マタイによる福音書 27章32~44節 「まことの神・まことの人」
本日は、マタイによる福音書27:32~44をテキストにして「まことの神・まことの人」という題で説教します。教会の暦では「棕櫚の主日」と呼ばれています。復活の1週間前の主日であり、主イエスのエルサレム入城から十字架への道行きを覚えることにあっています。次主日はイースター・復活日の備えとなる日です。
今日は「カルケドン信条」を読んでから始めたいと思います。
「カルケドン信条」とは、451年にカルケドンで行われた公会議で決められたものです。カルケドンは、今でいうとトルコのイスタンブールの西の半島の南のあたりになります。「カルケドン信条」は、当時勢いのあった異端たちとの違いを言い表しています。それらの異端について詳しくは述べませんが、「カルケドン信条」の中心の一つは、キリストが100パーセント完全なる神であると同時に100パーセント完全なる人間であるとのキリスト論が明確に主張されるものです。少し長いのですが読んでみます。
【この故に、我らは、聖なる教父らに倣い、凡ての者が声を一つにして、唯一人のこの御子我らの主イエス・キリストの、実に完全に神性をとり完全に人性をとり給うことを、告白するように充分に教えるものである。主は、真に神であり真に人であり給い、人間の魂と肉をとり、神性によれば御父と同質、人性によれば主は我らと同質、罪をほかにしてすべてにおいて我らと等しくあり給い、神性によれば代々の前に聖父より生れ、人性によれば、この終りの時代には、主は我らのためにまた我らの救のために、神の母である処女マリヤより生まれ給うた。この唯一のキリスト、御子、主、独子は、二つの性より(二つの性において)まざることなく、かけることなく、分けられることもできず、離すこともできぬ御方として認められねばならないのである。合一によって両性の区別が取除かれるのではなく、かえって、各々の性の特質は救われ、一つの人格一つの本質にともに入り、二つの人格に分かたれ割かれることなく、唯一人の御子、独子、言なる神、主イエス・キリストである。これは、はじめから、預言者らまた主イエス・キリスト御自身が懇ろに教え、教父らの信条が我らに伝えた通りである。】
この間、福音書の受難物語を読み返す中で、「カルケドン信条」を現代においてどのように受け止めるべきかを考えてきました。そして、この「信条」本日の聖書の個書を解釈し直すに至りました。以前はこんな風に理解していました。<「本当に神の子であるならば、今すぐ磔られている十字架から降りてみろ」と罵られます。自分で自分を救えないくせにキリストなのか、と。全能のゆえに十字架から降りることもできたけれど、あえて十字架から降りて自分を救うということをしなかった>と。このような考えは多数派だろうと思います。しかし、「カルケドン信条」に照らしたとき、そもそもイエスは十字架から降りることをしたくでもできなかったと考える方が自然だと思い至ったのです。
100パーセント人であるならば、十字架から降りることなどできない。それほど徹底してわたしたちと変わらない・全く同じ人としておられるのです。この、人として貫かれるあり方に、逆説的な意味で神の現実を読み取ります。
反感や躓きを覚える方もあるかも入れません。伝統的にイエスは「まことの神」であると同時に「まことの人」であるとされます。カルケドン信条で言われる「実に完全に神性をとり完全に人性をとり」という点が重要だと判断するからです。100パーセント神であり、同時に100パーセント人であるという、常識からすれば矛盾に満ちた理解の仕方です。真実があると受け止めるところにこそ、キリスト教信仰が表わされると思うのです。
100パーセント人であることに徹しているがゆえに、安易な神的能力を発揮することのない、わたしたちと変わらない・全く同じ人としておられるのです。ですから十字架から降りることができないのです。この様はゲツセマネの場でも表現されています。26:36 以下です。【それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」また、27:46の絶望もそうです。【 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。】ここまで、人として貫かれるあり方に、逆説的な意味で神の現実を読み取ったということです。
では「奇跡物語」はどうなのか、という疑問が起こるかもしれません。これは非神話化の視点から理解します。古代人にとって「奇跡」としか呼べない「何事か」が確実にあったのでしょう。おそらく、非常に深く鮮烈な人格的な「出会い」によって生き直しへと導かれた人の経験が「物語」られているということなのです。この意味において、わたしは「奇跡物語」は非常に重要なものだと理解しています。
