« 2021年1月 | トップページ | 2021年3月 »

2021年2月

2021年2月28日 (日)

マタイによる福音書7章24~27節「強固な土台の上に建てなさい」(世界祈祷日を覚えて)

 今日は「世界祈祷日」を覚えての礼拝です。テーマ国はバヌアツ共和国です。先ほど地図をお見せしましたが、島が80以上もあり、そのうち人が住んでいるのは70くらいだと言われています。広い海の中に点々とある島々の連合体みたいなものです。

 今日の聖書は、主イエスの語った有名なたとえの一つです。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」とが類比されています。当然、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」は良いのだという、分かりやす過ぎる話となります。

 しかし、この分かりやすさを再確認していきたいと思います。バヌアツは地理上、サイクロンと呼ばれる台風に似た災害が身近だと言えますから、今日の聖書の言葉は真直ぐに受け止められるのだと思います。

 通常、家を建てる場合は建物を支えるための柱や壁を建て上げていく前に基礎の工事をします。現代建築の感覚は、このたとえの文脈からすればビルやマンションなどの大掛かりなものではないと思います。一戸建てくらいのものを考えた方がいいと思います。この場合、地面を均して鉄筋を芯にしてコンクリートで形にしたものを基礎にして、その上に家を建てていくことになります。

 今日の聖書が問題にしているのは、この基礎工事のことよりもむしろ、その前の段階の地面の状態を指しています。「岩の上に」と「砂の上に」とは、そういうことです。いわば、基礎の基礎である土台が大事なのだということです。家を建てるなら、しっかりした「岩の上に」であれば多少の揺らぎなどに耐えられるのだというのです。

 そして、このたとえの中心にある考え方とは、強固な土台はキリストなのだということです。基礎の基礎、土台の土台こそがキリストだという考え方は、家を建てることから様々な理解の広がりへと導いていきます。もちろん、一つの家を建てることもそうなのですが、それだけではなくて、人と人との関係であったり、社会の中での自分や他者の位置や関係のあり方も含まれます。つまり、今どのように生きているのか、どのように社会を作り出していくのかなどの基礎・土台がキリストであることを根拠にしていく発想が求められていることになります。ここからバヌアツという国を見つめながらつながりを祈ることが今日の課題であろうと言えます。

 バヌアツはサンゴ礁などを始め自然が豊かで、世界的にも有名なリゾート地の一つです。しかし、景色の綺麗さだけではなくて、そこに人がいる以上は様々な悪しきことから無縁ではないのです。表面だけで判断してはならないのです。また、祈りを合わせるためには、生活に困り果てている人たちの証言にも耳を傾けなければなりません。

 「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の道を選び取るためには、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」として主イエスに常に立ち返る必要があるのです。わたしたちは、祈りにおいてバヌアツの人々とつながりたいと願い、祈り求めています。わたしたちとバヌアツの人々の間には、基礎の基礎・土台の土台としての主イエス・キリストが確かにいてくださることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

 

祈り

いのちの源である神!

今日はバヌアツの人々を覚え、共に祈りつつ礼拝を守っています。

遠く離れていても、主イエスが強固で確実な土台であるがゆえに、

祈りによって結ばれていることを信じ、感謝します。

同じ時代を一緒に生きている実感と共感が与えられますように。

小さな関係から、より大きな関係が広がっていき、

このことが主イエスから守られ祝福されますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。

                       アーメン。

2021年2月21日 (日)

「平等ということ」【コリントの信徒への手紙二 講解2】

 先週お話したように、この8章と9章はパウロがコリントの教会に向かってエルサレム教会への「対外献金」の運動の停滞しているところからの盛り上げを促している部分になります。エルサレム教会の周りでは飢饉や政情の不安定さなどの理由が考えられますが、教会の中に貧しい人たちがいたことが考えられます(エルサレム教会の人たちが「貧しい人」を自称していた可能性は否定できませんが…)。その人たちのことを覚えながらの連帯の証しとして、です。

 7節によれば「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊か」であるのに何故という思いがあったのでしょう。10節では「この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。」と語ります。コリントの教会からエルサレム教会への献金運動をやり遂げることによって開かれていく関係が、13節の「釣り合いがとれる」ことを目標としているのです。パウロからすれば、献金によって「平等」が形成されるのだと言いたいのです。理由として15節では出エジプト記16章にあるマナの物語を思い起こさせています。エジプトから逃げ出して旅を続けるイスラエルの人たちが食料に困り、不平を述べたときに神が与えてくださったウズラとマナについての物語の一節になります。必要な量のマナを取り、「量ってみると」「それぞれが必要な分を集めた」とあり、食物を与えることにおいて神は「平等」であったとの証言となっています。この、出エジプト記の事態が神から与えられたように、「対外献金」の運動は神から与えられる「平等」を今のこととして受け止めることができると、パウロは確信していたということでしょう。

