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2021年5月

2021年5月30日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章1~4節 「キリストと主に生きる」講解11

 パウロは、4節中程で「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが」と語りますが、その前には「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」という言葉があることに注目したいのです。確かに、パウロは「弱さ」だらけの生涯を歩み続けたのですが、その根拠は十字架のキリストにこそあるのです。

 現代でもしばしば、キリスト教を信じる人たちを揶揄したり軽蔑したりする言葉に触れることがあります。十字架上の主イエスの姿が人々にとって理想的な神のあり方とかけ離れているからです。たとえば、マルコによる福音書の14章から展開される主イエスの受難物語におけるゲッセマネの祈り、最高法院やピラトの前での裁判の場面、嘲笑される姿などです。とりわけ、十字架上での絶望が1533節以下で物語られます。【「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」】

 しかし、です。この十字架の主イエスをどのように理解するのかが、キリスト教信仰にとっての試金石なのです。この主イエスの姿にパウロの言葉を聴くことができるのかが問われているのです。主イエスの十字架は弱さの極みそのものです。主イエスは殺されてから復活するという道筋を知ってはいなかったのです。この点は大切です。主イエスの復活の出来事は予定調和なのではありません。神の御心以外のものではないからです。わたしたちのありようを整える方向へと導くのです。そしてこの言葉はわたしたちにも向けられていることを確認したいのです。

 今日、わたしたちに向かって呼びかけられている方向は、ここにあります。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」弱いからこそ、神が生かしてくださる。このようにして、十字架の主イエス・キリストと共にわたしたちは一人ひとりが、そしてこの群れが生きることができていることに感謝したいと思います。これほどまでにして「弱さ」によって神の人間性を主イエスは貫かれている事実に驚かずにはいられません。

2021年5月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章1~11節 「霊的な賜物」

 わたしたちは、信仰を精神的・内面的に捉えがちです。確かに「イエスは主である」と告白することは、聖霊の働きとしか呼びようのない導きに支えられ、自らの決断でなされるものですが、本質は個人的な事柄に留まるものではありません。教会という共同体の中での「わたし」と「わたしたち」の結びつきを承認していくこと、お互いの言葉も含めた全存在を認め合っていくことです。パウロは、教会の中の「務め」や「働き」に違いはあっても、全体では一つであると語り、さらにはこの点について身体の部分のたとえで説明しています。それぞれかけがえのない大切なものであり、違いを違いとして認め合うことで「わたしたち」の「たち」という教会の共同性における、より豊かないのちのありようを主張していると思われます。

 このようにパウロが主張しなければならなかった背景には、1章10節以降に展開されている派閥意識や分派の問題があります。「 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」とあるようにです。

 このような争いは、信仰の違いにりお互いに排除しようとするところから起こっていますが、それだけではないと思われます。今日のテーマに即して分かりやすい点から考えれば、同じ言語を使っていても言葉が通じない・聴かれない、理解されにくい状況はあるということです。現代のわたしたちにも言えることです。しかし、立場や神学や意見などの違いを乗り越えるために聖書に「聴く」ことから始めたいという願いがあることはご理解いただきたいです。

 3節後半の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とあるところの「イエスは主である」という信仰告白に鍵があると感じています。この告白は、立場や神学や信仰理解が違っていても、同じ主イエスを課題としているのだから、お互いに「聴く」ことに向かって能力を磨いていけば改善できるのだという理屈になります。しかし、キリスト教界の現実において、これは相当困難なのです。

 パウロの考え方に従うならば、教会の中での相手に対するあり方は、「イエスは主である」との信仰告白が聖霊の働きによると認めていくのであれば、様々な違いを違いとして認め合うことで、新しくて創造的な関係を作りだしていく希望を持つことができるように思えてきます。聖霊の働きは教会の枠をも超え、理解し合うための「聴く」力を与えるものとして、備えられていくという希望であると知らされていくのではないでしょうか。

2021年5月16日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章11~21節 「相互理解を求めて」講解10

 しばしばキリスト者の中に、全く悩みや思い煩いから一切解放されていると公言する人があります。それはそれでいいのかもしれませんが、わたしの感覚とはズレています。そのような人たちが根拠とする聖書の言葉は、主イエスの「思い悩むな」というところなのでしょう。しかし、事は単純ではありません。結論部分で「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあるからです。すなわち、今の課題については十分悩んでもいいのだし、その必要を否定してはいないことに注意しておきたいものです。

