« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »

2021年8月

2021年8月29日 (日)

ローマの信徒への手紙 10章5~13節 「主の名を呼び求める者」 井谷 淳

 私達は普段教会に来て聖書の福音を学んでいます。キリスト教会の「主題」の一つとして各人の方の救済という事が挙げられます。私も救われたいという想いの中で決意し、洗礼を受け現在まで至るのですが、受洗式の前日「果たして私のような者が救われていくのであろうか?」という疑問と不安感で心が満ちていました。皆様は如何でしょうか。果たして私が救われてゆくのであろうか?という不安をお持ちになった事はないでしょうか。救われてゆく為に何か資格や条件が必要になってくるのでしょうか?先に答えを申し上げると社会的に特化された資格や条件は何も必要ありません。ただ一つ必要な条件がもしあるとすればキリスト・イエスを「主」であると心から認める事であります。  

 そしてもう一つ付け加えるならば言葉或いは、「他の手段」(事情をお持ちで言葉での信仰告白が困難な方を含みます。)主イエスが「主」であるという事の「意志表明」を公の場所で行う事であります。この公の場所というのは教会だけには限定されません。礼拝司式の最後の項目に「派遣」という言葉がございますが、この「派遣」は日常的な社会生活の様々な場面で信仰者の方々が教会内と同様に信仰告白をしてゆく事を言い表しています。家庭、職場、学校、趣味の集まり、地域共同体等の人間が寄り集う場所でキリスト・イエスの存在が「主」であるという確信を様々な立場の方々に言い表してゆく行為を表している言葉であります。本日の箇所の最後の文節である13節に「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」とあります。教会外の状況においても主であるキリスト・イエスに絶対的な信を置く御自身の信仰を公にしてゆく行為は、「証」として大きな意味があるのです。本日の「主題」はこの必要な条件である信仰告白の持つ意味について考えてゆきましょう

 私達の集うプロテスタント教会には3つの柱になる主義があり、その一つが「万人祭司制度」という在り方であります。洗礼を受けた信仰者各々の方が、生活状況の中において主体的に伝道行為を行ってゆく責務がある事を表しているのです。私達が非キリスト者の方々へ自分の信仰を告白してゆく場合、その方々が主イエスに対して思いを寄せる事もありましょう、御自身の在り方を、非キリスト者の方に「自己開示」してゆく事に大きな意味が在り、時には非キリスト者の方にとっても大きな救いへの扉になるのかも知れません。本日の聖書箇所の冒頭の小見出しには「万人の救い」と記載されています。 

 万人の救いは、世における救済の共有であります。このように教会の外の日常において信仰告白をしてゆく行為は私達キリスト者のみではなく、非キリスト者の方々とも、救いを共有してゆく行為に連なるのであります。しかし「信仰」とは求められる宗教的行為を強制的にしなければならないという事ではありません。信仰は「持たされるものではなく」、教会も無論、強制的に来なければいけない場所ではありません。御自身の中で何故イエスが主であるかと主体的に認められるか否かが問われるのみであります。 

 この事を踏まえた上で再び、本日の聖書箇所に目を通しましょう。本日の箇所に二つ、「義」という言葉に対して「律法による義」(5節)と「信仰による義」(6節)という言葉が出てまいります。「律法」「信仰」それぞれの特質を検証してまいりましょう。

 「律法」の存在は私達に、表面的には罪を犯させない様な私達を作り挙げる為の「機能」を果たしますが、その結果として罪を犯した人間を、裁きの量りに掛け断罪し、社会共同体の中から排除してゆきます。しかしこの排除という裁きのみでは罪を犯した人間の救いはなりたちません。人間は断罪されてゆくだけでは、罪の本質に対する認識が困難なのであります。そして罪の本質に対する認識がなければ救いも成立しません。そもそも[罪]という概念自体が時代において変容してしまうものであり、罪とされている事柄が何故に罪であるのかという本質的な問い掛けを私達に促してゆく機能は律法の中には存在しないのです。 

