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2021年4月

2021年4月25日 (日)

マルコによる福音書 1章9~11節 「洗礼」

 主イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けたことが示すのは、他者に仕えていく、僕となっていくあり方です。わたしたちは洗礼を受けます。が、主イエス・キリストが、わたしたちの代理として、遜り、従順、仕えていくこと、その方向性を意味する洗礼を受けられたということに基づいてのみ、わたしたちの受ける洗礼には意義があるのです。主イエス・キリストが、わたしたちのいのちの身代わり・代理として十字架上で苦しみ殺されたのであれば、その主イエスの洗礼も同様に身代わり・代理であったと言えるのではないでしょうか。わたしたちの受けるべき洗礼とは、この主イエス・キリストのあり方から示される神の思いの全体像を自らの生き方・教会員としての生き方に映し出すものです。洗礼を受け、クリスチャン・キリスト者になるということは、十字架から復活の力に与ることによって、生前の主イエスの活動に倣う生き方を自ら選び取ることです。 

 渡辺英俊牧師は自らを「イエスじみた」という言葉で言い表したことがあります。洗礼を受けるということは、主イエスに対して決断的に生きるということです。これについて英語圏で合言葉的に使われている言葉にW.W.J.D. というのがあります。「What Would Jesus Do?」の頭文字を取ったものです。「イエスならこんな時どうすれるだろう?」という意味です。わたしたちは、普段の生活の中でしばしば色々な課題や困難に直面することがあります。そこで絶えず、「もしイエスだったらこんな時どうするだろう?」と、より相応しい道を祈りによって考え探り出し、行動に移すことができるのです。ただこれは、他者から切り離された個人的で孤独な働きではありません。一緒に主イエスによって結ばれている友・仲間はいるという平安と安心感の中で守られているものだからです。時として、自分一人でその課題や困難に対する直面しなければならないことも少なくないでしょう。しかし、背後に支えがあるということが保証されているのです。

 この道は、主イエスから示された道を応答的に歩んでいくことです。イエス・キリストが洗礼を受けた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」と神の言葉が語られます。そして、神の心に適う生涯、すなわち苦難の道を歩む生涯を主イエス・キリストは遂げられるのです。その方に対して「これに聞け」と示されていることに対する応答として、わたしたちの洗礼はあるのです。

 イエス・キリストご自身の信仰における洗礼を通して理解されるならば、わたしたちの洗礼はスタートラインへの決意であり、出発であり、信仰の表明ないしは告白です。さらに言えば祈りです。わたしたちが、イエス・キリストにおいて恵まれてしまっている、贖われてしまっている、すでに与えられていることに関して感謝していく、祈っていく、そのような意味において洗礼は人を救うのです。

2021年4月18日 (日)

コリントの信徒への手紙二 11章1~15節 「真理に導かれて」 講解7

 パウロは、コリントの教会の全体の経済的な力からすれば彼を養うことは十分にできるという事実を知りつつ「被扶養権」を拒絶しています。つまり、誰が養うための金を出すのかという問題に関わってくるのです。富んでいる人たちによって養われるとしたら、彼らの発言や価値観に対して正面から批判することができるでしょうか。一般的な感覚からすれば、言いにくい状況になるでしょうし、富んでいる階級の人たちにあらゆる面で忖度をしなくてはならなくなります。その人たちの価値観によって運営される教会の方針に対して実直で建設的な批判が封じられる可能性が出てくるのではないでしょうか。パウロはこの点を恐れて「被扶養権」を主張しなかったのではないかと思われます。つまり、教会形成は、メンバーの中のより貧しい層、より弱い人たちを切り捨てない姿勢を保つ必要があるとパウロは判断していたということです。教会が向かう道を絶えず主イエス・キリストの道から検証し、正していく必要があるということです。

 パウロの姿勢は、伝道者として誰とどこでどのようにつながって教会形成を行っていくのかについての決意表明でもあります。コリントの教会は一枚岩ではなく、パウロ派の人々もいる一方で、しかし、「異なったイエス」「違った霊」「違った福音」を主張する人々が力をもつ主流派であったのです。それらの異なる主張を行う勢力に対して1113節以降に書かれています。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」これは若干パウロの強気な発言として読むこともできますが、ここで注目すべきは最適な判断は神に委ね、自ら裁くことはしていないことです。

 パウロから見てコリントの教会は様々な意味で富に誘惑されたものとして映っていたのでしょう。そこから、十字架の貧しさと遜りの主イエス・キリストの姿に立ち返ることで教会が整えられていく希望をもっていたに違いないと思います。教会が何を基準にし、何を目標にし、どこに向かうのかは、その教会の姿勢を決定します。常に主イエス・キリストのみに立ち返る勇気と希望が求められるのです。間違ったことをただしていく時には決断は必要とされることもあるのです。

