コリントの信徒への手紙二 13章5~10節 「自分を吟味しなさい」講解12
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」という言葉によって導かれる行いとは、端的に言えば「神学」だと思います。 カール・バルトの著作『教義学要綱』の最初にある「課題」で示されている言葉を引用します。【教義学は、次のような学問である。すなわち、この学問において、教会は、その認識のその時々の状態に応じて、批判的に―つまり、聖書の基準に従い・その諸信仰告白に導かれて、その宣教の内容に関して、教会自身に解明を与えるのである。】
「神学」とは、自分たちが信じ宣教している内容を、聖書の基準に従い批判的に、教会に対して明らかにする責任的な行いなのだということです。この行いの前提は信仰であることは当然ですが、「聖書の基準に従い・その諸信仰告白に導かれて」とあるように、まず第一に聖書が基準であり、諸信仰告白を参考にしながら、という感じです。
「教会は、その認識のその時々の状態に応じて、批判的に」という点から、パウロの語る「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」ということを考えてみたいのです。「聖書の基準に従い」として展開するためには、広い理解が必要だと思われます。その基準とは、たとえば、生前の歴史的イエスの言葉と振る舞いであるかもしれませんし、インマヌエル・神が共にいてくださるということかもしれません。自分なりの「聖書の基準」を定めていくには、「主イエスとは誰であるのか」との問いをも含めながら旧新約聖書を批判的に読み続けていくことが必要です。
批判的に聖書を読む中で、より明らかにされるのは、イエスの神の前にある真っ直ぐな生き方です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)との言葉どおりに生き抜かれた姿や、生きることに疲れ果て悩みに打ちひしがれている人たちに向かって幸いと語りかけた姿、さらには、寄り添い共にいることを望まれた姿を読み取るのです。そのようなわたしたちの主イエス・キリストを、聖書から読み直すことができるのです。13章5節後半に「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」という言葉に立ち返るのです。そうすると、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と促されていくのです。積極的にわたしたちが生きる場所において、より相応しくなる道に呼び出されていくのです。ここから、わたしたちの今を見出すことができるのです。
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