 人間は創世記にありますように罪を犯してゆく生物であります。神のいいつけに反して禁断の果実を食べてしまい、その罪深さの故にエデンを追放されたのであります。その意において、律法の存在は神が人間の罪深さを予め御存知で、時の預言者の口を介し、罰則規定を、律法の中に織り込んだものであります。しかしこの律法の運用のみでは人間存在の根源的な救済が成し得ないと主なる神は御判断されたのであります。時代を重ねるに連れて人間の社会の有様や、人間の営みを御覧になり、心を痛められ、御子イエスを世に遣わされたのであります。律法の性質と社会的機能についてここまで御一緒に考えて参りましたが、次は「信仰」について伴にお考え頂きたいと存じます。

 旧約聖書中に「逃れの街」(民数記9節~34節)という箇所が存在するように、過失であれ故意な出来事であれ、人間は必ず罪を犯してゆく事を神は良くご存知なのです。罪に対して無自覚であるのも問題でありますが、別の問題は人間が自分自身の罪深さに開き直り、罪を確信的に重ねてゆく事であります。確信的に罪を重ねてゆく人間は、罪意識への感覚が鈍磨し、罪を罪として認識してゆかなくなります。

 主イエスの時代は正にこの自覚している罪を確信的に繰り返してしまう人間が多数存在していました。自覚的に罪を繰り返す者、また無自覚に罪を犯してゆく者をも含め、主なる神は心を痛め、またお怒りになられました。それ故に独り子であられる私達の主イエスを世に遣わされ、また十字架にお上りに成らせたのであります。「主の名を呼び求める者は、すべて救われる。」(13節)とあるように、救済の在り方はこの各々の罪の在り方を認識し、主イエスが十字架にお上りにならねばならなかった「原因」が私達一人一人の責任に帰せられる事であると、覚えてゆく事から始まってゆくのです。   

「信仰告白」は私達、告白者の「罪責告白」と同義であるとも言えましょう。私達の罪深さの故に「主」が十字架にお上りになられ、罪の認識を促され、それまでの人間の営みの在り方に嘆きと怒りを覚えられていた神のお気持ちを静められたのであります。その意味において信仰とは罪の本質に対して「気付き」を促すのと同時に「赦し」をも促すものであります。

 12節に「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と述べられています。自分自身の罪責を認識し、改めてゆく行為から本当の豊かな人生は始まってゆくのです。自分自身の罪を検証してゆく行為は、隣人の罪を理解し許してゆく行為にも連なってゆきます。巷に「自己肯定感」という言葉が流布していますが、本当の自己肯定は自分自身のそれまでの罪を認識し、新しい人生の扉を開けてゆく行為の中にあります。自分自身の罪深さを認め、主イエスに罪の認識と回心の決意を伝えて行くことにより、新しい人生への導きが日々与えられてゆくのです。また自分自身の罪から解放されてゆく事は隣人を裁き、断罪してゆく行為からの解放をも意味します。本当の自己肯定は「互いに裁き合うという檻」から自分自身を解放し、他者の方の罪を許してゆく事をも含まれているのであります。 

 12節の冒頭部分には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と述べられています。他者の在り方を理解し、自分と異なる文化の違いを安易に裁いてしまうような精神構造から離れよ、という意であります。また、「すべての人が豊かに恵まれる」社会の在り方は、他者理解と多様性を重んじた社会であり、容易に自分の量りの中で隣人の在り方を裁かず、容認し、共生してゆける人間同士の営みの在り方を主イエスは望んでおられるのです。そしてお互いに「許しあい支えあえる自分自身」のありかたは自己の罪認識からはじまってゆくのです。

