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2021年1月

2021年1月31日 (日)

マタイによる福音書 18章6~9節 「罪が私達に問いかけるもの」  井谷 淳 伝道師

 イエス時代の古代イスラエル社会における「社会的な罪の概念」は「律法」により定められています。「律法」という言葉から私達キリスト者が思い起こすのはモーセの十戒等が「代表的なもの」であります。福音書の中でイエスはその「律法規定」の「運用」について律法学者と「論争」或いは「反駁する」という「場面」が幾つか存在致します。代表的な箇所がヨハネ福音書の(8111)の「姦淫の罪を犯した女性」に対する「擁護」の場面であります。

 この箇所でイエスは律法学者集団の「罪に対する意識の在り方」と「彼等の自己検証性」の「薄さ」を「指弾」してゆく事により、女性を「律法」における「極刑」から「免れさせた」のであります。最後に女性に対して「もう罪を犯してはいけない」という「言葉」を放ちます。これは「罪の在り方」に対して、そして自分自身が「本当にあなた自身は罪人か否か」を「律法」から離れ、この女性の「主体的判断」に「委ねている」のであるとも言えます。

 本日の箇所の並行記事としてマルコ福音書(94250)が存在いたしますが、7節「世は人をつまずかせるから不幸だ、つまずきは避けられない」という文言に見られる様に「世」即ち「社会の在り方」に関して言及しているのがこのマタイ福音書であります。「世」「社会」に対する批判的考察が記載されている理由として筆者であるマタイの元来の職業が「忌み嫌われていた」「徴税人」であった事が考えられます。徴税人が忌み嫌われていた理由の一つは「徴収した金銭」に対して「不正行為」を行う人間が多かった事が挙げられます。

 恐らくマタイもイエスと出会う以前の過去において何らかの「公にしがたい業務記録」が存在したのかもしれません。しかし現実にローマ帝国という搾取国家に「おもねらなければならなかった」「宮仕えの身」であったからこそ「社会の現実」も「痛切に理解していた」、言葉を変えれば「浮世の辛さ」「つまずき」をイエスの直弟子集団の中で「異なる角度」で「痛い程わかってしまっていた」人間であるのではないでしょうか。

 「つまずき」とは両義的に「罪を犯した自分自身」或いは「罪があるとされてしまった自分」への「比喩」であります。マタイ自身は恐らく過去の「職務上の被差別的扱い」をこの箇所において告発しており、またイエス自身も「自身の罪」という事に鋭敏な「自己批判性」「自己検証性」をもっていたのでしょう。例を挙げると「シリア・フェニキアの女性の信仰」(マルコ72430)の聖書箇所で娘の治療依頼を「外国人、他宗教者の治療依頼」を「断る」という文脈で女性の「必死の懇願」を退けてゆこうとします。その「他宗教の聖職者であるイエス」への「必死の懇願」を「断らなければいけない理由」として「ユダヤ教ラビ」である「イエス自身」の「現世的な保身の意識」も含まれていたと考えられます。「他宗教者・外国人」である女性に対して「子犬」という表現をしてゆくイエスの「根底感情」にはあからさまに「地域的差別」「人種的差別」「他宗教者への差別意識」が漂っているのです。

 この出来事の類似の箇所はマタイ福音書にもあり(マタイ162128カナンの女性の信仰)は「本日の当該箇所」の以前に記されています。必死の女性の懇願に「罪責感」を覚えたイエスは「回心」し女性の娘の治療を行います。イエスの中で或る「意識改革」が起きたともいえましょう。イエスは外国人女性の親族に対するこの「治療行為」を行う事により、「ユダヤ教聖職者」としての「違反行為」に「確信的」に「踏み出した」のであります。そしてこの「外国人女性の娘」の「違反治療」を皮切りに「大勢の外国人」が遠方から訪ねてくる状況が発生します。イエスはこの時点で「ユダヤ教聖職者としての自分の体裁」と「決別」してゆきます。即ち「世を捨て」「ユダヤ教聖職者」という立場を最早「放棄」し「外国人来訪者」の「治療」を「公に」開始してゆくのです。(マタイ152931)また「律法違反」をした人間を許していくイエスの言動は他にも存在し(ルカ18914)そのような行為を重ねてゆくに連れてイエスは「世」である「体制」に「裁かれる存在」に近づいてゆくのです。

