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2021年5月16日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章11~21節 「相互理解を求めて」講解10

 しばしばキリスト者の中に、全く悩みや思い煩いから一切解放されていると公言する人があります。それはそれでいいのかもしれませんが、わたしの感覚とはズレています。そのような人たちが根拠とする聖書の言葉は、主イエスの「思い悩むな」というところなのでしょう。しかし、事は単純ではありません。結論部分で「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあるからです。すなわち、今の課題については十分悩んでもいいのだし、その必要を否定してはいないことに注意しておきたいものです。

 わたしたちがこの世に暮らしている限り、多かれ少なかれ悩みや痛み、様々な課題から抜け出してしまうことは、とりわけ社会は人と人との関係によって成り立っていますから不可能といっていいかと思います。教会だけではなくて、パートナーであれ家族であれ、友人であれ、です。わたしたちは同じ言葉を使っていれば、必ず通じるものだと思い勝ちですが、実際は違います。言葉は非常に不便な道具なのです。伝えたいことや分かってほしいことを、言葉を尽くして説明し、弁明することを一生懸命すればするほど、相手からの反感や冷たい反応が返ってくるという経験をしたことのない人の方が少ないのではないでしょうか。冷静に努めたり、熱心であったりには関係なくにです。壊れた関係、ねじれた関係、ボタンの掛け違いのような関係などがあります。それらを何とか解決し、より良い方向に向けて寄り添いたい、分かり合いたいという思いで言葉を語れば語るほど、理解されなくなるのも珍しくありません。日常生活のちょっとしたことから、教会のような共同体においても起こりやすいものです。そのために、わたしと相手という当事者は、その関係自体がギクシャクしたりお互いを傷つけ合ったり、ある場合には絶縁や絶交となる場合があります。意見の違いや異論、反発などの事態は、必ずしも悪いことではないのかもしれません。パウロによれば、コリントの信徒への手紙一1119節にあるように「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」と。必要な「仲間争い」というものをパウロは必ずしも否定はしていないのです。

 しかし、ここでの「だれが適格者かはっきりするためには」という言葉には、コリントの教会での関係を、破壊的ではなく建設的な議論から新しい関係が生まれ育つことへの希望が込められているのだろうと思います。建設的でない議論が不毛であることを暗に指摘しているのだと思います。

 コリントの教会にパウロが何度も手紙を出したのは、教会からの手紙への応答だったと思われます。教会の中で様々な深刻な問題が立て続けに起こり、何とか建設的な方向付けを行うことができないものかと心痛めた人たちによって書かれた手紙です。今ではパソコンやスマートフォンの画面越しに直接話ができたりできる時代です。画面越しの対話はここ数年としても、それ以前にも電話で直接話すことができていましたから、手紙というメディアは古臭い感じがするものかもしれません。しかし、当時は、手紙が人々の前で朗読される時には、あたかも手紙の書き手がその場にいるかのように受け止められた、朗読される言葉は、書き手の言葉の再現だと考えられ、しかし、この手紙という手段には限界があって失敗に終わっていることもあり、重要な通信手段だったのです。そのためにパウロは、やはり直接コリントの教会の人たちと顔を合わせて話をしたいと願っていたのでしょう。

 パウロとパウロに同意している人たちは、すでにコリントの教会においては説得的な言葉をもつことができず、うさん臭く信用ならない怪しげな、そして疎ましい存在とみなされていたことが分かります。「大使徒」と呼ばれていた人たちの言葉に確からしさを覚え、パウロが被扶養権という教会からの謝儀を拒絶することも信用度を落とし、エルサレム教会への献金を集めてはいるけれどもテトスらとグルになって詐欺まがいにかすめ取っているという疑いに晒されていたことも予想されます。残念なことですが、パウロが手紙において言葉を連ねれば連ねるほど嘘として聞かれてしまう事態だったのでしょう。パウロの言葉は「自己弁護」として何を書いても言い訳としてしか受け取られなくなっていたということです。