 13節の「主の名を呼び求める」行為は私達の罪の為に十字架に御昇りになられた主イエスを覚え罪の赦しを乞い、回心の決意を日々新たにして行く行為であり、この行為により私達は様々な気付きを与えられてゆくのです。私達が受洗してから時間が経っていたとしても、日々心新たにして主イエスへの信仰告白を致しましょう。宣べ伝えていく行為が、私達自身の罪を再検証してゆく力、そして問題を乗り越える気付きを私達自身に与えてゆくのです。私達が日々祈りの中で、主イエスが必ず私達が、今現在必要としている何かに対して答えをくださり私達の心を満たし、困難に立ち向かう力を与えてくださる事を覚えつつ、この一週間が守られてゆくように共にお祈りいたしましょう。            お祈りをいたします。       

祈り  

御在天の父なる神様、本日は貴方が世に遣わされた御子、主イエスへの信仰について改めて考える時を頂きました。私達が置かれている生活の座の中で予期せぬ形で様々な問題に直面する事があっても、主イエスが伴におられ、私達の嘆き、苦しみ、喜びを共に担って頂き、共に歩んでいただいている事を覚え、常に謙虚な心でいられる様な私達へとお導き下さい。病で苦しんでおられる方、様々な労苦により孤独な時を過ごしておられる方々 理不尽な現実と闘ってゆかねばならない方々の上に貴方の導きと、守りがありますようにお導きください。この後の礼拝もどうか最後までお守り下さい。尊き主イエスの御名を通し、この祈り 御前にお献げいたします。 アーメン。

2021年8月22日 (日)

マタイによる福音書11章2~19節 「つまずかないために」

 おはようございます。本日は、マタイによる福音書11219節をテキストにして「つまずかないために」という題で説教します。

 「原理主義」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。少し前までは「根本主義」とも呼ばれていました。英語のファンダメンタリズムを日本語にしたものです。今では、イスラムの過激な人たちへの蔑称として「イスラム原理主義」のように使われていますが、元々「原理主義」とはキリスト教の用語です。そもそも、原理主義は、1920年代からキリスト教の中でも非常に極端に保守的な人々が、進化論や批判的な聖書学などと対決するために自分たちの立場の表明として始まったものです。聖書に書かれていることを一切疑わず「文字通り」に読むことこそが絶対であり、墨守すべき態度とする立場です。原理主義は、特に近代以降この世が汚れきっていることを批判しつつ、彼らの考える「正しい伝統」に立ち返ることを主張してきました。政治的な発言としては、中絶反対はもちろん、最近では性的少数者などに対し、頑なな拒絶的な態度を取っています。この、アメリカのキリスト教原理主義を背景にした軍事的な緊張関係の中で、抵抗するアラブなどの人々の宗教的な支えが「イスラム原理主義」となっています。ですから、「イスラム原理主義」を否定するなら、まずアメリカを中心とする「キリスト教原理主義」を解体するのが簡単な道筋だと思われます。

 何故、今日「原理主義」のことから始めたのかは、簡単に言うと、彼らが宗教的正しさを墨守することで却って本流から逸脱していると思うからです。つまり、「原理主義」に代表される「正義」とは、「宗教的独善」に他ならないということです。「原理主義」が「正義」を主張すればするほど、本流から離れていく宿命を背負わされているものだからです。

 「原理主義」という言葉自体は、1920年代のアメリカで始まったものですが、その内容は特に洗礼者ヨハネの立ち位置に似ているものを感じます。今日の聖書の物語は、イエスと洗礼者ヨハネを対比させることで、洗礼者ヨハネに垣間見えるユダヤ教の「原理主義」的なあり方に対して、イエスの立ち位置から乗り越えようとしている記事として読むことができます。

 マタイによる福音書において洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者として、最大限にプラスに評価されています。13節から14節では「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」11節では「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」とあるからです。しかし、続く12節では「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」とあります。この、「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」のが誰のことを指しているかについては、様々な議論があって決定的な結論が出ているようには思われませんが、わたしは洗礼者ヨハネを指していると読む田川建三の説に同意します。「彼が活動し始めたときから今に至るまで」と期間が限定されていることもヨハネを特定する理由の一つです。

