先週お話したように、この8章と9章はパウロがコリントの教会に向かってエルサレム教会への「対外献金」の運動の停滞しているところからの盛り上げを促している部分になります。エルサレム教会の周りでは飢饉や政情の不安定さなどの理由が考えられますが、教会の中に貧しい人たちがいたことが考えられます(エルサレム教会の人たちが「貧しい人」を自称していた可能性は否定できませんが…)。その人たちのことを覚えながらの連帯の証しとして、です。
7節によれば「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊か」であるのに何故という思いがあったのでしょう。10節では「この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。」と語ります。コリントの教会からエルサレム教会への献金運動をやり遂げることによって開かれていく関係が、13節の「釣り合いがとれる」ことを目標としているのです。パウロからすれば、献金によって「平等」が形成されるのだと言いたいのです。理由として15節では出エジプト記16章にあるマナの物語を思い起こさせています。エジプトから逃げ出して旅を続けるイスラエルの人たちが食料に困り、不平を述べたときに神が与えてくださったウズラとマナについての物語の一節になります。必要な量のマナを取り、「量ってみると」「それぞれが必要な分を集めた」とあり、食物を与えることにおいて神は「平等」であったとの証言となっています。この、出エジプト記の事態が神から与えられたように、「対外献金」の運動は神から与えられる「平等」を今のこととして受け止めることができると、パウロは確信していたということでしょう。
コリントの教会の人の誰もが豊かであったわけではないでしょう。コリントの教会の貧しい人に対するパウロの牧会的配慮も読み取れるからです。ともかく「対外献金」という運動は、ただ単にお金の問題ではなくて、教会のつながり・連帯の証しとして同じ時代を生きている教会と教会の間の暖かな関係を神からの恵みに基づき形成していくことへの促しだと考えていたのでしょう。この、より豊かな側からより貧しい側へお金が動いていくことによって「平等」という目標に向かっていこうとの心意気のようなものがあるのではないでしょうか。
少しズレるかもしれませんが、「ノブレス・オブリージュ」という言葉を思い出しました。フランス語で「高貴さは強制する」を意味します。「貴族の義務」とか「高貴な義務」と呼ばれます。それはお金や力や地位には義務が伴うということです。「施し」が義務付けられているということになります。この「ノブレス・オブリージュ」という言葉の始まりについて詳しく述べませんが、道徳的な発想としてはコリントの教会について当てはまるように思われます。7節にあるようにコリントの教会が「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊か」であるならば、当然「献金」という形にならなければならないはずなのです。ただ、「ノブレス・オブリージュ」という言葉の含みとしては「貴族」とか「高貴」という階級などの社会的地位が踏まえられていますから、もっと世俗化して一般化し、くだけた感じまでイメージを下げる必要があると思います。
いずれにせよ、より富んだ側からより貧しい側へのお金の流れは自覚的に「平等」を目標とするあり方であるには違いありません。このような発想が起こるのは、そもそも社会の中には明確な「格差」があることが前提とされます。それなら、その「格差」自体の解消こそが必要ではないかとの声も聞かれそうです。もちろん「格差」は是正されなければならない課題の一つであることには違いありません。しかし、まずできることから為していきましょう、ということです。すぐに「格差是正」はできなくとも、水が高いところから低いところへ流れるように、富の流れを作り、「平等」に向かう方向性を、まずは教会という場から提案していくことが身近な課題であったということです。
パウロの提案する、コリントの教会からエルサレム教会への「対外献金」の課題は、ただ単にコリントとエルサレムの教会間の関係に閉じられていないということです。つまり、「格差」は是正されなければならない課題であるとの理解に立ちながら、差し当たって「対外献金」によって支え合うことは必要なのだということです。とりわけ、社会的正義や社会的福祉を課題として担う諸教会が、「献金」や「募金」で他の教会や団体を支えていくことによって教会は整えられていくのではないかと思うのです。以前ある著名な牧師の書いた本を読んで愕然としたことがあります。一言でいえば、クリスチャンの信仰は献金額によって量ることができるとのことでした。信仰深い人は沢山献金するものだというのです。その本は古本屋に出して誰かの手にわたるのが嫌で資源ゴミに出しましたが、少し発想をズラすと完全な間違いとも言い切れない気がしてきました。自分の生活を切り詰めたり借金をしてまで献金する必要はないことをパウロも配慮していますが、「対外献金」によって支えていく姿勢は信仰的態度の一つとして捉えなおすことができるのではないか、ということです。もちろん、その教会や団体が正しい運営がなされていることは絶対の条件ですが…。
わたしたちの教会も、月に一回のもの、いつも受け付けているもの、礼拝献金からのもの、クリスマス献金からのもの、といくつかの「対外献金」をしています。
教会運営には、実際お金がかかります。牧師の生活を支え(ありがとうございます)、光熱費を始め様々な経費もかかります。そこで、自分たちの教会のためにだけ献金するという発想が起こってくるのは当然です。しかし、今一度立ち止まってみたいのです。教会は献金によって運営されるものですが、自分たちの教会のためにだけということでよいのか、ということです。先ほど、「ノブレス・オブリージュ」という言葉を紹介しました。わたしたちの教会は規模も小さく、「貴族」とか「高貴」という階級などの社会的地位ともあまり関係がないように思われます。しかし、もっとくだけた意味での「ノブレス・オブリージュ」があってもいいのかなとも思うのです。つまり、より多く持つ者(教会)から、より少ない者(教会)への広い意味での「財」の流れです。
確かに、破れていく可能性は否定できません。使徒言行録の2章から6章を読むと、キリスト教会の最初期の頃から教会には破れのあったことが分かるからです。まず使徒言行録2章43節から47節を読んでみます。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
ここで描かれているのは、著者のルカの理解している理想的な教会の姿です。しかし、6章1節を読むと理想が破れていたことが分かります。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」このように普段話す言葉の違いによって教会内で「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」という記事から、「格差」が生じていたことが分かります。教会に集められているのは天使ではなく、あくまで赦された罪人としての人間です。そこに「格差」が生じても、争いが生じても仕方がないことかもしれません。
それでも、です。パウロがそうであったように当面の課題としての「対外献金」の理想的な関係によって、つながり・連帯を求め続けることを決して辞めてはいけないのです。一人きりでは教会ではなく、教会が「二人また三人」という関係性によるのであれば、各個教会という閉じられた集団としてではなく、他の教会とのつながり・連帯において「見えざる教会」「教会の一致」という目標を目指して歩む道筋が整えられていくのではないでしょうか。
教会のあり方が、より主イエスに近い方向に導かれていくこと。ここに目標を設定していけば、パウロの志した道から外れることはないだろうと思うのです。そうすれば、「対外献金」というつながりによって、緩いネットワークのようになっていくことで、それぞれの活動がより豊かになっていくのではないでしょうか。このことによって、わたしたちの「喜び」の質も深められていくに違いありません。たとえば、わたしたちはNPO法人在日外国人教育生活相談センター・信愛塾に献金やお米をささげていますが、それは信愛塾が支えている人たちを間接的に支えることとなり、そのことで実はわたしたちも豊かにされている、ということです。
主イエスの導きに委ねていけば、きっと世界は豊かさにおいて「平等」な道へと導かれていくことを信じられるはずなのです。主イエスが間に居てくださって、執り成してくださることを覚えつつ、ご一緒に祈りましょう。
祈り
いのちの源である、わたしたちの神!
「対外献金」について学び考えつつ、もっと大きな広がりの中でつながっていくことの可能性が示されています。主イエスの思いを受けたパウロの示す方向へと道を正すことができますように。
この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。アーメン。
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