 「つまずき」である「世」を捨ててゆく行為が「手か足を切り捨ててゆく」(8節)行為であり「片目を抉り出す行為」(9節)であるのです。この「世を捨てる」~「片手」「片足」「片目」を切り離す行為は、「ユダヤ教聖職者」という「社会的属性」との「決別」を意味し、「社会的自殺」「職業的自殺」をも意味します。「ユダヤ教という「現世的権威」の中で定められた「律法」「ユダヤ教聖職者としての立場性」から離れ、最早「自分と神との関係」の中での「信仰的良心」を中心に行動して行く、イエスの語る「天の国」に入るという「確信」はそのような「神と自分との契約関係」において「本来的自己」に「立ち還ってゆく」行為なのであります。イエスが「私は既に世に勝っている」(ヨハネ1633)という言葉はイエス自身が自らの半身であった「ユダヤ教ラビ」という「世をしのぶ姿」を切り離した事を意味するのです。

 本日の箇所の直前の箇所に「天の国で一番偉い者」(マタイ1815)という小見出しがついた箇所があります。イエス集団の中での「地位」を確保したい「功名心」に駆られた弟子の「質問の背後」に存在するのはイエスの弟子集団の中で「上席に座したい」という「イエスを中心とした」「世」における自分の「立場性」であります。イエスは「子どもの一人」を連れてきました。「外国人の子ども」であったかも知れません。当該箇所の「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」(81)における小さな者とは、イエスを慕って、或いは病気を治して貰いたいと「藁にもすがる思い」で遠路訪ねてきた外国人やその子ども達も含まれていた事でしょう。「治して欲しい」と純粋にイエスを訪ねてきた「人々」社会的には「無名」で「現世的に力の無い」「小さき者」こそが天の国に入る「資格」があり、「山上の説教」で述べられる「義に飢え乾く」人間であります。「天の国」は正にその人達の為に用意されているのです。

 イエスは弟子の前で「これらの小さな者の一人」である「子ども」をつれてきます。「誰が一番偉いか?」という「世」の「ありかた」に捉われている「弟子」の思考に気がつき、また「嘆き」を覚えた事でしょう。日に日にイエスを取り巻く「人間集団」は増大し外国人も多く含まれる様になってゆきます。弟子達は「焦り」を覚えていたのかもしれません。「イエス先生」の「一番弟子はこの私だ」と自分自身を吹聴せずにはいられなかったのでしょう。

 これらの「小さな者の一人」を「つまずかせる者」とはこの「一番弟子と呼ばれたい」と願っていた「弟子達」でもあり「律法主義者」であり、「社会」「世」の在り方、「社会」の中で「正義」とされている「論理体系」〔古代社会における律法〕を「無検証」「無批判」で受け入れてしまう「大衆」の「在り方」であったのでありましょう。その意味において「現代のキリスト教会」も「危うさ」を抱えているのかも知れません。

 本日の箇所の小見出しである「罪への誘惑」における「罪」とは「世」の在り方に「無批判」に迎合してゆく事であり、「社会通念」としての「正義」或いは「最大公約数的なもの」に過ぎない「社会常識」を「無検証で受け入れる事」であります。この「社会常識」に「符号」しない者は排除されて行きます。現代社会学用語でいう「マイノリティ」とは「国籍」「人種」「性別」「職業」「地域」といった「可視的な事柄」のみではありません。「社会通念と異なるものの見方」「異なる価値体系」を持っている「人間の在り方」をも含むと私は考えます。その意味において本日の聖書箇所における「罪への誘惑」とは「既存の常識観」「価値体系」を「盾」に「そうでない人間」を安易に排除し「体制側の一員」であるという「安心感」を得る事への「誘惑」であり、安易に「人間の在り方」を裁いてゆき自己の「優位性」を得ようとする事への「誘惑」なのではないかと感じます。

