多くの奇跡を行ったにもかかわらず、それに応える悔い改めを行わなかった町に対する裁きとなっています。コラジンとベトサイダは裁きの日にティルスやシドンよりも重い罰が与えられるとし、カファルナウムはソドムよりも重い、となるのです。

 ここで比較の対象とされている三つの町について簡単に説明しておきたいと思います。たとえば、ティルスについてはイザヤ書23章で、シドンについてはエゼキエル書26章から28章で、それぞれ異教に飲み込まれてしまっていることを非難することが描かれています。ソドムについては創世記19章で、神の前に正しい人がいない町とされています。いずれも神から離れてしまった、悪く酷い例としてここであげられています。今日の聖書では、コラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムがそれ以上の裁きの対象なのだというのです。しかし、これらの非難されている町がそれほど堕落し酷いものであったとは新約聖書からは読み取れません。カファルナウムは主イエスの初期の活動の拠点でもありました。コラジンはルカの並行記事があるだけです。ベトサイダでは奇跡を行った形跡はありますが、目立った反発を読み取ることはできません。そうすると、やはりコラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムに対する八つ当たりのように読めてきます。そこで、どのように解釈すべきかを考えるために、今日の聖書の前の部分から読んでみます。11章16節以下です。

11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 ここで例に挙げられているのは、おそらく当時の子どもたちの「ごっこ遊び」です。葬式ごっこでしょう。17節には、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」とあります。呼びかけたのに応じない様子が描かれています。これをたとえとして示し、洗礼者ヨハネの呼びかけには「あれは悪霊に取りつかれている」とあしらい、主イエスの呼びかけに対しても「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と切り捨ててしまう当時の時代精神のあり方を示しているのです。ですから、このすぐ後にくる今日の箇書は、コラジン、ベトサイダとカファルナウムという三つの町は、個別の非難ではなく、当時の状況の危機を理解出来ない人々の代表として語られているのではないかと思うのです。

 時代精神は、その時々の状況を空気のように支配しています。洗礼者ヨハネと主イエスの立ち位置や方向性は決定的に異なるものではありましたが、時代のあり方を批判しないことで容認していくことへの危機感に関しては、共有していたと思われます。

 この時代精神、もっと広く考えれば、その時代を空気のような共通の「当たり前」として、無自覚なまま疑うことすらしない状況に対して、必要なのは「悔い改め」なのだと言いたいのではないでしょうか。ただし、注意しなければならないのが、この「悔い改め」という言葉です。キリスト教では、「悔い改め」はパウロがそうであったように、他の宗教や考え方からキリスト教に「回心」することなのだと考えるのが一般的です。キリスト教徒になるとか、すでにキリスト教徒であるなら、より正しい方向に向かうことを意味します。しかし、ここで使われているのは、そのような意味での「悔い改め」ではありません。本田哲郎神父は今日の聖書の20節を「イエスは、自分の力あるわざがいちばん多くなされた町々について、低みに立って見なおすに至らなかったことを非難し出した」と訳しています。この点について、同じく本田哲郎神父の『聖書を発見する』という著書で、「大事なのは、かってに悔い改めようとするのではなく、まずメタノイアする(視座を移してみる)ということです。今どんな立場、主義、主張であってもかまわない、傷みの響いているところに、そこに視座を移して、そこから現実を見てくださいということです。」このようにあります。メタノイアという言葉は、「~の上に」「~の後に」「~と共に」を意味する前置詞に「知性」や「思い」を意味するヌースという言葉がくっついたギリシャ語からきています。メタノイアとは、生き方全般の方向を転換することです。

 本田神父の指摘に従って読み直せば、コラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムに対する裁きの言葉は、八つ当たりなどではないことに気づかされます。この三つの町が問題ではないのです。求められているのは、それぞれの時代にあって、主イエスの視座に従って、自らの生き方の全般を批判的に捉え返すことに他ならないのです。今日のテキストは口調が厳しすぎるように感じますが、悔い改めが必要だという点はその通りです。

 ここで心に留めたいのは、他ならぬ主イエスの生き方である「低みに立って見なおす」ことに適っているか自己検証するようにとの促しが、今日のテキストの主眼なのではないでしょうか。つまり、これらの町が叱られていることを、自らのこととして受け止め直すことが求められているのではないでしょうか。確かに、わたしたちは、間違いを犯し続ける弱い存在です。しかし、そう開き直ってしまうとしたら、人間としての成長もなければ前進もありません。停滞し、心動くこともなく、時代精神の操り人形のようになってしまいます。

 主イエスがもたらす裁きは、滅びへと方向づけられるものではありません。はらわたが痛むほどの憐みによって(十字架刑に処せられるほどに)共にいることを貫かれた主イエスのお叱りの言葉は、ただ単なる裁きとしてではなく、恵みとして、また憐みとして聞くことができるのではないでしょうか。言葉の上っ面だけを読み取るならば、裁かれて終わりです。しかし、そうではないのです。裁きは、より良き道への促しであり、それゆえに救いなのです。そして、この裁きという救いは、これら三つの町だけに限定されているのではありません。すべての町に広がりゆくもの、誰にでも当てはまるものだと言えるのではないでしょうか。罪深く弱い存在であるわたしたちが、しかしそこに停滞することなく、神に向かって前進できるよう、視座を移せ、との叱咤激励です。

 この点に関してパウロは、コリントの信徒への手紙二 13章で述べています。すなわち、

13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。13:6 わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。13:7 わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。13:8 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。13:9 わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。

 ここで言う「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と、今日のテキストは共鳴しているのです。そしてさらに言うなら、マタイ福音書の11章19節の主イエスの「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」とのあり方への方向付けとなってくるのでしょう。

 主イエスの生き方の方向性とは、十字架に至るまで弱さや屈辱など「低みに立って見なおす」生き方を貫くことです。それゆえに裁きの前に立ちながらも「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」との生き方が、それぞれに用意されており、その責務をぬなって担っていることが約束されていることを信じることができるのです。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 この言葉を語られた方のゆえに裁きを恵みとして受け止めつつ歩むことへと招かれているのです。ここに、わたしたちのキリスト者としての生き方があるのです。

祈り

いのちの源である神!

今日は主イエスからの厳しい言葉を聞きました。

戸惑いを覚えますが、この中に隠された恵みと憐みを受け止める希望を与えてください。

時代精神の海に溺れてしまいそうなわたしたちを助けてください。

「悪より救い出だしたまえ」と祈りつつ歩ませてください。

主イエスにある「低みに立って見なおす」悔い改めの道を歩みたいと願っています。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                    アーメン。

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