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2021年8月29日 (日)

ローマの信徒への手紙 10章5~13節 「主の名を呼び求める者」 井谷 淳

 私達は普段教会に来て聖書の福音を学んでいます。キリスト教会の「主題」の一つとして各人の方の救済という事が挙げられます。私も救われたいという想いの中で決意し、洗礼を受け現在まで至るのですが、受洗式の前日「果たして私のような者が救われていくのであろうか?」という疑問と不安感で心が満ちていました。皆様は如何でしょうか。果たして私が救われてゆくのであろうか?という不安をお持ちになった事はないでしょうか。救われてゆく為に何か資格や条件が必要になってくるのでしょうか?先に答えを申し上げると社会的に特化された資格や条件は何も必要ありません。ただ一つ必要な条件がもしあるとすればキリスト・イエスを「主」であると心から認める事であります。  

 そしてもう一つ付け加えるならば言葉或いは、「他の手段」(事情をお持ちで言葉での信仰告白が困難な方を含みます。)主イエスが「主」であるという事の「意志表明」を公の場所で行う事であります。この公の場所というのは教会だけには限定されません。礼拝司式の最後の項目に「派遣」という言葉がございますが、この「派遣」は日常的な社会生活の様々な場面で信仰者の方々が教会内と同様に信仰告白をしてゆく事を言い表しています。家庭、職場、学校、趣味の集まり、地域共同体等の人間が寄り集う場所でキリスト・イエスの存在が「主」であるという確信を様々な立場の方々に言い表してゆく行為を表している言葉であります。本日の箇所の最後の文節である13節に「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」とあります。教会外の状況においても主であるキリスト・イエスに絶対的な信を置く御自身の信仰を公にしてゆく行為は、「証」として大きな意味があるのです。本日の「主題」はこの必要な条件である信仰告白の持つ意味について考えてゆきましょう

 私達の集うプロテスタント教会には3つの柱になる主義があり、その一つが「万人祭司制度」という在り方であります。洗礼を受けた信仰者各々の方が、生活状況の中において主体的に伝道行為を行ってゆく責務がある事を表しているのです。私達が非キリスト者の方々へ自分の信仰を告白してゆく場合、その方々が主イエスに対して思いを寄せる事もありましょう、御自身の在り方を、非キリスト者の方に「自己開示」してゆく事に大きな意味が在り、時には非キリスト者の方にとっても大きな救いへの扉になるのかも知れません。本日の聖書箇所の冒頭の小見出しには「万人の救い」と記載されています。 

 万人の救いは、世における救済の共有であります。このように教会の外の日常において信仰告白をしてゆく行為は私達キリスト者のみではなく、非キリスト者の方々とも、救いを共有してゆく行為に連なるのであります。しかし「信仰」とは求められる宗教的行為を強制的にしなければならないという事ではありません。信仰は「持たされるものではなく」、教会も無論、強制的に来なければいけない場所ではありません。御自身の中で何故イエスが主であるかと主体的に認められるか否かが問われるのみであります。 

 この事を踏まえた上で再び、本日の聖書箇所に目を通しましょう。本日の箇所に二つ、「義」という言葉に対して「律法による義」(5節)と「信仰による義」(6節)という言葉が出てまいります。「律法」「信仰」それぞれの特質を検証してまいりましょう。

 「律法」の存在は私達に、表面的には罪を犯させない様な私達を作り挙げる為の「機能」を果たしますが、その結果として罪を犯した人間を、裁きの量りに掛け断罪し、社会共同体の中から排除してゆきます。しかしこの排除という裁きのみでは罪を犯した人間の救いはなりたちません。人間は断罪されてゆくだけでは、罪の本質に対する認識が困難なのであります。そして罪の本質に対する認識がなければ救いも成立しません。そもそも[罪]という概念自体が時代において変容してしまうものであり、罪とされている事柄が何故に罪であるのかという本質的な問い掛けを私達に促してゆく機能は律法の中には存在しないのです。 

 人間は創世記にありますように罪を犯してゆく生物であります。神のいいつけに反して禁断の果実を食べてしまい、その罪深さの故にエデンを追放されたのであります。その意において、律法の存在は神が人間の罪深さを予め御存知で、時の預言者の口を介し、罰則規定を、律法の中に織り込んだものであります。しかしこの律法の運用のみでは人間存在の根源的な救済が成し得ないと主なる神は御判断されたのであります。時代を重ねるに連れて人間の社会の有様や、人間の営みを御覧になり、心を痛められ、御子イエスを世に遣わされたのであります。律法の性質と社会的機能についてここまで御一緒に考えて参りましたが、次は「信仰」について伴にお考え頂きたいと存じます。

