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2021年6月

2021年6月27日 (日)

ルカによる福音書 23章26~27節 「共に背負った十字架」 井谷淳 伝道師

 私達は一生の中でどれだけの人と出会い、また擦れ違っていくのでしょうか?

 人間は「性質」としてある程度固定化された「予定調和的な関係性」をイメージし、その人間関係の中での「安定感」を求めてゆく。内容を問わず「共同体」という「社会単位」はこの様に営まれているのではないかと感じます。そしてその「共同体」には必然的に「掟」が存在致します。恐らく予定調和的な人間関係の「最大公約数の不文律」の要素が[掟]として機能してゆくのでしょう。そしてその「掟」から外れる者、或いは何かの「違和感」を感じる人間に対しては「排除の論理」が働いてゆきます。本日の聖書箇所の主人公は正にこの「排除の論理」の中で「社会から消去されてゆこうとするイエス」と「全く(偶発的)にイエスと出会い」その「死に最後まで立ち会った人物」である「キレネ人シモン」であります。

 この「キレネ人シモン」は、たまたま「通行していただけ」なのでしょう。そして本当に「偶然に」イエスの「十字架の行列」と「遭遇してしまった」のです。少なくとも「イエスという罪人」が十字架に貼り付けになる一部始終を「眺めたい」という「野次馬の類」ではなかった筈です。たまたま「頑健」で「体格が良い」という理由だけでローマ兵から「白羽の矢」を立てられたこの「キレネ人シモン」は強制的に「人事不肖」に陥ったイエスの代わりに正に「無理やり」本来的には「イエスが背負うべき十字架」を担がされてしまったのであります。「シモン」はイエスの事を全く知りません。全くの初対面であります。しかし「担がされた重い十字架」だけではなく、イエスに向かって投げられた石つぶてが当たったり、イエスを嘲る罵声をも浴びせられます。「野次馬である群集」にとっては「罪人イエス」と共に十字架を担ぎ歩いているシモンは「同類の人間」に見えた事でありましょう。シモンは内心、全く「生きた心地」はしなかった筈です。

 刑場に着きシモンはイエスの「臨終」に立ち会います。イエスとシモンはまともに会話を交わす時間も無かったでしょう。この後シモンはイエスが短い人生の中で「何を背負わされてきたのか」悟り、キリスト者と成って行ったので在ります。共同体から「排除され」「消去されてゆくイエス」の「臨終」に立ち会ったシモンの人生はこの後「大きな転換」を迎えてゆきます。本日の箇所は私達に「隣人」「人間の関わり」に関して大いに考えさせる箇所なのではないでしょうか。街で擦れ違ってゆく不特定多数の「見ず知らずの人達」。神が私達に望まれている関わりがその中にもあるのかもしれません。

2021年6月20日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章11~13節 「愛と平和の神のゆえに」講解13

 11節から13節は、いわゆる「祝祷」を含む、手紙の締めくくりの挨拶です。「終わりに、兄弟たち」と呼びかけ、色々な問題は確実にあるけれども、それでもわたしたちの間には主イエスが共にいてくださるという信頼は崩れることがないのです。「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」と続けます。神の側から与えられる「喜び」にあって、神の前に相応しい姿へと整えられていき、神の慰めを受けることから、党派心を捨てて、心から平和に向かって手を携えていこうと呼びかけているのです。さらに「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」と続けます。イエス・キリストにおいて実現された、誰一人として見捨てられない深い愛と、その関係を豊かにするところの平和に与っていく生き方。ここに留まることから「互いに挨拶を交わしなさい。」とあるように親しい関係に生きることが求められるのです。

 しかし、実際にはコリントの教会の問題と混乱は、現代の教会にとって無縁であるどころか切実であり続けていることをどれだけの人が否定できるでしょうか。

 このようなことを聖書と対話する中で、横田勲牧師の説教の言葉に見つけました。少し長いのですが、省略しながら引用します。【間違った聖書解釈と、真実味のない告白と、少しも喜びのない賛美と、形だけの祈りとダメな牧師と、ダメな信徒からなる教会がありうるでしょう。しかし、「主イエスの名によって」二人でも三人でも集まる限り、聖なる教会と信ずることができます。いや信ずるほかありません。このバラバラの、ダメな教会もまた、神の国の矢印(暫定的指標)でありうるし、イエス・キリストにおける義認と聖化のしるし(暫定的指標)でありうることを信ずることもできるし、信ずるほかありません。ダメな教会もありうる。しかし、そのダメさ加減も絶対化してはなりません。ダメだと断定すること自体が傲慢です。…(略)…他を見くだす傲慢さからも、自己卑下という名の別の傲慢さからも解き放たれ、現実をしっかりと見すえ、神の国を遠く見つめながら、ゆっくりと、しかし、賛美の時には、声を張り上げて、一歩一歩歩みたいと思います。】

