マタイによる福音書 9章27~34節 「インプットとアウトプット」
インプットとアウトプットは電子機械の用語として一般的に使われています。「インプット」は「入力」、アウトプットは「出力」を意味し、特にコンピューターの内部に情報を取り込むことと、そこから取り出していくことを指します。これを人間のあり方に当て嵌めて、観察や調査や読書などをインプット、自分の意見なり考えなりを表現していくことをアウトプットと言うことがあります。自分の中に観察などで情報を取り込み、考えるとか判断などの処理をした上で表現していくという機能だと言えると思います。そして、わたしたちはしばしば、自分のアウトプットの拙さ、言葉が伝わらないことへの苛立ちに悩まされます。その結果、他者との関わりに不安や恐れを感じることがあります。
今日の奇跡物語は、盲人が癒され、そして口の利けない人が癒されたことが、セットで書かれていることを心に留めたいと思います。目が見えないことはインプット欠如の象徴、口が利けないことはアウトプット欠如の象徴として読むならば、この物語は、人と人との関係のありようの回復の可能性を指し示していると言えるのではないでしょうか。さらに、この奇跡物語を、わたしたちの物語として読むならば、インプットとアウトプットの間の情報処理にイエス・キリストが立ち会ってくださる、「わたし」という存在が主イエスの働きと導きによって豊かなコミュニケーションの道へと招かれていると、信じることができるのではないでしょうか。人と人とのコミュニケーションのあり方が、主イエスからの働きかけによって支えら整えられているのです。
このことに信頼すれば、聴く、視るなどの受ける態度に対して謙虚になって他者の意見や考えを整理することができ、同時に自分を表現していくために整えられていくのではないでしょうか。インプットとアウトプットの間の自分の中で整理・熟成させる時間が主イエスに支えられているのです。そしてこれは、自分という現象を冷静に判断することにもつながり、より理性的で腑に落ちる他者との関係が作られていくと期待することができるのではないでしょうか。観察から表現の間にいる自分のあり方を冷静に捉えていけば、より豊かで余裕のある態度が得られるのではないでしょうか。主イエスにあるからこそ、主体的に生きていく道が用意されており、そこに招かれてしまっている事実に対する気づくことで、きっと他者に対して不用な恐れや戸惑いなどが薄らいでいくに違いないのです。
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