2021年4月11日 (日)

コリントの信徒への手紙二 10章12~18節 「誇るものは主を誇れ」講解6

 わたしがわたしであること、それは誰かと比べることによって優れているなら優越感に浸り、劣っているなら劣等感に陥り、ということから自由になることであるとパウロは知っていました。それが17節の「誇る者は主を誇れ。」という宣言に表わされています。弱さを抱えたままの自分を曝け出すようにして、病に侵され、また見栄えが悪くとも、「うわべのことだけ見て」揶揄されても、自分が自分であり続け、自分が自分になるために語り続けるのです。自分の使徒としての責任がコリントの教会において無効にはなっていないことを自覚しつつ、関係性もまだ生きていること、さらには前進のために育てられていくことへの信頼において、です。

 このパウロの姿勢は、わたしたちにとって決して無縁ではありません。誰彼と自分を比べることを拒否するパウロの姿勢は、イエス・キリストに信じ従うことによって、わたしたちも導かれるものだからです。比べることで自分を推し量ることは、今生かされている自分を窮屈にします。比べることによってわたしたちが陥るのは、本来の自分ではない自分を演じてしまうような不自然なあり方です。自分のことをこんな風に見てもらいたいとか、こんな風に見てもらいたくないといった、いわば「世間体」を第一に考えてしまう悪い癖がついてしまうのです。「世間」という、社会であれ家族、あるいは教会であれ、他者との関係の中で自分をよりよく見せたいとか弱みは見せたくないとかの強いる力に屈服してしまうことになるのです。比べることで自分を確かめることへの誘惑は、現代日本においては高まってきているのかもしれません。

 肌や髪の色など姿形だけではなく、学歴などの知識や家柄、国籍や民族、宗教や文化など、比較の基準というか物差しが様々あり、それらを相対化するとか無化することが必要なのです。このことによって人間同士が水平になり、「あなたとわたし」という関係が整えられるのです。確かに、このような相対化や「無化」の試みにも限界はあるでしょう。しかし、努力を怠ることは神に対して相応しい態度とは考えられません。

 わたしは一体何者か。この点について、徹底して生前のイエス・キリストがどのように他者と接したのかを思い起こしながら歩むことが必要です。これは復活のキリストに信じ従うことと別のことではありません。比べることによって自分を推し量り確認することの断念は消極的な生き方ではありません。積極的に違いを違いとして受け止め、認め合いながら常に新しい可能性に開かれていることへの招きでもあるのです。 

2021年4月 4日 (日)

マルコによる福音書 1章14~20節 「ガリラヤで主イエスに会える」

 正典に含まれる福音書は四つありますが、マルコによる福音書は何度もお話しているとおり復活の出来事を循環構造として表現しています。それは、161節から8節の空の墓の物語が示しています。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが香料を買い求めて墓に行くと空だった。墓のふたの大きな石は転がしてあり、入ってみるとそこには、白い長い衣を着た若者が右手に座っていました。その若者が語るのは6節以下の言葉です。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」。このガリラヤでの再会の約束は14章28節で「 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と語られています。これは最後の晩餐の場で、弟子が一人残らず羊が散ってしまうようにして躓くことを述べた後の言葉です。そんなことはないとペトロたちは言うのですが、逮捕の場で逃げてしまったことはご承知のとおりです。マルコの文脈で主イエスの活動は、ガリラヤで始まります。9章から10章でおおむねヨルダン川沿いに南に下り、11章でエルサレムに入り、14章から本格的な受難物語となり十字架で殺され…という展開になります。

 今日のテキストは、いわばガリラヤでの活動の始めの部分です。マルコによる福音書は何度も読まれることが前提です。再び読む時、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という言葉の示すのは、1章14節から20節から展開される、ガリラヤでの活動に他ならないと考えているからです。どういうことかと言うと、復活の主イエスに会えるのはガリラヤに他ならないのだということです。ガリラヤは、ユダの中心地であるエルサレムからすれば辺境の地であり、キリストの登場の場としては相応しくないとされていました。ヨハネによる福音書7章に「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」また、「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」とあるとおりです。このあたりの事情の詳しい説明は省略しますが、要するにガリラヤはユダヤではあるけれど、正統ではなくて劣るとされ、いわば広い被差別地域であったとさえ言えるのです。この、ガリラヤでの生前のイエスとの出会いに注目し、再解釈していくただ中においてこそ、復活の主イエスとの出会いがあるのだというのがマルコによる福音書の考えです。

