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2021年6月13日 (日)

マタイによる福音書 5章43~48節 「神さまの大きな愛」

~花の日・こどもの日子どもとおとなの合同礼拝~    

 主イエスは「敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい」と語りました。「迫害する」とは、いじめや虐待など、立場や力の強さを利用して攻撃することです。「愛する」という言葉は、家族や友だち同士の間で通用する、好きという感情ではありません。わたしがあの人を嫌いでも、神はあの人のことを守っていてくださるのだと知ること、あの人も誰かにとって大切な人なのだと思えること、それが「敵を愛する」ということです。そして、「迫害する者のために祈る」ということは、いじめや虐待を受けても我慢しなさい、ということでは絶対にありません。嫌なことを言われたりされたりしたときに「嫌だ」といっても良いし、必要であれば言うべきです。一人で抱え込んで我慢せず、自分の辛さや苦しさを誰かに訴えて、まず自分を守り、つまり、自分を愛し、それからその人がそのような「罪」から立ち戻れるように祈ることです。ただ、あまりにも辛くて、その人のために祈ることもできないときには、誰かがその人のために祈ってくれますようにと祈るだけで充分です。

 旧約聖書のいう「隣人愛」は神を信じ律法を守る人たちだけに通用する言葉でした。しかし、主イエスは、そんなちっぽけなものではないのだと考えていました。ユダヤ教であるかどうか関係なく、すべての人のいのちが尊くかけがえのない大切なものなのだ、誰一人外されることはないのだと語りました。実際そのようにして、みんなの友となり仲間になったのです。ユダヤの  「隣人愛」という枠を乗り越え、突き破っていったのです。

 主イエスの愛には人間の力では理解できないほど大きな、そして底が抜けるほどの「赦し」があるのです。この主イエスを思うときに、誰もが、どのような状態であっても決して見捨てられていないことを「わたし」が受け入れることができるようになるのです。そして、それをその相手に伝えていくことによって「敵を愛する」に導かれていくのです。

 誰一人捨てられることがなく誰もが大切なのだということを忘れることなく祈っていくことを今日の聖書は教えています。祈っていく中で、嫌いな人や苦手だと思っていた人のいいところが見つかったりして人と人とのつながりを結んでいくことができるようになるかもしれません。ただ、「迫害」してくる人に対しては、避けたり、逃げたりしていいのです。助けが必要な時には、すぐに見つからなくても諦めず、助けて、と言い続けることが大事です。困っている時に助けてくれる人を神が用意してくださっているからです。「敵を愛する」ためには、まず自分を愛する、自分を大切にすることが必要です。主イエスの大きな愛に包まれているから、きっと新しい道が用意されていると信じることができるからです。

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