 「多様性」「共生」が理想として「謳われている」現代社会において「見えない」「マイノリティ」の「存在」を見逃さないようにと「イエスの言葉」は私達に問いかけている気がしてなりません。「小さい」或いは「世」によって「小さくされているから」「見えない」のであります。

 「片手」「片足」「片目」である「社会的属性」「社会的安定」を放棄してゆく事は私達には非常に困難な事柄であります。しかしイエスの命をかけた「世」に纏わる「罪責告発」は社会で「最も小さくされた人間の在り方」に「社会の構造的暴力」が「潜んでいる事実」を私達に突きつけます。私達が毎週目の当たりにしている「十字架」は「小さき者を作り出してしまった」「私達自身」が抱える「罪の内実」を常に検証させ続けているのであります。

 お祈りいたします。

祈り

御在天の主なる神、

つまずきをもたらす「世」の「在り方」に対して私達一人一人が責任のある立場であります。「罪の実体」と「他者を罪に定めてゆこうとする」「自分自身の在り方」を省みつつ検証してゆく「知恵」と「導き」をどうか与えてください。

主イエス・キリストの御名を通し、祈りを御捧げ致します。 アーメン。

2021年1月24日 (日)

マタイによる福音書 7章24~27節 「土台はキリスト」

 今日の聖書で問われているのは、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」の比較です。自然に読めば、「賢い人」の選択するのが当然だとでもいうように語られています。

わたしたちはキリスト者として日々の暮らしを続けています。すべてが順調で何も悩みごとなないようなときには主イエス・キリストについて思い起こさないことは残念な人間の限界なのでしょうし。そもそもの発想の根っこに「土台はキリスト」の現実を忘れてしまっていたり、ということもあるのでしょう。そのようなわたしたちが今、実際に暮らしている現場において、なさねばならない責任や態度表明など、わたしはこのように考え行動するのだという決意を新たにすることが求められているのではないでしょうか。

主イエスの提案する内容は、この「賢い人」の立場と決断をどのようにイメージしていくかだと思われます。と同時に、「愚かな人」として「砂の上に家を建てた」状態に陥っているのではないかを、今一度冷静になって自問することが求められているのではないでしょうか。

 「あなたはイエスの教えを信じているとは言うけれど、それは本心からですか」と問われているかのようです。キリスト者は「賢い人」の選択した「岩の上に自分の家を建てた」ところの「岩」のあり方によって規定されるのだと言いたいのでしょう。「家」に象徴されるのは、広い意味でのわたしたちの生活全般としての今です。その「土台」である「キリスト」以外にありえないことをどのようにイメージできるかが問われているように思えてくるのです。「わたしの今」を支えている、イエス・キリストとはどのような方であるかという問題意識と同時に、です。要するに、山上の説教を生き抜く道にいるのか、それともそれているのかいるのかに対して自問することから、日々の暮らしの実践を「岩の上に自分の家を建てた賢い人」に向かって整えていくように促しているのではないでしょうか。

 確かに、マタイ福音書を、とりわけ「山上の説教」を読み続けていたわたしたちにとって、「山上の説教」を生き抜く道はなかなか困難であると言えます。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」の比較は文字を追って判断すればたやすい作業です。当然、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」を選ぶことこそがキリスト者の歩みなのだと言いさえすればいいからです。しかし、事は単純ではなりません。当時の聴衆も現代のわたしたちも、油断していれば「砂の上に家を建てた愚かな人」と隣り合わせである現実を否定するのが困難だからです。

 「家」に象徴されるのは、広い意味でのわたしたちの生活全般としての今です。その「土台」は「キリスト」以外にありえないことをどのようにイメージを膨らませつつ、実感できるかが問われているように思えてくるのです。わたしの今を支えている、イエス・キリストとはどのような方であるかという問題意識と同時に、です。同じ「キリスト」という言葉を使いながら、どのような姿をイメージするかによって、その基本となる立ち位置が違ってくるからです。

