マタイによる福音書 1章1~17節 「イエスの背負う歴史」
この「系図」には「真のイスラエル」の正統性や純粋さを貫くことができていないのではないかという指摘が古くからなされていました。この「系図」の中に4人の女性が含まれているからです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。ユダヤの完全な男性中心社会の系図に彼女らが含まれている理由について議論がなされてきました。女性性差別問題、異邦人問題、「汚れた」存在を強調していると読む立場があり、また、マタイによる福音書の意図としては、このような女性も「系図」に含めることである種の抱え込みの意図があるという指摘もあります。それらに対して共感しますが、この4人の女性が「系図」はもっと広い視点から読まれるべきだと思います。「系図」に名前の挙がっている人たちは確かにイスラエルの歴史において重要な事柄を担った人たちであるには違いありませんが、清廉潔白な人たちではないことを忘れてはならないということです。旧約聖書に慣れ親しんだ人にとっては有名な人たちではあります。しかし、必ずしも神との関係や人との関係において、優れているとか、いわばできた人柄ということではないということです。英雄視されているアブラハムやダビデにしても「系図」に表わされている人たちは誰一人として神のように完全ではなく、破れに満ちた存在であることを忘れてはならないとの指摘があるように思えるのです。その、問題アリの人たちの歴史をイエスが背負っているのだとこの「系図」が読めてきます。
重要なのは、神から呼ばわれている事実。ここにこそ、神がイスラエルを選ぶ選びがあり、このことが具体的な人間の歴史に介入すること。神の歴史は、神からの呼びかけを受けた人たちが、各々その与えられた使命に誠実に向かい合って歩むことが赦されているという歴史が、実は神の意図する神の歴史でもあるのだということです。
神からの呼びかけにおいて、わたしという存在、わたしたちという教会もまた「系図」に表わされているイエスの歴史にすでに巻き込まれてしまっているのです。わたしたちは、このことを事実として認め、委ねていけばいいのです。「系図」に込められた人間の限界を自ら背負うイエス・キリストは、わたしたちと共にいることを、かつてそうであったように、今も変わらず貫かれているのです。人間の「罪」ある現実を我が事として共におられるイエスは「いつもあなたがたと共にいる。」と語りかけるのです。この、招きに応えていく責任性、応答性を支える真実に向かう使命に生きるものでありたいと願いつつ生きていくことはできるのです。
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