 わたしたちがこの世に暮らしている限り、多かれ少なかれ悩みや痛み、様々な課題から抜け出してしまうことは、とりわけ社会は人と人との関係によって成り立っていますから不可能といっていいかと思います。教会だけではなくて、パートナーであれ家族であれ、友人であれ、です。わたしたちは同じ言葉を使っていれば、必ず通じるものだと思い勝ちですが、実際は違います。言葉は非常に不便な道具なのです。伝えたいことや分かってほしいことを、言葉を尽くして説明し、弁明することを一生懸命すればするほど、相手からの反感や冷たい反応が返ってくるという経験をしたことのない人の方が少ないのではないでしょうか。冷静に努めたり、熱心であったりには関係なくにです。壊れた関係、ねじれた関係、ボタンの掛け違いのような関係などがあります。それらを何とか解決し、より良い方向に向けて寄り添いたい、分かり合いたいという思いで言葉を語れば語るほど、理解されなくなるのも珍しくありません。日常生活のちょっとしたことから、教会のような共同体においても起こりやすいものです。そのために、わたしと相手という当事者は、その関係自体がギクシャクしたりお互いを傷つけ合ったり、ある場合には絶縁や絶交となる場合があります。意見の違いや異論、反発などの事態は、必ずしも悪いことではないのかもしれません。パウロによれば、コリントの信徒への手紙一1119節にあるように「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」と。必要な「仲間争い」というものをパウロは必ずしも否定はしていないのです。

 しかし、ここでの「だれが適格者かはっきりするためには」という言葉には、コリントの教会での関係を、破壊的ではなく建設的な議論から新しい関係が生まれ育つことへの希望が込められているのだろうと思います。建設的でない議論が不毛であることを暗に指摘しているのだと思います。

 コリントの教会にパウロが何度も手紙を出したのは、教会からの手紙への応答だったと思われます。教会の中で様々な深刻な問題が立て続けに起こり、何とか建設的な方向付けを行うことができないものかと心痛めた人たちによって書かれた手紙です。今ではパソコンやスマートフォンの画面越しに直接話ができたりできる時代です。画面越しの対話はここ数年としても、それ以前にも電話で直接話すことができていましたから、手紙というメディアは古臭い感じがするものかもしれません。しかし、当時は、手紙が人々の前で朗読される時には、あたかも手紙の書き手がその場にいるかのように受け止められた、朗読される言葉は、書き手の言葉の再現だと考えられ、しかし、この手紙という手段には限界があって失敗に終わっていることもあり、重要な通信手段だったのです。そのためにパウロは、やはり直接コリントの教会の人たちと顔を合わせて話をしたいと願っていたのでしょう。

 パウロとパウロに同意している人たちは、すでにコリントの教会においては説得的な言葉をもつことができず、うさん臭く信用ならない怪しげな、そして疎ましい存在とみなされていたことが分かります。「大使徒」と呼ばれていた人たちの言葉に確からしさを覚え、パウロが被扶養権という教会からの謝儀を拒絶することも信用度を落とし、エルサレム教会への献金を集めてはいるけれどもテトスらとグルになって詐欺まがいにかすめ取っているという疑いに晒されていたことも予想されます。残念なことですが、パウロが手紙において言葉を連ねれば連ねるほど嘘として聞かれてしまう事態だったのでしょう。パウロの言葉は「自己弁護」として何を書いても言い訳としてしか受け取られなくなっていたということです。

 そこで、パウロは自らがコリントの教会の創立メンバーの中での主だった存在であることを宣べます。1111節後半から12節で「あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。」と書き、さらには自分がコリントの教会の親の立場であることを加えます。しかし、それらの意見を徹底していくのではなくて、途中でやめているように読めるのです。パウロは書斎の神学者ではありませんでしたから、おそらく弟子に誰かに口述筆記させていたのでしょう。語りながら途中で話題や文脈が突然に終わってしまうことがあるのです。語りながら、やはり自分が「自己弁護」の罠にハマってしまったことに気付いたからでしょう。15節の後半の「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」という思いを引きずったままに、です。この中途半端さが、逆にパウロの心情をリアルに伝えているとも思えます。

 パウロの関心事は、この間の「講解」において明らかなように、どのような主イエス・キリストを信じているか、その内容としての「十字架」において示された「弱さ」の課題でした。コリントの教会の主流派が価値ありとしていたのは、おそらく「強さ」に象徴されるキリスト像で、その価値観からすればパウロは全く逆の方向を示しつつ生きるものだとされていたのです。この方向性を、パウロは何としても教会に伝えたかったのです。その中心は、19節後半の「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」ということです。自分の考えと言葉は決して「自己弁護」ではないとのパウロの意思表示を読み取ることができます。自分を規定する「十字架の主イエスの弱さ」にあって自分の正しさをただ単に主張することよりも、「すべてはあなたがたを造り上げるため」だというのです。「自己弁護」として響き、聴かれてしまう言葉を修正する方向に向かう言葉として展開されているのです。「造り上げる」とは、建物を建築するという意味であり、この場合は信仰にとって益となることも指します。つまり、パウロの理解するコリントの教会の危機的状況からの立ち返りを求めているのです。今あるコリントの教会の状況はパウロにとって危機であり、立ち返りを求めるパウロの愛があるのです。だからこそ「愛する人たち」と呼びかけているのです。