 コリントの教会の人の誰もが豊かであったわけではないでしょう。コリントの教会の貧しい人に対するパウロの牧会的配慮も読み取れるからです。ともかく「対外献金」という運動は、ただ単にお金の問題ではなくて、教会のつながり・連帯の証しとして同じ時代を生きている教会と教会の間の暖かな関係を神からの恵みに基づき形成していくことへの促しだと考えていたのでしょう。この、より豊かな側からより貧しい側へお金が動いていくことによって「平等」という目標に向かっていこうとの心意気のようなものがあるのではないでしょうか。

 少しズレるかもしれませんが、「ノブレス・オブリージュ」という言葉を思い出しました。フランス語で「高貴さは強制する」を意味します。「貴族の義務」とか「高貴な義務」と呼ばれます。それはお金や力や地位には義務が伴うということです。「施し」が義務付けられているということになります。この「ノブレス・オブリージュ」という言葉の始まりについて詳しく述べませんが、道徳的な発想としてはコリントの教会について当てはまるように思われます。7節にあるようにコリントの教会が「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊か」であるならば、当然「献金」という形にならなければならないはずなのです。ただ、「ノブレス・オブリージュ」という言葉の含みとしては「貴族」とか「高貴」という階級などの社会的地位が踏まえられていますから、もっと世俗化して一般化し、くだけた感じまでイメージを下げる必要があると思います。

 いずれにせよ、より富んだ側からより貧しい側へのお金の流れは自覚的に「平等」を目標とするあり方であるには違いありません。このような発想が起こるのは、そもそも社会の中には明確な「格差」があることが前提とされます。それなら、その「格差」自体の解消こそが必要ではないかとの声も聞かれそうです。もちろん「格差」は是正されなければならない課題の一つであることには違いありません。しかし、まずできることから為していきましょう、ということです。すぐに「格差是正」はできなくとも、水が高いところから低いところへ流れるように、富の流れを作り、「平等」に向かう方向性を、まずは教会という場から提案していくことが身近な課題であったということです。

 パウロの提案する、コリントの教会からエルサレム教会への「対外献金」の課題は、ただ単にコリントとエルサレムの教会間の関係に閉じられていないということです。つまり、「格差」は是正されなければならない課題であるとの理解に立ちながら、差し当たって「対外献金」によって支え合うことは必要なのだということです。とりわけ、社会的正義や社会的福祉を課題として担う諸教会が、「献金」や「募金」で他の教会や団体を支えていくことによって教会は整えられていくのではないかと思うのです。以前ある著名な牧師の書いた本を読んで愕然としたことがあります。一言でいえば、クリスチャンの信仰は献金額によって量ることができるとのことでした。信仰深い人は沢山献金するものだというのです。その本は古本屋に出して誰かの手にわたるのが嫌で資源ゴミに出しましたが、少し発想をズラすと完全な間違いとも言い切れない気がしてきました。自分の生活を切り詰めたり借金をしてまで献金する必要はないことをパウロも配慮していますが、「対外献金」によって支えていく姿勢は信仰的態度の一つとして捉えなおすことができるのではないか、ということです。もちろん、その教会や団体が正しい運営がなされていることは絶対の条件ですが…。

 わたしたちの教会も、月に一回のもの、いつも受け付けているもの、礼拝献金からのもの、クリスマス献金からのもの、といくつかの「対外献金」をしています。

 教会運営には、実際お金がかかります。牧師の生活を支え(ありがとうございます)、光熱費を始め様々な経費もかかります。そこで、自分たちの教会のためにだけ献金するという発想が起こってくるのは当然です。しかし、今一度立ち止まってみたいのです。教会は献金によって運営されるものですが、自分たちの教会のためにだけということでよいのか、ということです。先ほど、「ノブレス・オブリージュ」という言葉を紹介しました。わたしたちの教会は規模も小さく、「貴族」とか「高貴」という階級などの社会的地位ともあまり関係がないように思われます。しかし、もっとくだけた意味での「ノブレス・オブリージュ」があってもいいのかなとも思うのです。つまり、より多く持つ者(教会)から、より少ない者(教会)への広い意味での「財」の流れです。

 確かに、破れていく可能性は否定できません。使徒言行録の2章から6章を読むと、キリスト教会の最初期の頃から教会には破れのあったことが分かるからです。まず使徒言行録243節から47節を読んでみます。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 ここで描かれているのは、著者のルカの理解している理想的な教会の姿です。しかし、61節を読むと理想が破れていたことが分かります。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」このように普段話す言葉の違いによって教会内で「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」という記事から、「格差」が生じていたことが分かります。教会に集められているのは天使ではなく、あくまで赦された罪人としての人間です。そこに「格差」が生じても、争いが生じても仕方がないことかもしれません。

