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2021年4月11日 (日)

コリントの信徒への手紙二 10章12~18節 「誇るものは主を誇れ」講解6

 わたしがわたしであること、それは誰かと比べることによって優れているなら優越感に浸り、劣っているなら劣等感に陥り、ということから自由になることであるとパウロは知っていました。それが17節の「誇る者は主を誇れ。」という宣言に表わされています。弱さを抱えたままの自分を曝け出すようにして、病に侵され、また見栄えが悪くとも、「うわべのことだけ見て」揶揄されても、自分が自分であり続け、自分が自分になるために語り続けるのです。自分の使徒としての責任がコリントの教会において無効にはなっていないことを自覚しつつ、関係性もまだ生きていること、さらには前進のために育てられていくことへの信頼において、です。

 このパウロの姿勢は、わたしたちにとって決して無縁ではありません。誰彼と自分を比べることを拒否するパウロの姿勢は、イエス・キリストに信じ従うことによって、わたしたちも導かれるものだからです。比べることで自分を推し量ることは、今生かされている自分を窮屈にします。比べることによってわたしたちが陥るのは、本来の自分ではない自分を演じてしまうような不自然なあり方です。自分のことをこんな風に見てもらいたいとか、こんな風に見てもらいたくないといった、いわば「世間体」を第一に考えてしまう悪い癖がついてしまうのです。「世間」という、社会であれ家族、あるいは教会であれ、他者との関係の中で自分をよりよく見せたいとか弱みは見せたくないとかの強いる力に屈服してしまうことになるのです。比べることで自分を確かめることへの誘惑は、現代日本においては高まってきているのかもしれません。

 肌や髪の色など姿形だけではなく、学歴などの知識や家柄、国籍や民族、宗教や文化など、比較の基準というか物差しが様々あり、それらを相対化するとか無化することが必要なのです。このことによって人間同士が水平になり、「あなたとわたし」という関係が整えられるのです。確かに、このような相対化や「無化」の試みにも限界はあるでしょう。しかし、努力を怠ることは神に対して相応しい態度とは考えられません。

 わたしは一体何者か。この点について、徹底して生前のイエス・キリストがどのように他者と接したのかを思い起こしながら歩むことが必要です。これは復活のキリストに信じ従うことと別のことではありません。比べることによって自分を推し量り確認することの断念は消極的な生き方ではありません。積極的に違いを違いとして受け止め、認め合いながら常に新しい可能性に開かれていることへの招きでもあるのです。 

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