マタイによる福音書 18章6~9節 「罪が私達に問いかけるもの」 井谷 淳 伝道師
イエス時代の古代イスラエル社会における「社会的な罪の概念」は「律法」により定められています。「律法」という言葉から私達キリスト者が思い起こすのはモーセの十戒等が「代表的なもの」であります。福音書の中でイエスはその「律法規定」の「運用」について律法学者と「論争」或いは「反駁する」という「場面」が幾つか存在致します。代表的な箇所がヨハネ福音書の(8:1~11)の「姦淫の罪を犯した女性」に対する「擁護」の場面であります。
この箇所でイエスは律法学者集団の「罪に対する意識の在り方」と「彼等の自己検証性」の「薄さ」を「指弾」してゆく事により、女性を「律法」における「極刑」から「免れさせた」のであります。最後に女性に対して「もう罪を犯してはいけない」という「言葉」を放ちます。これは「罪の在り方」に対して、そして自分自身が「本当にあなた自身は罪人か否か」を「律法」から離れ、この女性の「主体的判断」に「委ねている」のであるとも言えます。
本日の箇所の並行記事としてマルコ福音書(9:42~50)が存在いたしますが、7節「世は人をつまずかせるから不幸だ、つまずきは避けられない」という文言に見られる様に「世」即ち「社会の在り方」に関して言及しているのがこのマタイ福音書であります。「世」「社会」に対する批判的考察が記載されている理由として筆者であるマタイの元来の職業が「忌み嫌われていた」「徴税人」であった事が考えられます。徴税人が忌み嫌われていた理由の一つは「徴収した金銭」に対して「不正行為」を行う人間が多かった事が挙げられます。
恐らくマタイもイエスと出会う以前の過去において何らかの「公にしがたい業務記録」が存在したのかもしれません。しかし現実にローマ帝国という搾取国家に「おもねらなければならなかった」「宮仕えの身」であったからこそ「社会の現実」も「痛切に理解していた」、言葉を変えれば「浮世の辛さ」「つまずき」をイエスの直弟子集団の中で「異なる角度」で「痛い程わかってしまっていた」人間であるのではないでしょうか。
「つまずき」とは両義的に「罪を犯した自分自身」或いは「罪があるとされてしまった自分」への「比喩」であります。マタイ自身は恐らく過去の「職務上の被差別的扱い」をこの箇所において告発しており、またイエス自身も「自身の罪」という事に鋭敏な「自己批判性」「自己検証性」をもっていたのでしょう。例を挙げると「シリア・フェニキアの女性の信仰」(マルコ7:24~30)の聖書箇所で娘の治療依頼を「外国人、他宗教者の治療依頼」を「断る」という文脈で女性の「必死の懇願」を退けてゆこうとします。その「他宗教の聖職者であるイエス」への「必死の懇願」を「断らなければいけない理由」として「ユダヤ教ラビ」である「イエス自身」の「現世的な保身の意識」も含まれていたと考えられます。「他宗教者・外国人」である女性に対して「子犬」という表現をしてゆくイエスの「根底感情」にはあからさまに「地域的差別」「人種的差別」「他宗教者への差別意識」が漂っているのです。
この出来事の類似の箇所はマタイ福音書にもあり(マタイ16:21~28カナンの女性の信仰)は「本日の当該箇所」の以前に記されています。必死の女性の懇願に「罪責感」を覚えたイエスは「回心」し女性の娘の治療を行います。イエスの中で或る「意識改革」が起きたともいえましょう。イエスは外国人女性の親族に対するこの「治療行為」を行う事により、「ユダヤ教聖職者」としての「違反行為」に「確信的」に「踏み出した」のであります。そしてこの「外国人女性の娘」の「違反治療」を皮切りに「大勢の外国人」が遠方から訪ねてくる状況が発生します。イエスはこの時点で「ユダヤ教聖職者としての自分の体裁」と「決別」してゆきます。即ち「世を捨て」「ユダヤ教聖職者」という立場を最早「放棄」し「外国人来訪者」の「治療」を「公に」開始してゆくのです。(マタイ15:29~31)また「律法違反」をした人間を許していくイエスの言動は他にも存在し(ルカ18:9~14)そのような行為を重ねてゆくに連れてイエスは「世」である「体制」に「裁かれる存在」に近づいてゆくのです。
「つまずき」である「世」を捨ててゆく行為が「手か足を切り捨ててゆく」(8節)行為であり「片目を抉り出す行為」(9節)であるのです。この「世を捨てる」~「片手」「片足」「片目」を切り離す行為は、「ユダヤ教聖職者」という「社会的属性」との「決別」を意味し、「社会的自殺」「職業的自殺」をも意味します。「ユダヤ教という「現世的権威」の中で定められた「律法」「ユダヤ教聖職者としての立場性」から離れ、最早「自分と神との関係」の中での「信仰的良心」を中心に行動して行く、イエスの語る「天の国」に入るという「確信」はそのような「神と自分との契約関係」において「本来的自己」に「立ち還ってゆく」行為なのであります。イエスが「私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)という言葉はイエス自身が自らの半身であった「ユダヤ教ラビ」という「世をしのぶ姿」を切り離した事を意味するのです。