 それでも、です。パウロがそうであったように当面の課題としての「対外献金」の理想的な関係によって、つながり・連帯を求め続けることを決して辞めてはいけないのです。一人きりでは教会ではなく、教会が「二人また三人」という関係性によるのであれば、各個教会という閉じられた集団としてではなく、他の教会とのつながり・連帯において「見えざる教会」「教会の一致」という目標を目指して歩む道筋が整えられていくのではないでしょうか。

 教会のあり方が、より主イエスに近い方向に導かれていくこと。ここに目標を設定していけば、パウロの志した道から外れることはないだろうと思うのです。そうすれば、「対外献金」というつながりによって、緩いネットワークのようになっていくことで、それぞれの活動がより豊かになっていくのではないでしょうか。このことによって、わたしたちの「喜び」の質も深められていくに違いありません。たとえば、わたしたちはNPO法人在日外国人教育生活相談センター・信愛塾に献金やお米をささげていますが、それは信愛塾が支えている人たちを間接的に支えることとなり、そのことで実はわたしたちも豊かにされている、ということです。

 主イエスの導きに委ねていけば、きっと世界は豊かさにおいて「平等」な道へと導かれていくことを信じられるはずなのです。主イエスが間に居てくださって、執り成してくださることを覚えつつ、ご一緒に祈りましょう。

祈り

いのちの源である、わたしたちの神!

「対外献金」について学び考えつつ、もっと大きな広がりの中でつながっていくことの可能性が示されています。主イエスの思いを受けたパウロの示す方向へと道を正すことができますように。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。アーメン。

2021年2月14日 (日)

コリントの信徒への手紙二 8章1~9節 「豊かさと貧しさの間に」

 おはようございます。今日から新約聖書のコリントの信徒への手紙二の連続講解説教を始めます。特に参考となる註解書の都合で8章から始めたいと思います。コリントの信徒への手紙8章から9章は書かれた順序が前後しているとされる説に賛成しますが、聖書に書かれている順序を尊重したいと思います。

 まず8章と9章で、何が問題になっているかという前提についての説明をしておきたいと思います。それは、いわゆる「献金問題」です。パウロの生涯の中で、「献金」の扱い方の濃淡は一貫していたわけではないのですが、この部分を書いた時期には異邦人中心の教会からエルサレム教会に対する「対外献金」の運動をテトスと共に盛り上げているところだったようです。すでにパウロはアンティオキアの教会(異邦人教会)の代表としてバルナバと共にエルサレム教会のペトロたちと話し合いを行いました。この取り決めについては、ガラテアの信徒への手紙・使徒言行録に記録が残されていますが、ガラテアの信徒への手紙210節には、「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」とあります。貧しい人のことを忘れないようにペトロたちに言われたが、自分もこれは心掛けてきた、とは言っているわけです。「貧しい人」という言葉は、信仰深い人などが自分の謙虚さを言い表すために「小さい」とか「愚か」とかの言葉を使う習慣が影響していると思われますが、エルサレム教会は実際に「貧しい人」が多かった可能性があります。エルサレム教会の中で経済的に「貧しい人」に対する援助の仕組みがあったのかもしれません。

 さて、今日の聖書のあらすじをおさらいしてみます。パウロのこの手紙はコリントの教会に送ったものです。この時代の「教会」というのは、先ほどの「アンティオキアの教会」もそうですが、一つの教会を指すのではなくて、いくつもの家庭集会の集合体、というイメージです。コリントの教会は、アキラとプリスキラと助け合ってパウロが形成に力を注いだ教会です。コリントという都市は、パウロの時代は港町でもあり、商業都市として非常に栄えていました。お金や物が行きかうだけではなくて、宗教や文化、生活習慣や価値観の多様さもあり、思想的な流行の先端や、またコリントの神殿宗教も盛んでありました。神殿娼婦が千人いたともあり性的にも乱れていたとも言われています。そういう大都会で、パウロたちは教会形成を行ったのです。当初、順調であったコリントの教会でありましたが、パウロが離れた後、様々な問題が起こり、教会に向けて手紙を書かねばならない事態になったのです。それがコリントの信徒への手紙一と二です。

