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2021年7月

2021年7月25日 (日)

マタイによる福音書 10章26~33節 「恐れなくても大丈夫な理由」

 テキストの話題の中心は、神は髪の毛一筋に至るまで、わたしのすべてをことごとく知っておられるという事実に信頼を置くことです。神がすべてを知っておられるという事実。ここから、今日は知られている「わたし」というありようを整えていく方向付けがなされるのではないかと思います。

 わたしたちは、「わたし」は「わたし」であって、それ以上でもそれ以下でもない、自分の命が誰かと交換できるものではなくて独自であること。忘れてしまっていることが少なくありません。誰かと比べることでしか自分を評価できない仕組みに取り込まれてしまっています。そのような自己肯定感」「自尊感情」の欠けている「わたし」に対して、主イエスは接近をやめることがないとの決意が、ここには表わされています。安い値段で売られているような雀さえ、「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とされ、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」との言葉は、あなた自身よりも深くあなたを知っており、そのままで愛すという宣言と読み取ることができるのではないでしょうか。

 生前の主イエスの時代状況を福音書から読み解くと、様々な理由で「自己肯定感」「自尊感情」が奪われている人たちがいることがわかります。その一人ひとりに向かって、あなたが生きていることはそれだけで理由なしに尊くて愛すべきことなのだと、主イエスは語りかけ、その命を全面的に、無条件に肯定するのです。この主イエスの「自己肯定感」「自尊感情」の取り戻しの根拠、その基本的な立場は、マタイによる福音書では「インマヌエル」「神は我々と共におられる」というキーワードに表わされます。

 いつも共にいてくださる主イエスが「自己肯定感」「自尊感情」を取り戻してくださるという事実に信頼していけば、主イエスという本当の神の導きのもとで成長していくことができるし、何度でも生き直しができるのだとの希望することが赦されているのだと信じることができるのです。

 「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という事態である主イエス・キリストによって、「わたし」自身が理解している「わたし」を遥かに超えた「わたし」の存在が受け止められ、認められてしまっている事実があるのです。主イエス・キリストによってすべてが知られていることを知る道が用意されているのです。そして、「恐れなくても大丈夫な理由」が、この事実を本当によって支えられていることを信じていくことができるのです。

2021年7月18日 (日)

マタイによる福音書 9章27~34節 「インプットとアウトプット」

 インプットとアウトプットは電子機械の用語として一般的に使われています。「インプット」は「入力」、アウトプットは「出力」を意味し、特にコンピューターの内部に情報を取り込むことと、そこから取り出していくことを指します。これを人間のあり方に当て嵌めて、観察や調査や読書などをインプット、自分の意見なり考えなりを表現していくことをアウトプットと言うことがあります。自分の中に観察などで情報を取り込み、考えるとか判断などの処理をした上で表現していくという機能だと言えると思います。そして、わたしたちはしばしば、自分のアウトプットの拙さ、言葉が伝わらないことへの苛立ちに悩まされます。その結果、他者との関わりに不安や恐れを感じることがあります。

 今日の奇跡物語は、盲人が癒され、そして口の利けない人が癒されたことが、セットで書かれていることを心に留めたいと思います。目が見えないことはインプット欠如の象徴、口が利けないことはアウトプット欠如の象徴として読むならば、この物語は、人と人との関係のありようの回復の可能性を指し示していると言えるのではないでしょうか。さらに、この奇跡物語を、わたしたちの物語として読むならば、インプットとアウトプットの間の情報処理にイエス・キリストが立ち会ってくださる、「わたし」という存在が主イエスの働きと導きによって豊かなコミュニケーションの道へと招かれていると、信じることができるのではないでしょうか。人と人とのコミュニケーションのあり方が、主イエスからの働きかけによって支えら整えられているのです。

 このことに信頼すれば、聴く、視るなどの受ける態度に対して謙虚になって他者の意見や考えを整理することができ、同時に自分を表現していくために整えられていくのではないでしょうか。インプットとアウトプットの間の自分の中で整理・熟成させる時間が主イエスに支えられているのです。そしてこれは、自分という現象を冷静に判断することにもつながり、より理性的で腑に落ちる他者との関係が作られていくと期待することができるのではないでしょうか。観察から表現の間にいる自分のあり方を冷静に捉えていけば、より豊かで余裕のある態度が得られるのではないでしょうか。主イエスにあるからこそ、主体的に生きていく道が用意されており、そこに招かれてしまっている事実に対する気づくことで、きっと他者に対して不用な恐れや戸惑いなどが薄らいでいくに違いないのです。

2021年7月11日 (日)