 この、ガリラヤとは、わたしたちにおいて捉えかえすなら、日毎に汗を流し、様々な苦労や悩みなど課題を担うべき、与えられている自分たちの現場のことに他なりません。この場に立ち返れとの促しにおいて、復活のキリストが待っていてくださるのだから安心して戻っていけとの命令でもあるのです。

 今日の聖書が語るのは最初の弟子たち4人の招きです。復活のキリストが今新たに「わたしについてきないさい」と呼びかけておられるということです。主イエスが呼ばわったなら、ついていくのが当然である、という奇跡物語に巻き込まれていくのです。常に主体はイエス・キリストその方なのです。たまたまガリラヤ湖のほとりを主イエスは歩いている時に、二組の兄弟をそれぞれ「御覧に」とあります。ただ視界に入ってきたので見かけたというより、もっと強いニュアンスがここにはあります。その人たちの心の底、心の奥、醜い部分、やがて裏切るであろうことをも含めた、あるがままの存在全体を表す一人ひとりを真っ直ぐに見つめた、という感じです。いわば、イエスに声をかけられた一人ひとりは主イエスの眼差しの中に包まれるようにして、守りの確かさへと導かれるのです。主イエスの呼びかけは、信じ従うということを起こす力があるのです。

 わたしたちは、イエス・キリストから「わたしに従いなさい」と声をかけられて、歩み始めましたけれども、しばしば、主イエスに出会い損ねることがあり、確信が揺らぐことがあります。しかし、イエス・キリストは、当然御承知の上で、何度でも何度でも立ち返るようにわたしたち一人一人に声をかけているのです。それができる、大丈夫だと復活の主イエスは語りかけてくださるのです。今日、イエス・キリストの神は、真っ直ぐに心の底まで見透かした上で、わたしたちに「わたしに従ってきなさい」と語りかけておられるのです。主イエスのところに集まってくる子どもたちを排除する、弟子たち同士の中での優劣や順位について議論する、主イエスの十字架への道を理解することができないなど、現実から自由になれない無理解な弟子たちの姿を思い出しますし、これらはわたしたちの姿でもあるのです。

 それでも、分かっているからこそ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけてくださるのです。たぶんマルコ福音書が言いたいのは、伝道者たる弟子たちが伝道される人たちを捕まえるということよりも、むしろ主イエスという網に弟子たちも含めた人々が絡めとられ、主イエスと共に生きるあり方に巻き込まれていく、一緒にされていくというイメージではないかと思うのです。網にかかって逃れようとする魚(=人間)たちの中にあって積極的にこの中に留まろうと呼びかける役割、それが「人間をとる漁師」の意味するところではないかと思います。みんな一緒に、ガリラヤである自分の場において生き直していこう、との主イエスの呼びかけ。その力が復活なのだと言いたいのではないでしょうか。この、ガリラヤに象徴された場は、わたしたちが今置かれ、生きている場のことに他なりません。ここに復活の主が前もって待っていてくださるがゆえに、恐れる必要はなく、主イエスの思いを受けながら生きていく姿勢を整えていこうとの呼びかけの力が、復活の主がガリラヤで会えるとの約束の言葉なのです。

 これについて、一つの歌を紹介します。歌詞を読んでみます。

『ガリラヤで主イエスに会える』川上盾 作詞・作曲

(くりかえし)ガリラヤで主イェスに会える よみがえりの主に

       ガリラヤってどこにある? それはわたしのそばに

傷ついて倒れてる あの人のすぐそばに

貧しさで飢え渇く あの人のすぐそばに (くりかえし)

いじめられ泣いている あの人のすぐそばに

さみしさに耐えている あの人のすぐそばに (くりかえし)

さあ行こう ガリラヤへ 愛と平和を求めつつ

さあ行こう ガリラヤへ あなたもわたしも共に

さあ行こう ガリラヤへ 神の正義を願いつつ

さあ行こう ガリラヤへ あなたもわたしも共に

 この歌詞を味わいながら思いを寄せ、ガリラヤで主イエスに会える約束に従えば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との言葉に今ある場において信じ従う決意が何度でも起こされるのです。そして、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」との約束が出来事となっていくに違いないのです。

 イースターとは、ただ単に「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」という『使徒信条』に代表される、信仰の基準の箇条を単純にオウム返しすることではありません。その内実を復活の主イエスのリアリティーによって押し出されるところに起こる事件に巻き込まれていくことです。生前の主イエスとの出会いによって生き直していくことだけではなく、出会い損ねることをも含めて主イエスとの関わりに巻き込まれてしまっていることを事実として受け止めていくことです。