 ただ、このパウロの思いと言葉とがコリントの教会を動かし、立ち返りを促すことができたとは、聖書からも聖書以外の資料からも確認できませんでした。徒労に終わった可能性もあります。パウロの心が届かなかったのかもしれません。ならば、この手紙は無駄に終わったことになるでしょうか。わたしは違うと思います。確かに20節と21節ではパウロの期待通りにならないことと嘆き悲しむことへの危惧が語られています。しかし、中心はコリントの教会が十字架の主イエスにあって「すべてはあなたがたを造り上げるため」というところにあります。

 言葉が通じない、心が届かない、こういったことは事態が深刻であればなおさら単純には解決されないことは重々承知していたでしょう。肝心なことは、「自己弁護」の姿勢から正されながら「すべてはあなたがたを造り上げるため」の根拠としての十字架への集中にあります。問題や課題を解決できなくても壊れた関係、ねじれた関係、ボタンの掛け違いのような関係が必ずしも解決できなくても、十字架の主イエスに対する信頼と希望を捨てないことです。

 このことは、すべてを受け止め、理解してくださっている方への信頼に生き続けることが大切なのです。以前使っていた讃美歌第二編の210番に『わが悩み知りたもう』に言い表されている姿勢こそが問われているのです。

 元は次のような歌です。一番だけ引用します

Nobody knows the trouble I've seen

Nobody knows my sorrow

Nobody knows the trouble I've seen

Glory hallelujah!

誰も知らない私の悩み

誰も知らない私の悲しみ

誰も知らない私の悩み

グローリー ハレルヤ

 人間は社会的存在です。わたしたちが生きている限り、様々な関係において痛みや破れ、あるいは修復が期待できない事柄から自由ではありません。しかし、絶望に陥らない幸いによって守られていることをパウロは知っていたのです。19節後半の「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」との言葉は、十字架の主イエスが絶えず間にいてくださり、共にいてくださることへの信頼し、委ねることを意味します。この委ねに生きることから、教会だけでなく、様々な関係の痛みや破れがいつの日にか豊かな関係性に向かって開かれていることを信じることができるのです。従って、この委ねのもとで歩んでいく中に十字架の主イエスにある希望は残されているのです。それを「愛」と呼んでいいのかもしれません。この希望のもとで歩むことへの招きを信じ、ご一緒に祈りましょう。

 

祈り

いのちの源である神!

人と人との間に十字架の主イエスがいてくださることを信じます。

人が誰かと一緒に生きることには様々な課題が付きまといます。

しかし、主イエスはいつも共にいてくださることを信じ、委ねる生き方へと招いてくださることも知っています。

より相応しく主イエスと共に歩ませてください。

この祈りを十字架の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

2021年5月 9日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱い時にこそ強い」

 パウロにとって重要なのは、9節にあるように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主の言葉を聞いたという事実です。そして、ここにこそ主イエス・キリストに信じ従う道、教会形成への道の根拠があるということでした。パウロにとって「弱さ」とは、一切の存在が「弱さ」によって包まれていることです。神秘的な体験や経験によって自分を「強さ」において誇るのではなくて、です。病に侵されたまま、そのあるがままの姿で「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ところからの歩み出しに生涯をささげたのです。

 この生き方への決意が9節後半の「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」との意思表示となります。この弱さとは、先週も引用しましたが、134節と内容的につながっています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。このキリストの「弱さ」とは、十字架上に磔られたままの姿において逆説的に示される「強さ」なのです。「弱さ」の極みにおいてこそ、人を生かし教会を形成する力の源があるという事実なのです。かつて磔られた主イエスの十字架の「弱さ」の極みからやってくる支える力としての「強さ」は、ただ単に一時的なものではなくて、今に至るまで、そしてこれからも支え続けていてくださるという信仰の証しの言葉なのです。このような意味において10節以降を踏まえて、過去における様々な苦難や難のことだけではなくて、今のこと、そしてさらには将来の展望をも含みます。