マタイによる福音書 8章18~22節 「イエスに従う決意があるのか」

 今日の登場人物の一人はユダヤ教の律法学者でありながら主イエスの道に従いたいと願った人であり、もう一人は弟子であったとされます。まず、後の弟子の事情から考えてみたいと思います。イエスに従いたいのだけれども、その前の条件として「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と訴えます。しかし主イエスは、葬り以前に「わたしに従いなさい。」と命じ、さらには「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と語るのです。聞きようによっては、非常に冷酷な言葉です。父と母を敬うことが十戒において定められ。死者を葬ることは当然大切なことですし、すべき事柄です。死んだ人はすでに神の守りのうちにあり、平安に包み込まれてしまっているのだから安心していい、という楽観的な徹底した神への信頼がここにはあるのではないでしょうか。

 それゆえに律法学者の「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」との言葉には「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えたのだろうと思います。この言葉の示すのは、孤独ではありません。先ほどの楽観性とも共通しますが、神の守りを愚直に信じているがゆえに、前進し続けていくことができるのだとの決意の表れでもあるのです。自分は休むことなく、神の派遣と使命に対する召命のゆえに、いわば神の国に向かう巡礼者のように前進し続けるという決意を宣べているのでしょう。この主の道に連なることができる招きがあると解釈することができるのではないでしょうか。死者はもう神のもとにいるのだから大丈夫。この世の荒れ野を歩むわたしたちにこそ守りが必要で、そしてその守りは、休む間もなくわたしたちのために働いてくださる主イエスに従うことで得られるのだということです。このことを信じるか、という問いです。

 信仰とは決断です。わたしたちは、自らに対して「イエスに従う決意があるのか」を問い続けていくことは非常に大切な問題意識です。しかし、ここで忘れてはならないのは、この「決断」や「決意」の根拠は、わたしたちの中には全くないのだということです。主イエス・キリストご自身による招きとしての「決断」と「決意」に基づいてはじめて成立することだということです。ここを忘れたら、わたしたちの信仰は自分たちの持ち物のように自分勝手に用いてしまうような、自分の都合のいい時だけの我儘に陥ってしまうのです。

 今日の聖書の二人への言葉とは、このような方向性から読まれる時に生きた意味が生まれてくるのではないでしょうか。このことによって、わたしたちは自分たちの都合ではなく、神からの招きに応える証しの生涯に向かわされていくのではないでしょうか。この意味において「イエスに従う決意があるのか」との自らへと問いに対して肯定が起こっていくのだと信じることができるのです。

2021年7月 4日 (日)

マタイによる福音書 1章1~17節 「イエスの背負う歴史」

 この「系図」には「真のイスラエル」の正統性や純粋さを貫くことができていないのではないかという指摘が古くからなされていました。この「系図」の中に4人の女性が含まれているからです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。ユダヤの完全な男性中心社会の系図に彼女らが含まれている理由について議論がなされてきました。女性性差別問題、異邦人問題、「汚れた」存在を強調していると読む立場があり、また、マタイによる福音書の意図としては、このような女性も「系図」に含めることである種の抱え込みの意図があるという指摘もあります。それらに対して共感しますが、この4人の女性が「系図」はもっと広い視点から読まれるべきだと思います。「系図」に名前の挙がっている人たちは確かにイスラエルの歴史において重要な事柄を担った人たちであるには違いありませんが、清廉潔白な人たちではないことを忘れてはならないということです。旧約聖書に慣れ親しんだ人にとっては有名な人たちではあります。しかし、必ずしも神との関係や人との関係において、優れているとか、いわばできた人柄ということではないということです。英雄視されているアブラハムやダビデにしても「系図」に表わされている人たちは誰一人として神のように完全ではなく、破れに満ちた存在であることを忘れてはならないとの指摘があるように思えるのです。その、問題アリの人たちの歴史をイエスが背負っているのだとこの「系図」が読めてきます。

 重要なのは、神から呼ばわれている事実。ここにこそ、神がイスラエルを選ぶ選びがあり、このことが具体的な人間の歴史に介入すること。神の歴史は、神からの呼びかけを受けた人たちが、各々その与えられた使命に誠実に向かい合って歩むことが赦されているという歴史が、実は神の意図する神の歴史でもあるのだということです。

 神からの呼びかけにおいて、わたしという存在、わたしたちという教会もまた「系図」に表わされているイエスの歴史にすでに巻き込まれてしまっているのです。わたしたちは、このことを事実として認め、委ねていけばいいのです。「系図」に込められた人間の限界を自ら背負うイエス・キリストは、わたしたちと共にいることを、かつてそうであったように、今も変わらず貫かれているのです。人間の「罪」ある現実を我が事として共におられるイエスは「いつもあなたがたと共にいる。」と語りかけるのです。この、招きに応えていく責任性、応答性を支える真実に向かう使命に生きるものでありたいと願いつつ生きていくことはできるのです。

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