 マルコによれば、最初に招かれたのはシモンすなわちペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人でした。この4人のうち3人の登場する重要な場面を2箇書見てみます。一つ目は9章の「山上の変貌」と呼ばれる山の上で服が真っ白に輝き、モーセとエリヤと話し合っていたが恐れたという記事です。雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との声を聞いたけれども、見回すと誰もいなくなっていたという記事です。シモン・ペトロは、この栄光の十字架の主イエスの姿を理解できなかったことが強調されています。また、14章のいわゆる「ゲッセマネの祈り」で主イエスが一緒に祈ってほしいと願ったのに寝てしまうという恥ずかしい事態も記されています。弟子たちの中のリーダー格の人たち自身が、すでに主イエスのあり方を見失っていたし、理解できていなかったし、共感もできていなかったことが畳み込まれるように記されています。彼らの無理解の現実にも拘わらず、主イエスは共にいることを願い続けていました。こうしてみると、マルコにおいて主イエスに招かれた人たちは、必ずしも模範的で立派な人格であったわけではないのです。むしろ、主イエスの真心から離れてしまうような鈍い心根から自由でなかったことが分かります。しかし、この人たちが主イエスから呼ばれ、招かれ続けていた事実は揺らぐことがありません。逮捕に際して逃げ出すような見苦しさからも、また他の弟子たちよりも自分たちが優っているという思い上がりからも自由ではありません。彼らが主イエスを見捨てることはあっても、この人たちは、主イエスから見捨てられることはないのです。主イエスは、誰であれ、どんな人であれ、その人の丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に受けいれ、肯定し、赦し、愛し続ける方なのです。弟子たち、人間の混乱や迷いにもかかわらず、一貫して愛することをやめないのです。この弟子たちへの主イエスの思いは、現代の弟子たちであるわたしたちへの思いと変わることはありません。あなたのいのちが大切でかけがいのないこと、条件なしに愛し続けてくださっている事実に変わりはないのです。この、弟子たちへの思いを復活の後に彼らは気付かされ、自らの裏切りを思い知らされるところから立ち直り、自らの現場であるガリラヤへと赴く勇気と希望が与えられたのです。2度と裏切るものかと。この自分たちの限界を超えた神の愛を復活のキリストのガリラヤでの再会の約束に人生を賭けたのです。主イエスの招きが事件として起こされていくからです。

 この主イエスは、直接の弟子たちだけではなくて、様々な弱りや病、苦しみや悩み、悲しみの中にある人たちと、どのような場でどのように出会ったのか、またどのようにして生き直しを促しながら一緒に生きることを志したのか、を今のこととして捉えなおすときには主イエスは時代を越えて過去の人ではなくなるのです。今、確実に復活者として生きている人であることが確認されるのです。わたしたちが、自分のことを顧みるならば、こんな時にはイエスならどうするのだろうとか、あの人やこの人の仕草や口ぶりの中に主イエスの影を見るような感覚を覚えるとか、今のこととしての主イエスを身近なこととして捉えることができる瞬間ってあると思うのです。聖書を読み祈る中で、折あるごとに生前の主イエスに集中することができるはずなのです。復活の主イエスが今のこととして出来事となるような、聖書の言葉が動き始めることってあるのです。このことを鏡のようにして今生かされている自分の責任的なあり方を捉えなおすことができるのです。さらに模索し、実践していくことへと‥。自分に都合の悪いことや貧乏くじを引いてしまったかのようなことや、あるいは困難や解決困難な課題の前でさえ、希望を失わないで立ち続けること。さらには、より良き道へと祈りをもって前進する勇気の源が備えられていることによる平安と喜びに生きること。復活の主イエス・キリストの本当が、自分の身に起こる瞬間はあるのです。今わからなくても、後から分かることもあるかもしれません。この主イエスから離れないようにと、復活の主イエスはそれぞれのガリラヤにおいて誰よりも先んじて待ち続けておられるからです。わたしとわたしたちをガリラヤである、わたしたちの現場で常に新しい出会いを求め、招き続ける方がここにいることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

 

祈り

いのちの源である神!

主イエスの復活の光に照らされている幸いを感謝します。

主イエスの死からのよみがえりに導かれつつ、歩ませてください。

現代における、様々な死の力に抵抗する勇気を与えてください。

復活の喜びの広がりに巻き込まれていることを信じます。

喜び合う世界が、神の国が来ますように。

この祈りを、復活の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                         アーメン。

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