 「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言葉は、困難や課題や悩みのただ中にあって、現状維持を認めるとか、ある種の痩せ我慢とか諦めとか無関心を装うとかでは決してありません。今をあるがまま受け入れることで新しいチャレンジに向かう可能性に開かれていることを確認することです。こんなに苦しいけれども、わたしは孤独ではないのだ、十字架において苦しまれる主イエス・キリストが共に苦しんでくださっているのだ、と思える「強み」です。パウロの「誇り」とは、共にいてくださる十字架の主イエスのみが誇るべき方なのだという信仰の告白なのです。

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱い時にこそ強い」

 パウロにとって重要なのは、9節にあるように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主の言葉を聞いたという事実です。そして、ここにこそ主イエス・キリストに信じ従う道、教会形成への道の根拠があるということでした。パウロにとって「弱さ」とは、一切の存在が「弱さ」によって包まれていることです。神秘的な体験や経験によって自分を「強さ」において誇るのではなくて、です。病に侵されたまま、そのあるがままの姿で「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ところからの歩み出しに生涯をささげたのです。

 この生き方への決意が9節後半の「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」との意思表示となります。この弱さとは、先週も引用しましたが、134節と内容的につながっています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。このキリストの「弱さ」とは、十字架上に磔られたままの姿において逆説的に示される「強さ」なのです。「弱さ」の極みにおいてこそ、人を生かし教会を形成する力の源があるという事実なのです。かつて磔られた主イエスの十字架の「弱さ」の極みからやってくる支える力としての「強さ」は、ただ単に一時的なものではなくて、今に至るまで、そしてこれからも支え続けていてくださるという信仰の証しの言葉なのです。このような意味において10節以降を踏まえて、過去における様々な苦難や難のことだけではなくて、今のこと、そしてさらには将来の展望をも含みます。

 「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言葉は、困難や課題や悩みのただ中にあって、現状維持を認めるとか、ある種の痩せ我慢とか諦めとか無関心を装うとかでは決してありません。今をあるがまま受け入れることで新しいチャレンジに向かう可能性に開かれていることを確認することです。こんなに苦しいけれども、わたしは孤独ではないのだ、十字架において苦しまれる主イエス・キリストが共に苦しんでくださっているのだ、と思える「強み」です。パウロの「誇り」とは、共にいてくださる十字架の主イエスのみが誇るべき方なのだという信仰の告白なのです。

2021年5月 2日 (日)

コリントの信徒への手紙二 11章16~33節 「耐える道・逃れる道」講解8

 「キリストに仕える者」と自称していたであろうパウロの論敵の影響下にある人々に向かって、パウロは様々な労苦について語ります。これらは「強さ」とは真逆の「弱さ」の証言です。キリストを宣教することに関してだけではなく、被扶養権を行使しないがために生活に余裕がなく苦しんだことや、世間から褒められるとか称賛され認められるどころか軽蔑に晒されてきたこと、また伝道旅行の中での労苦などを語ります。28節で「このほかにもまだあるが」とあるように一つひとつ数え切れないほどのことであったのでしょう。それだけではありません。「その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」と続けます。これは、文脈から考えればコリントの教会の問題について心を痛めていることを表わしています。さらに「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」と続けるのです。パウロは、コリントの教会の中で「弱さ」のただ中にある人たちと「弱さ」においてつながりたいという願い、つながっているという事実を大切な本当として伝えたいからです。

 30節と31節では、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。」と語ります。パウロにとっての本当とは、正直に「弱さ」を曝け出す生き方において、人生を全面的に肯定していくことなのです。24節以降で様々な難について語りますが、これは「弱さ」に対する開き直りではなく、自慢でもありません。また、「弱さ」を乗り越え、克服してきたということでもありません。「弱さ」そのものを受け入れることです。この受け入れに支えられ、耐える道が開かれたことを宣べているのです。

 十字架のキリストにある限り、様々な難に対して耐える道が用意されているとの信頼のもとで歩むことができたのです。この、絶える道とは痩せ我慢ではなく、また様々な課題や問題に対していつでも正面突破できるとか、すべきだとかということではありません。32節と33節では、困難から逃げることができたエピソードが付け加えられています。十字架という「弱さ」の極みに支えられ、その場その場にある課題や困難において、「耐える道」や「逃れる道」も備えられていたこと、これからもそうだという信頼が語られているのです(Ⅱコリント10:13参照)。 その時に、大切な一つのこととして「弱さ」の極みである十字架を決して忘れないことが必要です。ここにこそ、復活の力が働いているのですから。わたしたちの「生」は、十字架の主イエス・キリストの「弱さ」において約束され、支えられつつ守られているのです。

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