 そこで、パウロは自らがコリントの教会の創立メンバーの中での主だった存在であることを宣べます。1111節後半から12節で「あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。」と書き、さらには自分がコリントの教会の親の立場であることを加えます。しかし、それらの意見を徹底していくのではなくて、途中でやめているように読めるのです。パウロは書斎の神学者ではありませんでしたから、おそらく弟子に誰かに口述筆記させていたのでしょう。語りながら途中で話題や文脈が突然に終わってしまうことがあるのです。語りながら、やはり自分が「自己弁護」の罠にハマってしまったことに気付いたからでしょう。15節の後半の「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」という思いを引きずったままに、です。この中途半端さが、逆にパウロの心情をリアルに伝えているとも思えます。

 パウロの関心事は、この間の「講解」において明らかなように、どのような主イエス・キリストを信じているか、その内容としての「十字架」において示された「弱さ」の課題でした。コリントの教会の主流派が価値ありとしていたのは、おそらく「強さ」に象徴されるキリスト像で、その価値観からすればパウロは全く逆の方向を示しつつ生きるものだとされていたのです。この方向性を、パウロは何としても教会に伝えたかったのです。その中心は、19節後半の「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」ということです。自分の考えと言葉は決して「自己弁護」ではないとのパウロの意思表示を読み取ることができます。自分を規定する「十字架の主イエスの弱さ」にあって自分の正しさをただ単に主張することよりも、「すべてはあなたがたを造り上げるため」だというのです。「自己弁護」として響き、聴かれてしまう言葉を修正する方向に向かう言葉として展開されているのです。「造り上げる」とは、建物を建築するという意味であり、この場合は信仰にとって益となることも指します。つまり、パウロの理解するコリントの教会の危機的状況からの立ち返りを求めているのです。今あるコリントの教会の状況はパウロにとって危機であり、立ち返りを求めるパウロの愛があるのです。だからこそ「愛する人たち」と呼びかけているのです。

 ただ、このパウロの思いと言葉とがコリントの教会を動かし、立ち返りを促すことができたとは、聖書からも聖書以外の資料からも確認できませんでした。徒労に終わった可能性もあります。パウロの心が届かなかったのかもしれません。ならば、この手紙は無駄に終わったことになるでしょうか。わたしは違うと思います。確かに20節と21節ではパウロの期待通りにならないことと嘆き悲しむことへの危惧が語られています。しかし、中心はコリントの教会が十字架の主イエスにあって「すべてはあなたがたを造り上げるため」というところにあります。

 言葉が通じない、心が届かない、こういったことは事態が深刻であればなおさら単純には解決されないことは重々承知していたでしょう。肝心なことは、「自己弁護」の姿勢から正されながら「すべてはあなたがたを造り上げるため」の根拠としての十字架への集中にあります。問題や課題を解決できなくても壊れた関係、ねじれた関係、ボタンの掛け違いのような関係が必ずしも解決できなくても、十字架の主イエスに対する信頼と希望を捨てないことです。

 このことは、すべてを受け止め、理解してくださっている方への信頼に生き続けることが大切なのです。以前使っていた讃美歌第二編の210番に『わが悩み知りたもう』に言い表されている姿勢こそが問われているのです。

 元は次のような歌です。一番だけ引用します

Nobody knows the trouble I've seen

Nobody knows my sorrow

Nobody knows the trouble I've seen

Glory hallelujah!

誰も知らない私の悩み

誰も知らない私の悲しみ

誰も知らない私の悩み

グローリー ハレルヤ

 人間は社会的存在です。わたしたちが生きている限り、様々な関係において痛みや破れ、あるいは修復が期待できない事柄から自由ではありません。しかし、絶望に陥らない幸いによって守られていることをパウロは知っていたのです。19節後半の「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」との言葉は、十字架の主イエスが絶えず間にいてくださり、共にいてくださることへの信頼し、委ねることを意味します。この委ねに生きることから、教会だけでなく、様々な関係の痛みや破れがいつの日にか豊かな関係性に向かって開かれていることを信じることができるのです。従って、この委ねのもとで歩んでいく中に十字架の主イエスにある希望は残されているのです。それを「愛」と呼んでいいのかもしれません。この希望のもとで歩むことへの招きを信じ、ご一緒に祈りましょう。

 

祈り

いのちの源である神!

人と人との間に十字架の主イエスがいてくださることを信じます。

人が誰かと一緒に生きることには様々な課題が付きまといます。

しかし、主イエスはいつも共にいてくださることを信じ、委ねる生き方へと招いてくださることも知っています。

より相応しく主イエスと共に歩ませてください。

この祈りを十字架の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

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