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2021年6月20日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章11~13節 「愛と平和の神のゆえに」講解13

 11節から13節は、いわゆる「祝祷」を含む、手紙の締めくくりの挨拶です。「終わりに、兄弟たち」と呼びかけ、色々な問題は確実にあるけれども、それでもわたしたちの間には主イエスが共にいてくださるという信頼は崩れることがないのです。「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」と続けます。神の側から与えられる「喜び」にあって、神の前に相応しい姿へと整えられていき、神の慰めを受けることから、党派心を捨てて、心から平和に向かって手を携えていこうと呼びかけているのです。さらに「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」と続けます。イエス・キリストにおいて実現された、誰一人として見捨てられない深い愛と、その関係を豊かにするところの平和に与っていく生き方。ここに留まることから「互いに挨拶を交わしなさい。」とあるように親しい関係に生きることが求められるのです。

 しかし、実際にはコリントの教会の問題と混乱は、現代の教会にとって無縁であるどころか切実であり続けていることをどれだけの人が否定できるでしょうか。

 このようなことを聖書と対話する中で、横田勲牧師の説教の言葉に見つけました。少し長いのですが、省略しながら引用します。【間違った聖書解釈と、真実味のない告白と、少しも喜びのない賛美と、形だけの祈りとダメな牧師と、ダメな信徒からなる教会がありうるでしょう。しかし、「主イエスの名によって」二人でも三人でも集まる限り、聖なる教会と信ずることができます。いや信ずるほかありません。このバラバラの、ダメな教会もまた、神の国の矢印(暫定的指標)でありうるし、イエス・キリストにおける義認と聖化のしるし(暫定的指標)でありうることを信ずることもできるし、信ずるほかありません。ダメな教会もありうる。しかし、そのダメさ加減も絶対化してはなりません。ダメだと断定すること自体が傲慢です。…(略)…他を見くだす傲慢さからも、自己卑下という名の別の傲慢さからも解き放たれ、現実をしっかりと見すえ、神の国を遠く見つめながら、ゆっくりと、しかし、賛美の時には、声を張り上げて、一歩一歩歩みたいと思います。】

 問題や混乱や間違いから決して自由になれない教会の限界があります。しかし、その限界を包み込む慰めが、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が、この惨めな教会に向かって届けられていることもまた現実なのです。この祝福の現実から間違いの多い教会であっても、何度でもやり直しができるのです。主イエスの招きと促しによって自分たちの教会のあり方を含めて自己吟味しつつ歩む道が用意されているのです。

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