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2021年1月10日 (日)

マタイによる福音書 7章15~20節 「偽預言者を見極める」

 今日の聖書の「偽預言者を警戒しなさい。」を読んで、もしかしたら様々な教会のホームページや看板に書かれている言葉を思い起こした方もあるかもしれません。たとえば、こんな感じです。「当教会は、ものみの塔(エホバの証人)、世界平和統一家庭連合(旧統一協会)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)とは一切関わりありません。」。少し積極的なものだと、「(これらの宗教で)お困りの方はご相談ください」、と書かれています。この三つはキリスト教の主流派の理解するところの、異端で規模も大きく、有名なものです。他にも問題のあるキリスト教を標榜する宗教はありますし、正統と自称する教会においても疑わしいものがあることは否定できません。

 しかし、今日のテーマは、いわゆる正統と異端という問題に閉じられているものではありません。正統とされる教会内部の問題性を捉えているからです。何度かお話してきましたが、マタイ福音書は、教会とは善人と悪人の混合体であるとの理解に立っています。羊と山羊を分けるとか麦と毒麦を収穫まで放っておくように、と指摘しています。これは、やがて来るべき裁きの日に担保することの決意の表れであり、今の教会員を相応しいかどうかを人間が裁くことを断念することであり、最終的な判断は神に委ねるということです。しかし、同時に教会の今において許せない状態もあるのだという歯がゆさもあるのです。その一つが教会の中に偽預言者がいるのだというのです。少なからずの影響や発言力、確からしい言葉をもつカリスマがある人たち教会内にい、教会を思いのままに動かそうという意志があるのだということです。ここに危機感を抱いているマタイの教会が、主イエスに語らせているのかもしれません。

 教会は、新約聖書のギリシャ語ではエクレシアと呼ばれます。人の集まりのことですが、意味するところは、神によって集められた群れのことです。この教会としての一人ひとりのありようが、主イエス・キリストに信じ従う道から外そうとする偽預言によって脅かされているので、「偽預言者を警戒しなさい」と言われているのです。この「偽預言者」と呼ばれる人たちの特徴がどのようなものであったかについては特定できませんでしたが、教会の歩みについて大きな影響力をもっていた人たちであるでしょう。つまり、教会が主イエス・キリストの具体的な身体として、どのようにしてあり、どのようにして働くかの決定づける方向性を指導する立場にあったと言えます。

 教会は、その時々の歴史にあって具体的に存在します。心の中や頭の中に存在するものではないからです。主イエスをキリストと告白することは、一つの政治的決断でもあるからです。

 そこで教会の信仰のありようについて偽物ではなく、本物を志した宣言を紹介します。何度も扱っているのですが、今日の聖書との関わりからすれば重要だと思われます。それは、いわゆる『バルメン宣言』です。これは1934年5月29-30日、バルメン告白会議において決議されました。正式名は「ドイツ福音主義教会の現状に関する神学的宣言」です。

『第1テーゼ』

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14・6)

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10・7、9)

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 ここで特に注目したいのは「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」という箇書です。教会が依って立つのは「唯一の御言葉」のみであるという決意表明です。したがって、ここから「それと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならない」とあるように、承認すべき事柄はイエス・キリスト以外からやってくることはあり得ないということです。おそらく、「偽預言」とは、人々が簡単に同意し納得し、なびいていく仕方で魅力的な存在であったのでしょう。多少理性的であった人たちでさえ、つい魅かれてしまう力です。『バルメン宣言』が語るところは、当時のドイツ社会にあって多くの教会がナチスに賛同し、ヒトラーを指導者として認めていくことと信仰のあり方をつなげていくことの問題性をも指摘しているのです。この『バルメン宣言』に立つ牧師や教会は抵抗運動を起こします。この運動は「ドイツ教会闘争」と呼ばれます。しかし、残念なことにやがて敗北していきます。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」、これは現代の教会も無視してはならない点です。

 偽預言者は、教会の歴史の中で、巧みに騙そうとし、自分たちの主張こそが正しいと言い募るのです。この点について詳細は述べませんが、日本基督教団は、その成立からして天皇制に敗北したところから始まったことを心に刻んでおく必要があります。これに反して、国家に従順した態度は、教会を守るためであったという美談が語られることがありますが、そもそも十戒の第一戒違反であったことは指摘できます。出エジプト記202節と3節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」。そうです。わたしたちは、イエス・キリストの神以外を神として認めないのです。この点をあやふやにするための誘惑を語る者を「偽預言者」と呼ぶことができるのです。

 イソップ物語には次のようなものがあります。狼が羊を狙っていました。どうしても獲物を獲ることができないでいたのです。それは羊飼いがしっかりしていたからです。ところがある夜のことです。狼は羊の皮が置き去りにされて忘れられているのを見つけたのです。そこで、次の日、狼はその羊の皮を被って、羊のいる牧場に出かけました。チャンスをものにした狼は羊の群れといっしょに囲いの中に紛れ込むことに成功します。ところがその夜は、羊飼いが夕食に羊のスープを食べたいと思い、ナイフを持って囲いの中に入りました。そして、羊飼いが殺したのは、羊の皮を被った狼でした。簡単に言うと、こんな話です。悪意による行いは、自らを死に至らせるほどなのだというのです。このようにして、羊の皮で偽装しても化けの皮がはがれてしまうものだというのです。おそらく、イソップが作った話か分からないかもしれませんが、「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」から発想したのでしょう。

 このイソップ物語を踏まえて聖書に帰っていくと、「偽善者」は恐れる必要がないという結論を導き出せるでしょう。16節から20節で説明されているとおりに、です。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」「偽善者」の悪意は、今明らかにされていなくても、いずれ裸にされるようにすべてが明らかにされる、そのような「実」によって知らされるのは確実である、ということです。

 マタイ福音書は教会の内側に問題意識を感じていたのでしょうが、もっと広い射程距離をもって解釈することもできると思います。現代社会、わたしたちの暮らす社会にも、やはり悪意をもって善意を偽装する羊の皮を被った狼に喩えられる人たちや勢力は教会の内外を問わず存在します。しかし、見極める心と知恵が備えられていることに信頼していればいいのです。バルメン宣言によれば、「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」という点です。マタイ福音書の理解からすれば、教えとして主イエス・キリストがいつも共にいてくださる現実とでもいうのではないでしょうか。ここに立ち続ける限り、主イエス・キリストに信じ従う道は、わたしたちに向かって開かれているのです。それが、「狭い門」「狭い道」であったとしても、です。聖書の言葉を信頼し、「偽預言者」にしっかり警戒していれば惑わされることはない、ということです。だからこそ、わたしたちは安心して今日からの信仰に道を前進できる幸いに与ることができるのです。

 

祈り

主なる神!

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ、と祈りつつ歩ませてください。

「偽預言者」を見極める知恵と心を与えてください。

それにもまして、主イエスの道を信じ従わせてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                       アーメン。

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