ヨハネによる福音書 14章6節 「道・真理・命のあるところ」 横田幸子
1)「わたしは道である」について 画家・東山魁夷の代表作「道」という絵は、簡単な構図なのに、惹きつけられる。元となった何枚かのスケッチには、道をとりまく風景が描かれていて、視る者の眼・心が開かれる。戦争で召された家族全員のことも一言、語られている。これら作品の背後にあるものが「道」の絵に深みを与えているのだろう。魁夷は戦時、熊本城から見た阿蘇の自然に衝撃を受け、名声を望んでカンバスに向かう姿勢は間違いであったと気付かされた。絵を描く時には、その背後にある自然や事柄への心があってこそ、自然そのものの美しさ・深さの前に立たされるということであった。
イエスが「わたしは道である」と言われた言葉には同様に、背後にイエスの人生そのもの・多くの人たちとの関わりがある。イエスが様々な障がいや困難のあった人たちを癒すことが「奇跡物語」として聖書には記述されているが、実は「奇跡」とは、イエスに出会った一人ひとりに生きることへの方向転換が起こされたということなのではないだろうか。今まで社会的な価値観によって自己規定していたことを知らされる。自分を呪縛していたものからの解放である。
2)「わたしは真理である」について ヨーロッパ型の大学や世界的に著名な研究機関の多くが、聖書の言葉「 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)を建物に刻んでいるとのこと。そこには、学問研究や芸術研鑽など真理の探究こそが人間を人間たらしめ、自由を手にすることができるという共通理解がある。
しかしイエスの語る「真理」は、全てのものを相対化する目をもつことのようだ。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:43-44)「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20-21)などが示すように。さらにイエスは言う。神の国はすでに始まっている、宗教作法を守れず「罪人」呼ばわりされている人や異国人と共なる食卓が開かれているではないか、と。イエスの言う「真理」は、人が他者と出会ってお互いの違いを知り、認め、「神の食卓」に招かれている喜びをもてることに他ならない。
3)「わたしは命である」について 1)と2)で言われていることの総まとめとして「神に愛されている、わたしとあなた」という命の「根源」を自覚して、それぞれに備えられた道を歩むことに他ならない。
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