コリントの信徒への手紙一 12章1~11節 「霊的な賜物」
わたしたちは、信仰を精神的・内面的に捉えがちです。確かに「イエスは主である」と告白することは、聖霊の働きとしか呼びようのない導きに支えられ、自らの決断でなされるものですが、本質は個人的な事柄に留まるものではありません。教会という共同体の中での「わたし」と「わたしたち」の結びつきを承認していくこと、お互いの言葉も含めた全存在を認め合っていくことです。パウロは、教会の中の「務め」や「働き」に違いはあっても、全体では一つであると語り、さらにはこの点について身体の部分のたとえで説明しています。それぞれかけがえのない大切なものであり、違いを違いとして認め合うことで「わたしたち」の「たち」という教会の共同性における、より豊かないのちのありようを主張していると思われます。
このようにパウロが主張しなければならなかった背景には、1章10節以降に展開されている派閥意識や分派の問題があります。「 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」とあるようにです。
このような争いは、信仰の違いにりお互いに排除しようとするところから起こっていますが、それだけではないと思われます。今日のテーマに即して分かりやすい点から考えれば、同じ言語を使っていても言葉が通じない・聴かれない、理解されにくい状況はあるということです。現代のわたしたちにも言えることです。しかし、立場や神学や意見などの違いを乗り越えるために聖書に「聴く」ことから始めたいという願いがあることはご理解いただきたいです。
3節後半の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とあるところの「イエスは主である」という信仰告白に鍵があると感じています。この告白は、立場や神学や信仰理解が違っていても、同じ主イエスを課題としているのだから、お互いに「聴く」ことに向かって能力を磨いていけば改善できるのだという理屈になります。しかし、キリスト教界の現実において、これは相当困難なのです。
パウロの考え方に従うならば、教会の中での相手に対するあり方は、「イエスは主である」との信仰告白が聖霊の働きによると認めていくのであれば、様々な違いを違いとして認め合うことで、新しくて創造的な関係を作りだしていく希望を持つことができるように思えてきます。聖霊の働きは教会の枠をも超え、理解し合うための「聴く」力を与えるものとして、備えられていくという希望であると知らされていくのではないでしょうか。
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