ルカによる福音書 23章26~27節 「共に背負った十字架」 井谷淳 伝道師
私達は一生の中でどれだけの人と出会い、また擦れ違っていくのでしょうか?
人間は「性質」としてある程度固定化された「予定調和的な関係性」をイメージし、その人間関係の中での「安定感」を求めてゆく。内容を問わず「共同体」という「社会単位」はこの様に営まれているのではないかと感じます。そしてその「共同体」には必然的に「掟」が存在致します。恐らく予定調和的な人間関係の「最大公約数の不文律」の要素が[掟]として機能してゆくのでしょう。そしてその「掟」から外れる者、或いは何かの「違和感」を感じる人間に対しては「排除の論理」が働いてゆきます。本日の聖書箇所の主人公は正にこの「排除の論理」の中で「社会から消去されてゆこうとするイエス」と「全く(偶発的)にイエスと出会い」その「死に最後まで立ち会った人物」である「キレネ人シモン」であります。
この「キレネ人シモン」は、たまたま「通行していただけ」なのでしょう。そして本当に「偶然に」イエスの「十字架の行列」と「遭遇してしまった」のです。少なくとも「イエスという罪人」が十字架に貼り付けになる一部始終を「眺めたい」という「野次馬の類」ではなかった筈です。たまたま「頑健」で「体格が良い」という理由だけでローマ兵から「白羽の矢」を立てられたこの「キレネ人シモン」は強制的に「人事不肖」に陥ったイエスの代わりに正に「無理やり」本来的には「イエスが背負うべき十字架」を担がされてしまったのであります。「シモン」はイエスの事を全く知りません。全くの初対面であります。しかし「担がされた重い十字架」だけではなく、イエスに向かって投げられた石つぶてが当たったり、イエスを嘲る罵声をも浴びせられます。「野次馬である群集」にとっては「罪人イエス」と共に十字架を担ぎ歩いているシモンは「同類の人間」に見えた事でありましょう。シモンは内心、全く「生きた心地」はしなかった筈です。
刑場に着きシモンはイエスの「臨終」に立ち会います。イエスとシモンはまともに会話を交わす時間も無かったでしょう。この後シモンはイエスが短い人生の中で「何を背負わされてきたのか」悟り、キリスト者と成って行ったので在ります。共同体から「排除され」「消去されてゆくイエス」の「臨終」に立ち会ったシモンの人生はこの後「大きな転換」を迎えてゆきます。本日の箇所は私達に「隣人」「人間の関わり」に関して大いに考えさせる箇所なのではないでしょうか。街で擦れ違ってゆく不特定多数の「見ず知らずの人達」。神が私達に望まれている関わりがその中にもあるのかもしれません。
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