 旧約聖書中に「逃れの街」(民数記9節~34節)という箇所が存在するように、過失であれ故意な出来事であれ、人間は必ず罪を犯してゆく事を神は良くご存知なのです。罪に対して無自覚であるのも問題でありますが、別の問題は人間が自分自身の罪深さに開き直り、罪を確信的に重ねてゆく事であります。確信的に罪を重ねてゆく人間は、罪意識への感覚が鈍磨し、罪を罪として認識してゆかなくなります。

 主イエスの時代は正にこの自覚している罪を確信的に繰り返してしまう人間が多数存在していました。自覚的に罪を繰り返す者、また無自覚に罪を犯してゆく者をも含め、主なる神は心を痛め、またお怒りになられました。それ故に独り子であられる私達の主イエスを世に遣わされ、また十字架にお上りに成らせたのであります。「主の名を呼び求める者は、すべて救われる。」(13節)とあるように、救済の在り方はこの各々の罪の在り方を認識し、主イエスが十字架にお上りにならねばならなかった「原因」が私達一人一人の責任に帰せられる事であると、覚えてゆく事から始まってゆくのです。   

「信仰告白」は私達、告白者の「罪責告白」と同義であるとも言えましょう。私達の罪深さの故に「主」が十字架にお上りになられ、罪の認識を促され、それまでの人間の営みの在り方に嘆きと怒りを覚えられていた神のお気持ちを静められたのであります。その意味において信仰とは罪の本質に対して「気付き」を促すのと同時に「赦し」をも促すものであります。

 12節に「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と述べられています。自分自身の罪責を認識し、改めてゆく行為から本当の豊かな人生は始まってゆくのです。自分自身の罪を検証してゆく行為は、隣人の罪を理解し許してゆく行為にも連なってゆきます。巷に「自己肯定感」という言葉が流布していますが、本当の自己肯定は自分自身のそれまでの罪を認識し、新しい人生の扉を開けてゆく行為の中にあります。自分自身の罪深さを認め、主イエスに罪の認識と回心の決意を伝えて行くことにより、新しい人生への導きが日々与えられてゆくのです。また自分自身の罪から解放されてゆく事は隣人を裁き、断罪してゆく行為からの解放をも意味します。本当の自己肯定は「互いに裁き合うという檻」から自分自身を解放し、他者の方の罪を許してゆく事をも含まれているのであります。 

 12節の冒頭部分には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と述べられています。他者の在り方を理解し、自分と異なる文化の違いを安易に裁いてしまうような精神構造から離れよ、という意であります。また、「すべての人が豊かに恵まれる」社会の在り方は、他者理解と多様性を重んじた社会であり、容易に自分の量りの中で隣人の在り方を裁かず、容認し、共生してゆける人間同士の営みの在り方を主イエスは望んでおられるのです。そしてお互いに「許しあい支えあえる自分自身」のありかたは自己の罪認識からはじまってゆくのです。

 13節の「主の名を呼び求める」行為は私達の罪の為に十字架に御昇りになられた主イエスを覚え罪の赦しを乞い、回心の決意を日々新たにして行く行為であり、この行為により私達は様々な気付きを与えられてゆくのです。私達が受洗してから時間が経っていたとしても、日々心新たにして主イエスへの信仰告白を致しましょう。宣べ伝えていく行為が、私達自身の罪を再検証してゆく力、そして問題を乗り越える気付きを私達自身に与えてゆくのです。私達が日々祈りの中で、主イエスが必ず私達が、今現在必要としている何かに対して答えをくださり私達の心を満たし、困難に立ち向かう力を与えてくださる事を覚えつつ、この一週間が守られてゆくように共にお祈りいたしましょう。            お祈りをいたします。       

祈り  

御在天の父なる神様、本日は貴方が世に遣わされた御子、主イエスへの信仰について改めて考える時を頂きました。私達が置かれている生活の座の中で予期せぬ形で様々な問題に直面する事があっても、主イエスが伴におられ、私達の嘆き、苦しみ、喜びを共に担って頂き、共に歩んでいただいている事を覚え、常に謙虚な心でいられる様な私達へとお導き下さい。病で苦しんでおられる方、様々な労苦により孤独な時を過ごしておられる方々 理不尽な現実と闘ってゆかねばならない方々の上に貴方の導きと、守りがありますようにお導きください。この後の礼拝もどうか最後までお守り下さい。尊き主イエスの御名を通し、この祈り 御前にお献げいたします。 アーメン。

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