 今日の聖書では洗礼者ヨハネは牢の中にいるとされます。彼の「正義」のゆえにです。141節から12節にヨハネが首をはねられた記事がありますが、おそらく原因は144節によれば「ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。」からでしょう。ヨハネの信仰については、37節以下に書かれています。

「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 洗礼者ヨハネの中心にあるのは審きです。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」とは、自分がただ単にユダヤ人であることであることだけではダメなので、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」というのです。悔い改めということが絶対命令であり、ここに集中することこそが重要だというのです。聖なる都であるエルサレムでさえ人の手垢にまみれていて汚れているという感覚だったのでしょう。洗礼者ヨハネには、彼の「正義」が実現できる所は、荒れ野しか残されていなかったのでしょう。彼の方向性は、ただただ悔い改めであり、これができない人たちや脱落する人たちに対しては非常に冷酷な態度を取っていたと考えられます。ただ単にユダヤ人であることや「律法」を守ることだけでは不十分だというのです。一種の「選民思想」のようなものさえ感じます。宗教的なエリート意識による優越感を伴い、神の意志を強引に地上にもたらそうとするものだったのかもしれません。この世に対し、神の権威を後ろ盾にして強引に悔い改めを、すなわち自らの「正義」を迫るのです。洗礼者ヨハネについてこられない者や脱落する者に対しては切り捨てしかありえないのです。このように神の権威を利用することで自らの「正義」を追求するあり方や生き方に対し、12節の「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」と主イエスは指摘しているのではないでしょうか。

 洗礼者ヨハネの宗教的な「正義」の追求の仕方は、現代に至るキリスト教会のあり方と無縁ではありません。現代日本の教会においても、一定の「正義」なる事柄を墨守する方向にのみ意義を見出し、同時に自分たちの「正義」以外を切り捨てていこうと主張する流れがあります。「正義」を追求するのは、教会に限らず、自分たちの共同体を強化し、つながりを確信したいという願いの表れかもしれません。自らの「正義」を振りかざし、振り回すあり方を「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」というのでしょう。

 一方、イエスの場合は洗礼者ヨハネが荒れ野を目指したのとは対照的に、庶民の生活の場である里に向かいます。そこでは、「律法」を守れない、守らない人たちが、その場にある共同体から様々な理由によって脇に追いやられ、排除されています。しかし、その一人ひとりには、神から貸し与えられた<いのち>があるのです。主イエスが目指したのは、この<いのち>が、無条件に全面的に神から喜ばれ、祝福されているありようを取り戻すことです。ここに天の国自体の力と働きかけの確かさがあり、「生きよ」という呼びかけがあるのです。5節に「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」とあるように、神から見捨てられ、呪われた存在であるとされたり「死者」の如く見捨てられている人々に困難な状況を打ち破る喜ばしさが実現されたのです。現代の言葉で言えば「人権の回復」ということでしょう。このことが神の国の現実であり、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ところの主イエス・キリストなのです。

 ここで、6節の「わたしにつまずかない人は幸いである。」という言葉が何故ここに置かれているか、考えてみたいと思います。これは、5章の山上の説教の「心の貧しい人々」悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」は「幸いである」という宣言と対になるものと考えられます。「山上の説教」では、「常識」からは思い及ばない「幸い」が語られています。そして、「正義」の追求が希望をもたらすのではない、「正義」を相対化する自由さが希望をもたらすという主イエスの態度もまた、「常識」とは食い違ってきます。「わたしにつまずかない者は幸いである」というのは、「正義」から自由になれるか、という投げかけではないでしょうか。

