マタイによる福音書10章32~33節 「イエスの仲間として」
おはようございます。本日は、マタイによる福音書10章32~33節をテキストにして「イエスの仲間として」という題で説教します。
わたしたちは、聖書の証言する主イエス・キリストだけに本当があると信じています。キリスト者であるという生き方は、心の中という内面に閉じられたものではありません。この方から、どのように祈るべきか、どのように考えるべきか、どのように行動すべきなのか、など生きることの全般的なあり方の方向付けを受けることから始めるのです。主イエス・キリストを信じるということは、どのように生きるかを主イエス・キリストの導きに委ねつつ、同時に決断をもって歩み続けていくことです。
創世記神話の中で、アダムとエバは、エデンの園の禁断の木の実を食べたことによって、自分たちが裸であることを恥ずかしく思うようになり、神から身を隠しました。この二人に、神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけます。この問いは、現代のわたしたちにも向けられたものであり、教会は、これに絶えず応答していく責任があるということです。
初期キリスト教の伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙10章10節で「 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と語っています。ここで言われる「口で公に言い表して」とは、ただ単に「わたしは主イエス・キリストを信じています」と誰かに言うというような狭い意味ではなくて、もっと広く他者や社会に向かう責任的な生き方全体を表わしていると理解した方がいいだろうと思います。
今日の聖書のマタイによる福音書10章32から33節をもう一度読んでみます。 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」これは、自分が主イエスの仲間であることを認識し、認め、公けに告白することをするかどうかによって、神の側から認められるのか、あるいは拒絶されるのか、という問題設定になっています。つまり、二者択一が迫られているのです。主イエスの仲間であると認めるのか、それとも否定するのか、と。そして、否定した者は主イエスから拒絶されるのだというのです。マタイによる福音書は、書かれた教会の状況が大きな理由だと思われますが、大変厳しい言い方が多く見られます。たとえば、7章では、「主よ、主よ」と呼びかけるだけではダメで「わたしの天の父の御心を行う者だけ」が認められ、これ以外は「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」と言われます。また、13章の「毒麦のたとえ」の説明の部分では、「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」とあります。さらに、15章の「十人のおとめ」のたとえでは油を用意していた5人と用意していない5人が対比され、用意を怠っていた5人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と拒絶されるのです。
マタイ福音書の教会は、23章で律法学者とファリサイ派に対して非常に厳しい言葉を投げかけると同時に、自分たちと意見や考え方の異なる諸教会に向かっても敵対心をもっていたのです。つまり、自分たちこそがまことのイスラエルであるとの自己理解があり、敵対する人々に対し自らの正しさ、正統性をかなり独善的に主張していたと思われます。これらは、マタイによる福音書を読む時に注意しておかなければならない点です。しかし、この事情を踏まえてもなお、「自分たちが本当に主イエス・キリストに相応しい言葉に支えられた行いをしているのか」という自己検証の態度には学ぶべき点があります。自分たちは、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」との生き方に徹しているのか、という問いです。これは他のキリスト者や教会に向けられる前に、まず自らを問う問いとして必要な事柄だと思います。
今日は8月15日で、いわゆる「終戦記念日」です。先々週の「平和聖日」において、戦争協力のために「日本基督教団」が成立したことについて簡単に触れました。この戦争協力の反省を踏まえて「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦責告白」のこともお話ししました。この「戦責告白」を導くものとして、今日の聖書「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」を読みたいと思います。「わたしはイエスの仲間である」と宣言できるのは、マタイ福音書の中心的テーマである「インマヌエル」「神が我々と共におられる」に支えられるからこそです。それは、十字架の道行きに至る生前の主イエスの生き方から、「平和を実現する人々は幸い」であり、「地の塩」「世の光」であるとの宣言のもとに立つことです。主イエスに相応しい生き方の捉えなおしでもあります。
主イエスが十字架刑に処せられたのは、より弱く小さくされ、また「罪人」と断罪され、当時の社会から排除された、すなわち「人権」を剥奪された人たちを、いのちの尊さと豊かさに立ち返らせ、生き直しへと導いたからでした。教会は、この主イエスにしっかりとつながることによって、その時代時代のただ中にあっての相応しさを自己検証することが必要なのです。このことは、ただ単に口先のことに留まらず、教会が、立ちもすれば倒れもするギリギリの地点においてどのような決断を為すのか、ということです。