さて、今日の聖書は常識的なフツウの人にとっては「これが救い主なのか?」との疑問が沸き上がることでしょう。また、こんな弱々しい姿から救われたと感じることができるでしょうか?しかし、この主イエスの十字架上での弱さは、わたしたちと変わらない人間としてのあり方を神が身代わりとして引き受けられていることを示すのだと、信仰という受け皿から理解したいのです。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」これらの罵りの言葉を痛みの中で聞いていたのです。逮捕される前の生活で休む間もなく活動し、体を酷使し、さらに鞭打たれており、体力はすでに消耗しきっていました。自ら負うべき十字架の横木さえ背負うことができなかったことが、「シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」とあるとおり分かります。さらには、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とあるように、ずたずたで傷だらけの身体の状態で軽蔑と罵りの中に置かれていたのです。ここにあるのは、本当なら降りられるのに十字架から降りようとしない強靭な意志力ではなく、ただただ無力で物理的な、また言葉の暴力にさらされた「弱さ」の極みです。
強さこそに価値があり意味があるのだ、と考え続けてきた古代から現代に至る世界の中で、この弱さにこそ意味や意義が立ち現れると聖書が提示した、と信じます。神の沈黙における、神の寄る辺なさにある見守りがあるのだとも信じます。すでに復活することが確実な約束であるのなら芝居がかった演技にしかすぎないでしょう。また、後に盛んになる「殉教者伝説」のような十字架の死が快感であるとか快楽であるかとの解釈には偽善があります。主イエスの十字架上の苦しみは、文字通りの苦しみの極みであったことから離れてはならないのです。この主イエスの十字架が、わたしたちの身代わりとか代理であることから、わたしたち自身が支えられる根拠であることへと理解の軸足が動かされる時に、意味が出来事として起こされるのです。絶望としての不条理としての主イエスの十字架の苦しみの姿から、最初の弟子たちは、身代わり・代理として、有名なイザヤ書53章から理解し直したのでしょう。53章3節から読んでみます。
【彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。】
この「弱さ」の極みとしての十字架が、「我がこと」であるとの理解へと導かれるようにして信仰は起こされるのです。パウロもそうでした。おそらく彼は外見から分かる病をもち、発作を起こす症状もあったと想像されます。そのパウロをして語らせたのが、「弱さゆえの強さ」という信仰理解でした。
パウロは、病など深刻な「弱さ」のただ中にこそ働く信仰についてコリントの信徒への手紙二で語っています。二箇書を引用します。12章10節、「 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 13章4節、「 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」。すなわち、「弱さ」の極みである主イエスの十字架が、「我がこと」とされているとき、「インマヌエル」という共にいてくださる神の支えと守りのうちに置かれていることが信じられるのです。
わたしたちは、聞きました。すなわち、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と。これらの主イエスの受けた言葉と暴力の事実が、理不尽な社会の中で生きるわたしたちを支えるのです。わたしたちの寄る辺なさを神の寄る辺なさが支えていることを共に確認しましょう。そして、神の言葉が出来事として今、この場に臨んでいることを信じ、ご一緒に祈りましょう。
祈り
わたしたちと共なる神!
主イエスの十字架上での苦しみが、わたしたちの身代わりであり代理であることが知らされました。
このようにして、わたしたちと共にいてくださることを貫かれる主イエスを思います。
主の苦しみが、わたしのため、わたしたちのためであることを心に刻ませてください。
この祈りを、十字架の主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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