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2021年4月18日 (日)

コリントの信徒への手紙二 11章1~15節 「真理に導かれて」 講解7

 パウロは、コリントの教会の全体の経済的な力からすれば彼を養うことは十分にできるという事実を知りつつ「被扶養権」を拒絶しています。つまり、誰が養うための金を出すのかという問題に関わってくるのです。富んでいる人たちによって養われるとしたら、彼らの発言や価値観に対して正面から批判することができるでしょうか。一般的な感覚からすれば、言いにくい状況になるでしょうし、富んでいる階級の人たちにあらゆる面で忖度をしなくてはならなくなります。その人たちの価値観によって運営される教会の方針に対して実直で建設的な批判が封じられる可能性が出てくるのではないでしょうか。パウロはこの点を恐れて「被扶養権」を主張しなかったのではないかと思われます。つまり、教会形成は、メンバーの中のより貧しい層、より弱い人たちを切り捨てない姿勢を保つ必要があるとパウロは判断していたということです。教会が向かう道を絶えず主イエス・キリストの道から検証し、正していく必要があるということです。

 パウロの姿勢は、伝道者として誰とどこでどのようにつながって教会形成を行っていくのかについての決意表明でもあります。コリントの教会は一枚岩ではなく、パウロ派の人々もいる一方で、しかし、「異なったイエス」「違った霊」「違った福音」を主張する人々が力をもつ主流派であったのです。それらの異なる主張を行う勢力に対して1113節以降に書かれています。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」これは若干パウロの強気な発言として読むこともできますが、ここで注目すべきは最適な判断は神に委ね、自ら裁くことはしていないことです。

 パウロから見てコリントの教会は様々な意味で富に誘惑されたものとして映っていたのでしょう。そこから、十字架の貧しさと遜りの主イエス・キリストの姿に立ち返ることで教会が整えられていく希望をもっていたに違いないと思います。教会が何を基準にし、何を目標にし、どこに向かうのかは、その教会の姿勢を決定します。常に主イエス・キリストのみに立ち返る勇気と希望が求められるのです。間違ったことをただしていく時には決断は必要とされることもあるのです。

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