 今日の問題は、そんな中にあってコリントの教会にエルサレム教会に対する「対外献金」への参加を訴える部分となります。まず、マケドニア地域の教会の「対外献金」の状況を報告しています。マケドニアと言っても広いのですがパウロとの関係の良好さから考えるとフィリピの教会を念頭に置いているのではないかと思います。コリントの教会も最初は貧しい人もいたのでしょうが、成り上がる人が現れたのか商売に成功したのか、ともかく豊かになっていったのでしょう。一方、マケドニア地域の都市(フィリピ、テサロニケなど)はコリントよりも経済的に劣っているのだけれど、さらには「苦しみによる激しい試練を受けていた」にもかかわらず、「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。と。続く3節以下を「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」とあります。ここの訳が不正確であると聖書学者たちは指摘しており、たとえば、より正確に訳せば「人に惜しまず施す豊かさ」は「豊かな純真」、「慈善」は「恵み」となり、ニュアンスが随分変わってきます。「苦しみによる激しい試練」「極度の貧しさ」にあるマケドニアの教会が、エルサレム教会の「貧しさ」につながる証しとしての「対外献金」の運動に対して、パウロたちの期待以上に自由な思いでささげたのです。

 その一方で、あなたがたコリント教会はどうなのかを問うのです。パウロの言葉には力がこもっています。これは「対外献金」の協力のお願いの言葉ですから、コリント教会への勧めと確認として7節と8節で述べるのです。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」。

 コリントの教会は商売人が多かったでしょうから「対外献金」について、儲けにもならない金は出せないという判断があるのかもしれません。パウロはこの手紙では特に「募金」に相当する言葉は避けているように思われます。「恵み」「交わり」「奉仕」などもってまわった言葉遣いをしています。金にまつわる言葉を直接使わないことは現代日本でも珍しくありませんが、露骨な言い方は避けるという日本的感覚以上にパウロの場合、遠慮と言うより、もっと積極的な意味合いを込めているようです。そもそも、「対外献金」などは神を根拠とする事柄であり、ささげる側も受ける側をも包み込む恵みの領域での出来事なのだという理解がありそうです。お金が単に経済的な意味だけを意味するものではなくて、信仰のあり方自体と深く関わりのあることだということです。

 その根拠が9節で述べられます。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」。これを「受肉」と理解する向きもあるようですが、パウロの場合は違います。 410節の「 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」という言葉から理解するなら、「貧しさ」の極みが主の十字架であるとの理解に立っているはずです。その主イエスの十字架が「ささげる」業の極みであるなら、そこに向かって信じ従う者と群れの立ち位置は自ずと定められるとも言いたげです。この主イエスの十字架を基準とする生き方の態度として、この聖書の場合には「対外献金」が問題化されていることになります。主イエスの十字架ゆえに「苦しみによる激しい試練」「極度の貧しさ」におけるつながりが起こるということであろうし、そこにこそ復活の約束に生きる恵みがあるのだということではないでしょうか。

 阪神・淡路大震災の直後だったと思います。わたしの知り合いが牧師をしている関東教区の教会が新築をしました。全国募金をしていいのかどうか悩み、役員会でも議論されたようです。結局、全国募金を行いました。そうしたら、被災地の教会からの募金の多さに驚いた、と言うのです。自分たちの教会だけでなく街全体が被災し、今後の生活に不安を覚えていたであろう人々がそこにはいたはずです。マケドニアの教会の「苦しみによる激しい試練」「極度の貧しさ」と類比される事態があったはずなのです。そこでささげる態度。やはり教会のつながりとは、このようなところに希望があるのだというエピソードの一つです。

 主イエスの十字架の恵みからやってくる、祈りによるつながりが「対外献金」という具体となって表れるのでしょう。このようなつながりをパウロの言葉は今のこととして促している、と聞くことが赦されるのではないでしょうか。やせ我慢や見栄からではなく、決して自分に対して無理強いすることでもない自由な心。その信仰からのささげる行為。十字架の「恵み」から導き出される「喜び」がなければ、それはきっと虚しい。パウロは「喜び」を勧めました。これは、通常の意味での「喜び」、我こととしてだけの「喜び」ではありません。困難な状況の中で、支え続けてくださる主イエスゆえの信仰の表明であり、信仰告白の勧めであり促しです。今日はパウロの「対外献金」についての立場からの表明でしたが、基本的に教会は、お互いが喜ばしい存在であり、その群れなのだという、つながりに生きるものです。試練の中でこそ支え合うことは、キリスト教の良き伝統です。コロナ不安という試練の中におかれている今こそ、わたしたちはパウロの言葉を深く心に留めたいと思います。この、パウロから導かれる読み手としてのわたしたちの態度の根っこには「苦しみによる激しい試練」「極度の貧しさ」の極みを歩まれた主イエスの存在があるのです。この主イエスにおいて結ばれ、つながれているのです。ここにまことがあることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

祈り

いのちの源である、わたしたちの神!

教会は主イエスの十字架の恵みから喜びにおいて、つながりに生きるものです。このつながりを絶えず自己検証しながら具体へと積み重ねさせてください。主イエスのなさった働きを追いかけつつ、倣いつつ歩む一人ひとりであり、群れとしてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。 アーメン。 

« 2021年1月 | トップページ | 2021年3月 »

無料ブログはココログ