コリントの信徒への手紙二 13章1~4節 「キリストと主に生きる」講解11
パウロは、4節中程で「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが」と語りますが、その前には「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」という言葉があることに注目したいのです。確かに、パウロは「弱さ」だらけの生涯を歩み続けたのですが、その根拠は十字架のキリストにこそあるのです。
現代でもしばしば、キリスト教を信じる人たちを揶揄したり軽蔑したりする言葉に触れることがあります。十字架上の主イエスの姿が人々にとって理想的な神のあり方とかけ離れているからです。たとえば、マルコによる福音書の14章から展開される主イエスの受難物語におけるゲッセマネの祈り、最高法院やピラトの前での裁判の場面、嘲笑される姿などです。とりわけ、十字架上での絶望が15章33節以下で物語られます。【「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」】
しかし、です。この十字架の主イエスをどのように理解するのかが、キリスト教信仰にとっての試金石なのです。この主イエスの姿にパウロの言葉を聴くことができるのかが問われているのです。主イエスの十字架は弱さの極みそのものです。主イエスは殺されてから復活するという道筋を知ってはいなかったのです。この点は大切です。主イエスの復活の出来事は予定調和なのではありません。神の御心以外のものではないからです。わたしたちのありようを整える方向へと導くのです。そしてこの言葉はわたしたちにも向けられていることを確認したいのです。
今日、わたしたちに向かって呼びかけられている方向は、ここにあります。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」弱いからこそ、神が生かしてくださる。このようにして、十字架の主イエス・キリストと共にわたしたちは一人ひとりが、そしてこの群れが生きることができていることに感謝したいと思います。これほどまでにして「弱さ」によって神の人間性を主イエスは貫かれている事実に驚かずにはいられません。
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