 問題や混乱や間違いから決して自由になれない教会の限界があります。しかし、その限界を包み込む慰めが、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が、この惨めな教会に向かって届けられていることもまた現実なのです。この祝福の現実から間違いの多い教会であっても、何度でもやり直しができるのです。主イエスの招きと促しによって自分たちの教会のあり方を含めて自己吟味しつつ歩む道が用意されているのです。

2021年6月13日 (日)

マタイによる福音書 5章43~48節 「神さまの大きな愛」

~花の日・こどもの日子どもとおとなの合同礼拝~    

 主イエスは「敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい」と語りました。「迫害する」とは、いじめや虐待など、立場や力の強さを利用して攻撃することです。「愛する」という言葉は、家族や友だち同士の間で通用する、好きという感情ではありません。わたしがあの人を嫌いでも、神はあの人のことを守っていてくださるのだと知ること、あの人も誰かにとって大切な人なのだと思えること、それが「敵を愛する」ということです。そして、「迫害する者のために祈る」ということは、いじめや虐待を受けても我慢しなさい、ということでは絶対にありません。嫌なことを言われたりされたりしたときに「嫌だ」といっても良いし、必要であれば言うべきです。一人で抱え込んで我慢せず、自分の辛さや苦しさを誰かに訴えて、まず自分を守り、つまり、自分を愛し、それからその人がそのような「罪」から立ち戻れるように祈ることです。ただ、あまりにも辛くて、その人のために祈ることもできないときには、誰かがその人のために祈ってくれますようにと祈るだけで充分です。

 旧約聖書のいう「隣人愛」は神を信じ律法を守る人たちだけに通用する言葉でした。しかし、主イエスは、そんなちっぽけなものではないのだと考えていました。ユダヤ教であるかどうか関係なく、すべての人のいのちが尊くかけがえのない大切なものなのだ、誰一人外されることはないのだと語りました。実際そのようにして、みんなの友となり仲間になったのです。ユダヤの  「隣人愛」という枠を乗り越え、突き破っていったのです。

 主イエスの愛には人間の力では理解できないほど大きな、そして底が抜けるほどの「赦し」があるのです。この主イエスを思うときに、誰もが、どのような状態であっても決して見捨てられていないことを「わたし」が受け入れることができるようになるのです。そして、それをその相手に伝えていくことによって「敵を愛する」に導かれていくのです。

 誰一人捨てられることがなく誰もが大切なのだということを忘れることなく祈っていくことを今日の聖書は教えています。祈っていく中で、嫌いな人や苦手だと思っていた人のいいところが見つかったりして人と人とのつながりを結んでいくことができるようになるかもしれません。ただ、「迫害」してくる人に対しては、避けたり、逃げたりしていいのです。助けが必要な時には、すぐに見つからなくても諦めず、助けて、と言い続けることが大事です。困っている時に助けてくれる人を神が用意してくださっているからです。「敵を愛する」ためには、まず自分を愛する、自分を大切にすることが必要です。主イエスの大きな愛に包まれているから、きっと新しい道が用意されていると信じることができるからです。

2021年6月 6日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章5~10節 「自分を吟味しなさい」講解12

 「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」という言葉によって導かれる行いとは、端的に言えば「神学」だと思います。 カール・バルトの著作『教義学要綱』の最初にある「課題」で示されている言葉を引用します。【教義学は、次のような学問である。すなわち、この学問において、教会は、その認識のその時々の状態に応じて、批判的に―つまり、聖書の基準に従い・その諸信仰告白に導かれて、その宣教の内容に関して、教会自身に解明を与えるのである。】

 「神学」とは、自分たちが信じ宣教している内容を、聖書の基準に従い批判的に、教会に対して明らかにする責任的な行いなのだということです。この行いの前提は信仰であることは当然ですが、「聖書の基準に従い・その諸信仰告白に導かれて」とあるように、まず第一に聖書が基準であり、諸信仰告白を参考にしながら、という感じです。

「教会は、その認識のその時々の状態に応じて、批判的に」という点から、パウロの語る「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」ということを考えてみたいのです。「聖書の基準に従い」として展開するためには、広い理解が必要だと思われます。その基準とは、たとえば、生前の歴史的イエスの言葉と振る舞いであるかもしれませんし、インマヌエル・神が共にいてくださるということかもしれません。自分なりの「聖書の基準」を定めていくには、「主イエスとは誰であるのか」との問いをも含めながら旧新約聖書を批判的に読み続けていくことが必要です。

 批判的に聖書を読む中で、より明らかにされるのは、イエスの神の前にある真っ直ぐな生き方です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)との言葉どおりに生き抜かれた姿や、生きることに疲れ果て悩みに打ちひしがれている人たちに向かって幸いと語りかけた姿、さらには、寄り添い共にいることを望まれた姿を読み取るのです。そのようなわたしたちの主イエス・キリストを、聖書から読み直すことができるのです。135節後半に「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」という言葉に立ち返るのです。そうすると、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と促されていくのです。積極的にわたしたちが生きる場所において、より相応しくなる道に呼び出されていくのです。ここから、わたしたちの今を見出すことができるのです。

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