この意味において、「日本基督教団」は国家権力の暴力に抗うことができず、むしろ積極的に戦争協力するという、敗北してきた「罪」の歴史を担い続けていることを告白することが必要です。いわゆる「戦責告白」もこのための一つの試みですが、やはりこの点については何度も引用をして恐縮なのですが、いわゆる「バルメン宣言」が重要であると思われます。正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」です。1934年5月29~30日に開かれた会議によって採択されたものです。六項目からなっていますが、今日は第1項から引用します。
第1項から
聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。
教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。
これを踏まえて、今日の聖書を理解するならば、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」こととは、この世の権力や習慣などに教会が忖度することなく、愚直に「イエスは主である」と身をもって証ししていくことに他ならないのだということではないかと思います。ここにこそ、わたしたちが主イエスの群れとして、また一人ひとりとして、主イエスの仲間であるように振る舞っていく道への招きが今のこととして語られているのではないでしょうか。ここに立ち続けることに対する感謝と勇気が与えられるように祈るものです。
バルメン宣言第1項は、教会はただ一人である主イエス・キリストだけを主と受け止めています。すなわち、この主イエスは、天においても地においても統べ納めている方なのであるから、この世の権力の一切は相対化されるという視点が与えられているということです。神に成り替わるかのように見えるもの、振る舞うものを察知すべく疑うことを辞めないのです。「神の唯一の御言葉」にのみ依り頼むとは、ここまでの徹底した立場が求められるのです。マタイによる福音書20章20節以下によれば、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子のことを、王座に着いた時に一人はあなたの右に、もう一人は左にと願った物語があります。結論部分は、20章25節以下にあります。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあります。仕えることにおいて主である方の示す方向は、この世の秩序や権力を相対化するのです。この世の華々しさも権力の強さもイエス・キリストの神の前では無力とされるのだという信仰によって、より相応しい道へと導かれる可能性に開かれているのです。今生かされている根拠としての<いのち>にあっては、神の御言葉がすべてだということです。この神の御言葉に並ぶものはなく、権力にまつわるあらゆる力ある事柄や出来事さえも、承認することはないという立場なのです。わたしたちが、「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者」であるのか否かが問われているのです。「わたしの仲間」とは、教会の内側にのみ閉じられたことではありません。開かれていくものであり、開かれ続けていくものです。
この点に対して、反省的に語られた言葉を思い起こします。ナチス支配に抵抗した牧師のひとりである、マルティン・ニーメラーの言葉によって、主イエスの仲間になっていく道の広がりを確認しておきたいと思います。
ナチスが共産主義を攻撃したとき、私は自分のことが多少不安だったが、共産主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチスは社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチスによって学校が、新聞が、ユダヤ人が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチスはついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それでは遅すぎた。
主イエスがそうであったように、生きている場の枠を乗り越えてでも、「それでは遅すぎた」とならないために今、より弱くされ、小さくされた人々の仲間となる道を歩みたいと願うものです。非常に困難な道に見えます。しかし、小さな一歩から始めればいいのです。日常の出来事における小さな判断の積み重ねが、その道を作っていくのです。たとえば、誰かを非難する言葉にに触れたとき。たとえば、人権に関する法律が「改正」されようとするとき。権力が他者の言動が、誰かを排除するものとなっていないか、思い巡らす、その一手間が、判断の感性を磨いていくと思うのです。
いわゆる「終戦記念日」において、主イエスの仲間になっていくことへの思いを整えることは、平和を求め祈り、行動していくことと別のことでは決してありません。小さなことから始めていけばいいのです。
アダムとエバが、知恵を与えられることで傲慢な心になり、素直に神に従う道を外れたことを思い起こします。神は「あなたはどこにいるのか」と問われました。この問いは、神に対する信頼・信仰に対して身をもって生きているか、ということです。「あなたはどこにいるのか」という問いに対して、自分たちの位置、群れとしての位置を自己検証しながら、「主イエスの仲間なのです」と応えていく者、その群れでありたいと願います。それは、その前にまず、主イエス自らが仲間となってくださり、「インマヌエル」「神が我々と共におられる」という現実に支えられているのだと信じるからです。
祈り
いのちの源である、主イエス・キリストの神!
主イエスの仲間として召されている事実に驚きと同時に感謝します。
主イエスが寄り添うことではじめて、わたしたちは仲間にあることの意味が知らされました。
主イエスに倣いつつ、歩む者とさせてください。平和を実現する者としてください。
この祈りを、平和の主イエス・キリストの御名によってささげます。アーメン。
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