 そして、主イエスにつまずかないために必要なのは、洗礼者ヨハネに見られる「正義」という偽りを注意深く見抜くことです。わたしたちにとって「正義」を求めることは一つの誘惑なのかもしれません。善悪を見極める時、冷静に分析し、自分で考え、判断を下しているでしょうか。テレビやネットから得られた誰かの意見を無批判に鵜呑みしていることはないでしょうか。常識や雰囲気、時代の風潮に飲み込まれてはいないでしょうか。省みる必要があります。装われた「正義」に偽りがあることを見抜く「自由」な感覚を育てることは簡単なことではありません。わたしたちが何かを考え始める時には前提となる何かがあるからです。「何故なのか」「どのようにしてなのか」と問う姿勢から、自らの根っこにしなければならない考えが整えられていくのではないでしょうか。疑うことは通常、捻くれ者の習慣だと思われがちですが違います。事柄を疑うことは「本当」を探し、知るためには必要なことなのです。いつも心の中に「?」を持ち続けていないと足元をすくわれてしまうのが現代社会なのではないでしょうか。そのために、「正義」を本当に考えるときに、主イエスからの言葉を待ちたいと思うのです。決断を下す前に一呼吸おいて「主イエスならどうする?」と心の中で自分と対話する習慣を身に付けておくことです。「正義」を求めること自体が悪だということではありません。「正義」は常に条件付きであることを肝に銘じておく必要があるということす。数々の戦争は、それぞれの「正義」のぶつかり合いですし、残忍の極みであるホロコーストでさえ「正義」を偽装して行われてきたし、それを大衆が支えてきた事実はあるのです。今、アフガニスタンが混乱状態にありますが、これもタリバンの「正義」だけでなく、介入してきた国々の「正義」の問題でもあるのです。

 もちろん、主イエスも「正義」を求めていたはずです。同じ「正義」という課題の前で洗礼者ヨハネとの違いをこそ注目すべきだと思われます。大きな違いは、洗礼者ヨハネの場合は、一面的な原則論をどのような場合においても貫き通したということです。誰に対しても同じ内容を審きとして語り振る舞ったということだと思います。主イエスの場合、その場や相手によって言葉や振る舞いを変えているということです。状況への対応に自由な柔軟さがあるのです。たとえば、出会いの中で、ある人には付いてくるようにと語り、別の人には家に帰るようにと。その人の今の<いのち>を見据えた上で言葉と振る舞いによって相手に接するのです。主イエスにあるのは「愛」であり「牧会的配慮」「状況への理解」なのです。その場、その人の根本をしっかりと見極めているということです。さらに言えば、「正義」を基準として出来ないことを責める洗礼者ヨハネと、「正義」がどこにあるのかを探りつつ、今生きている存在そのものを喜ぶ主イエス、という違いでもあります。主イエスにとって重要だったのは、傷つけられ痛めつけられ、抑圧され、差別されている状態からの解放です。そして同時に、お互いに喜び合う関係性の中で生きているかどうかなのです。このことは、主イエスにつまずかないために覚えておきたいことです。

祈り

いのちの源である、主イエス・キリストの神!

わたしたちは、様々な「正義」に取り囲まれてしまうことで「不自由」にされています。

主イエスにある「自由」に生きるために聖霊の風を注いでください。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってささげます。アーメン。

2021年8月15日 (日)

マタイによる福音書10章32~33節 「イエスの仲間として」

 おはようございます。本日は、マタイによる福音書103233節をテキストにして「イエスの仲間として」という題で説教します。

 わたしたちは、聖書の証言する主イエス・キリストだけに本当があると信じています。キリスト者であるという生き方は、心の中という内面に閉じられたものではありません。この方から、どのように祈るべきか、どのように考えるべきか、どのように行動すべきなのか、など生きることの全般的なあり方の方向付けを受けることから始めるのです。主イエス・キリストを信じるということは、どのように生きるかを主イエス・キリストの導きに委ねつつ、同時に決断をもって歩み続けていくことです。

 創世記神話の中で、アダムとエバは、エデンの園の禁断の木の実を食べたことによって、自分たちが裸であることを恥ずかしく思うようになり、神から身を隠しました。この二人に、神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけます。この問いは、現代のわたしたちにも向けられたものであり、教会は、これに絶えず応答していく責任があるということです。

