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2021年5月 9日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱い時にこそ強い」

 パウロにとって重要なのは、9節にあるように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主の言葉を聞いたという事実です。そして、ここにこそ主イエス・キリストに信じ従う道、教会形成への道の根拠があるということでした。パウロにとって「弱さ」とは、一切の存在が「弱さ」によって包まれていることです。神秘的な体験や経験によって自分を「強さ」において誇るのではなくて、です。病に侵されたまま、そのあるがままの姿で「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ところからの歩み出しに生涯をささげたのです。

 この生き方への決意が9節後半の「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」との意思表示となります。この弱さとは、先週も引用しましたが、134節と内容的につながっています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。このキリストの「弱さ」とは、十字架上に磔られたままの姿において逆説的に示される「強さ」なのです。「弱さ」の極みにおいてこそ、人を生かし教会を形成する力の源があるという事実なのです。かつて磔られた主イエスの十字架の「弱さ」の極みからやってくる支える力としての「強さ」は、ただ単に一時的なものではなくて、今に至るまで、そしてこれからも支え続けていてくださるという信仰の証しの言葉なのです。このような意味において10節以降を踏まえて、過去における様々な苦難や難のことだけではなくて、今のこと、そしてさらには将来の展望をも含みます。

 「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言葉は、困難や課題や悩みのただ中にあって、現状維持を認めるとか、ある種の痩せ我慢とか諦めとか無関心を装うとかでは決してありません。今をあるがまま受け入れることで新しいチャレンジに向かう可能性に開かれていることを確認することです。こんなに苦しいけれども、わたしは孤独ではないのだ、十字架において苦しまれる主イエス・キリストが共に苦しんでくださっているのだ、と思える「強み」です。パウロの「誇り」とは、共にいてくださる十字架の主イエスのみが誇るべき方なのだという信仰の告白なのです。

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