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2021年7月11日 (日)

マタイによる福音書 8章18~22節 「イエスに従う決意があるのか」

 今日の登場人物の一人はユダヤ教の律法学者でありながら主イエスの道に従いたいと願った人であり、もう一人は弟子であったとされます。まず、後の弟子の事情から考えてみたいと思います。イエスに従いたいのだけれども、その前の条件として「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と訴えます。しかし主イエスは、葬り以前に「わたしに従いなさい。」と命じ、さらには「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と語るのです。聞きようによっては、非常に冷酷な言葉です。父と母を敬うことが十戒において定められ。死者を葬ることは当然大切なことですし、すべき事柄です。死んだ人はすでに神の守りのうちにあり、平安に包み込まれてしまっているのだから安心していい、という楽観的な徹底した神への信頼がここにはあるのではないでしょうか。

 それゆえに律法学者の「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」との言葉には「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えたのだろうと思います。この言葉の示すのは、孤独ではありません。先ほどの楽観性とも共通しますが、神の守りを愚直に信じているがゆえに、前進し続けていくことができるのだとの決意の表れでもあるのです。自分は休むことなく、神の派遣と使命に対する召命のゆえに、いわば神の国に向かう巡礼者のように前進し続けるという決意を宣べているのでしょう。この主の道に連なることができる招きがあると解釈することができるのではないでしょうか。死者はもう神のもとにいるのだから大丈夫。この世の荒れ野を歩むわたしたちにこそ守りが必要で、そしてその守りは、休む間もなくわたしたちのために働いてくださる主イエスに従うことで得られるのだということです。このことを信じるか、という問いです。

 信仰とは決断です。わたしたちは、自らに対して「イエスに従う決意があるのか」を問い続けていくことは非常に大切な問題意識です。しかし、ここで忘れてはならないのは、この「決断」や「決意」の根拠は、わたしたちの中には全くないのだということです。主イエス・キリストご自身による招きとしての「決断」と「決意」に基づいてはじめて成立することだということです。ここを忘れたら、わたしたちの信仰は自分たちの持ち物のように自分勝手に用いてしまうような、自分の都合のいい時だけの我儘に陥ってしまうのです。

 今日の聖書の二人への言葉とは、このような方向性から読まれる時に生きた意味が生まれてくるのではないでしょうか。このことによって、わたしたちは自分たちの都合ではなく、神からの招きに応える証しの生涯に向かわされていくのではないでしょうか。この意味において「イエスに従う決意があるのか」との自らへと問いに対して肯定が起こっていくのだと信じることができるのです。

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