 初期キリスト教の伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙1010節で「 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と語っています。ここで言われる「口で公に言い表して」とは、ただ単に「わたしは主イエス・キリストを信じています」と誰かに言うというような狭い意味ではなくて、もっと広く他者や社会に向かう責任的な生き方全体を表わしていると理解した方がいいだろうと思います。

 今日の聖書のマタイによる福音書1032から33節をもう一度読んでみます。 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」これは、自分が主イエスの仲間であることを認識し、認め、公けに告白することをするかどうかによって、神の側から認められるのか、あるいは拒絶されるのか、という問題設定になっています。つまり、二者択一が迫られているのです。主イエスの仲間であると認めるのか、それとも否定するのか、と。そして、否定した者は主イエスから拒絶されるのだというのです。マタイによる福音書は、書かれた教会の状況が大きな理由だと思われますが、大変厳しい言い方が多く見られます。たとえば、7章では、「主よ、主よ」と呼びかけるだけではダメで「わたしの天の父の御心を行う者だけ」が認められ、これ以外は「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」と言われます。また、13章の「毒麦のたとえ」の説明の部分では、「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」とあります。さらに、15章の「十人のおとめ」のたとえでは油を用意していた5人と用意していない5人が対比され、用意を怠っていた5人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と拒絶されるのです。

 マタイ福音書の教会は、23章で律法学者とファリサイ派に対して非常に厳しい言葉を投げかけると同時に、自分たちと意見や考え方の異なる諸教会に向かっても敵対心をもっていたのです。つまり、自分たちこそがまことのイスラエルであるとの自己理解があり、敵対する人々に対し自らの正しさ、正統性をかなり独善的に主張していたと思われます。これらは、マタイによる福音書を読む時に注意しておかなければならない点です。しかし、この事情を踏まえてもなお、「自分たちが本当に主イエス・キリストに相応しい言葉に支えられた行いをしているのか」という自己検証の態度には学ぶべき点があります。自分たちは、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」との生き方に徹しているのか、という問いです。これは他のキリスト者や教会に向けられる前に、まず自らを問う問いとして必要な事柄だと思います。

 今日は815日で、いわゆる「終戦記念日」です。先々週の「平和聖日」において、戦争協力のために「日本基督教団」が成立したことについて簡単に触れました。この戦争協力の反省を踏まえて「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦責告白」のこともお話ししました。この「戦責告白」を導くものとして、今日の聖書「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」を読みたいと思います。「わたしはイエスの仲間である」と宣言できるのは、マタイ福音書の中心的テーマである「インマヌエル」「神が我々と共におられる」に支えられるからこそです。それは、十字架の道行きに至る生前の主イエスの生き方から、「平和を実現する人々は幸い」であり、「地の塩」「世の光」であるとの宣言のもとに立つことです。主イエスに相応しい生き方の捉えなおしでもあります。

 主イエスが十字架刑に処せられたのは、より弱く小さくされ、また「罪人」と断罪され、当時の社会から排除された、すなわち「人権」を剥奪された人たちを、いのちの尊さと豊かさに立ち返らせ、生き直しへと導いたからでした。教会は、この主イエスにしっかりとつながることによって、その時代時代のただ中にあっての相応しさを自己検証することが必要なのです。このことは、ただ単に口先のことに留まらず、教会が、立ちもすれば倒れもするギリギリの地点においてどのような決断を為すのか、ということです。

 この意味において、「日本基督教団」は国家権力の暴力に抗うことができず、むしろ積極的に戦争協力するという、敗北してきた「罪」の歴史を担い続けていることを告白することが必要です。いわゆる「戦責告白」もこのための一つの試みですが、やはりこの点については何度も引用をして恐縮なのですが、いわゆる「バルメン宣言」が重要であると思われます。正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」です。1934年5月29~30日に開かれた会議によって採択されたものです。六項目からなっていますが、今日は第1項から引用します。