本日の箇所の直前の箇所に「天の国で一番偉い者」(マタイ18:1~5)という小見出しがついた箇所があります。イエス集団の中での「地位」を確保したい「功名心」に駆られた弟子の「質問の背後」に存在するのはイエスの弟子集団の中で「上席に座したい」という「イエスを中心とした」「世」における自分の「立場性」であります。イエスは「子どもの一人」を連れてきました。「外国人の子ども」であったかも知れません。当該箇所の「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」(8:1)における小さな者とは、イエスを慕って、或いは病気を治して貰いたいと「藁にもすがる思い」で遠路訪ねてきた外国人やその子ども達も含まれていた事でしょう。「治して欲しい」と純粋にイエスを訪ねてきた「人々」社会的には「無名」で「現世的に力の無い」「小さき者」こそが天の国に入る「資格」があり、「山上の説教」で述べられる「義に飢え乾く」人間であります。「天の国」は正にその人達の為に用意されているのです。
イエスは弟子の前で「これらの小さな者の一人」である「子ども」をつれてきます。「誰が一番偉いか?」という「世」の「ありかた」に捉われている「弟子」の思考に気がつき、また「嘆き」を覚えた事でしょう。日に日にイエスを取り巻く「人間集団」は増大し外国人も多く含まれる様になってゆきます。弟子達は「焦り」を覚えていたのかもしれません。「イエス先生」の「一番弟子はこの私だ」と自分自身を吹聴せずにはいられなかったのでしょう。
これらの「小さな者の一人」を「つまずかせる者」とはこの「一番弟子と呼ばれたい」と願っていた「弟子達」でもあり「律法主義者」であり、「社会」「世」の在り方、「社会」の中で「正義」とされている「論理体系」〔古代社会における律法〕を「無検証」「無批判」で受け入れてしまう「大衆」の「在り方」であったのでありましょう。その意味において「現代のキリスト教会」も「危うさ」を抱えているのかも知れません。
本日の箇所の小見出しである「罪への誘惑」における「罪」とは「世」の在り方に「無批判」に迎合してゆく事であり、「社会通念」としての「正義」或いは「最大公約数的なもの」に過ぎない「社会常識」を「無検証で受け入れる事」であります。この「社会常識」に「符号」しない者は排除されて行きます。現代社会学用語でいう「マイノリティ」とは「国籍」「人種」「性別」「職業」「地域」といった「可視的な事柄」のみではありません。「社会通念と異なるものの見方」「異なる価値体系」を持っている「人間の在り方」をも含むと私は考えます。その意味において本日の聖書箇所における「罪への誘惑」とは「既存の常識観」「価値体系」を「盾」に「そうでない人間」を安易に排除し「体制側の一員」であるという「安心感」を得る事への「誘惑」であり、安易に「人間の在り方」を裁いてゆき自己の「優位性」を得ようとする事への「誘惑」なのではないかと感じます。
「多様性」「共生」が理想として「謳われている」現代社会において「見えない」「マイノリティ」の「存在」を見逃さないようにと「イエスの言葉」は私達に問いかけている気がしてなりません。「小さい」或いは「世」によって「小さくされているから」「見えない」のであります。
「片手」「片足」「片目」である「社会的属性」「社会的安定」を放棄してゆく事は私達には非常に困難な事柄であります。しかしイエスの命をかけた「世」に纏わる「罪責告発」は社会で「最も小さくされた人間の在り方」に「社会の構造的暴力」が「潜んでいる事実」を私達に突きつけます。私達が毎週目の当たりにしている「十字架」は「小さき者を作り出してしまった」「私達自身」が抱える「罪の内実」を常に検証させ続けているのであります。
お祈りいたします。
祈り
御在天の主なる神、
つまずきをもたらす「世」の「在り方」に対して私達一人一人が責任のある立場であります。「罪の実体」と「他者を罪に定めてゆこうとする」「自分自身の在り方」を省みつつ検証してゆく「知恵」と「導き」をどうか与えてください。
主イエス・キリストの御名を通し、祈りを御捧げ致します。 アーメン。
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