1項から

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 これを踏まえて、今日の聖書を理解するならば、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」こととは、この世の権力や習慣などに教会が忖度することなく、愚直に「イエスは主である」と身をもって証ししていくことに他ならないのだということではないかと思います。ここにこそ、わたしたちが主イエスの群れとして、また一人ひとりとして、主イエスの仲間であるように振る舞っていく道への招きが今のこととして語られているのではないでしょうか。ここに立ち続けることに対する感謝と勇気が与えられるように祈るものです。

 バルメン宣言第1項は、教会はただ一人である主イエス・キリストだけを主と受け止めています。すなわち、この主イエスは、天においても地においても統べ納めている方なのであるから、この世の権力の一切は相対化されるという視点が与えられているということです。神に成り替わるかのように見えるもの、振る舞うものを察知すべく疑うことを辞めないのです。「神の唯一の御言葉」にのみ依り頼むとは、ここまでの徹底した立場が求められるのです。マタイによる福音書2020節以下によれば、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子のことを、王座に着いた時に一人はあなたの右に、もう一人は左にと願った物語があります。結論部分は、2025節以下にあります。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」とあります。仕えることにおいて主である方の示す方向は、この世の秩序や権力を相対化するのです。この世の華々しさも権力の強さもイエス・キリストの神の前では無力とされるのだという信仰によって、より相応しい道へと導かれる可能性に開かれているのです。今生かされている根拠としての<いのち>にあっては、神の御言葉がすべてだということです。この神の御言葉に並ぶものはなく、権力にまつわるあらゆる力ある事柄や出来事さえも、承認することはないという立場なのです。わたしたちが、「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者」であるのか否かが問われているのです。「わたしの仲間」とは、教会の内側にのみ閉じられたことではありません。開かれていくものであり、開かれ続けていくものです。

 この点に対して、反省的に語られた言葉を思い起こします。ナチス支配に抵抗した牧師のひとりである、マルティン・ニーメラーの言葉によって、主イエスの仲間になっていく道の広がりを確認しておきたいと思います。

 ナチスが共産主義を攻撃したとき、私は自分のことが多少不安だったが、共産主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチスは社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチスによって学校が、新聞が、ユダヤ人が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチスはついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それでは遅すぎた。

 主イエスがそうであったように、生きている場の枠を乗り越えてでも、「それでは遅すぎた」とならないために今、より弱くされ、小さくされた人々の仲間となる道を歩みたいと願うものです。非常に困難な道に見えます。しかし、小さな一歩から始めればいいのです。日常の出来事における小さな判断の積み重ねが、その道を作っていくのです。たとえば、誰かを非難する言葉にに触れたとき。たとえば、人権に関する法律が「改正」されようとするとき。権力が他者の言動が、誰かを排除するものとなっていないか、思い巡らす、その一手間が、判断の感性を磨いていくと思うのです。

いわゆる「終戦記念日」において、主イエスの仲間になっていくことへの思いを整えることは、平和を求め祈り、行動していくことと別のことでは決してありません。小さなことから始めていけばいいのです。

 アダムとエバが、知恵を与えられることで傲慢な心になり、素直に神に従う道を外れたことを思い起こします。神は「あなたはどこにいるのか」と問われました。この問いは、神に対する信頼・信仰に対して身をもって生きているか、ということです。「あなたはどこにいるのか」という問いに対して、自分たちの位置、群れとしての位置を自己検証しながら、「主イエスの仲間なのです」と応えていく者、その群れでありたいと願います。それは、その前にまず、主イエス自らが仲間となってくださり、「インマヌエル」「神が我々と共におられる」という現実に支えられているのだと信じるからです。

祈り

いのちの源である、主イエス・キリストの神!

主イエスの仲間として召されている事実に驚きと同時に感謝します。

主イエスが寄り添うことではじめて、わたしたちは仲間にあることの意味が知らされました。

主イエスに倣いつつ、歩む者とさせてください。平和を実現する者としてください。

この祈りを、平和の主イエス・キリストの御名によってささげます。アーメン。

« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »

無料ブログはココログ