 「山上の説教」の冒頭において主イエスは「幸い」の宣言による説教を語ります。今、様々な苦難や悩みや言いようのない呻きのただ中にある人、日ごとの生活の重圧にあえぐ群衆に対して、一人ひとりのいのちがかけがえのないものであり交換不能である現実をこそ、「幸い」と宣言し、かれらをその祝福からの生き直しをもって送り出したのでした。いのちが傷つけられ削り取られていくような現実の生活の中にあって、今生かされてある現実を輝かせてみようじゃないか、一緒に生きていこうとの暖かな呼びかけなのではないでしょうか。理不尽な権力の横暴に対しても直対応するのではなくユーモアや皮肉を忘れない生き方や、そもそもの時代の要求する型にはめられたものの考え方から自由になることなど、社会の要求する有限や無言の圧力に対して精神の自由において抵抗していくこと、自分が自分らしく生き生きとされていく道。これを十字架への道行きにおいて、それこそいのちをかけて示し教えたことが「山上の説教」に込められた主イエスの思いなのだと思えるのです。

 わたしたちは、たとえば「正義」「協調」「常識」などを他者と共に生きるために大切なことと考えています。しかし、これらが時として暴力になる、ということを忘れるべきではありません。自分が大切、真理だと思っていることを時々に問い返し、それが誰かを否定する根拠になっていないか、主イエス・キリストに照らして点検することを怠らない。ここに、「岩」と「砂」の分かれ目があるのではないでしょうか。今日の「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」のたとえは、安直な生き方に流される「愚かな人」になるのではなくて、常に相対的な視点を持ち、ユーモアを忘れず、心に余裕をもった自由さによってこの世の不正義に抗う元気の素のような「岩の上に自分の家を建てた賢い人」になってみようよ、との呼びかけとして受け止め直されるのではないでしょうか。

 このことをもって、現代を生きる、わたしたちの存在を支えるすべての根拠が、「土台はキリスト」という事実にあることが知らされるのです。しかし、コリントの信徒への手紙一39節以下でパウロが述べるように、この土台としての石、立派で見栄えがよくて、誰からも非難されることのない堅牢さを誇るものではありません。わたしたちの現実の今を支える根拠としての「土台はキリスト」であることの示すところは、主イエスの十字架への道行きであり、磔刑にこそあると信じているからです。単純に言えば、十字架に至る丸ごとの主イエス・キリストの示す道への愚直であったとしても信じて従う生き方のことです。客観的に立場が悪くても、そうせざるをえない生き方に連なることが「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の道を歩むことなのではないでしょうか。

 これが、わたしたちの存在全体にとっての「土台」なのです。この世間からすれば愚かだとされることが、マタイ福音書のいうところの「賢い人」が選び取らざるを得ない生き方そのものなのです。

 今日の聖書にある「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とは、この十字架の主イエスに対して聴き従うことの求めが「山上の説教」という教えのまとめ部分に語られているのです。主イエスに信じ従う人の「土台」は「キリスト」以外にないのだから、ということです。全ての人々を救うためにただ十字架に磔られて殺されること以外を知らず、形容しがたく弱さと愚かさと侮蔑に満ちたキリストにおいてご自身を啓示されている。これがわたしたちの信じる神の現実だからです。これによって信仰的生き方が支えられているのです。

 このような立場表明についてマルチン・ルターを思い起こします。彼は、当時のカトリック教会を激しく批判し破門されました。1521年にヴォルムスの帝国議会に召喚さました。自らの説が過ちであることを認めるように迫られたのです。彼がそこで語った演説は以下のように締めくくられました。「皇帝陛下ならびに諸侯がたは簡潔な答えを要求されます。それでは簡潔に、ありのままをお答えします。聖書の証によってわたしの誤りを証明し、わたしの良心が神の言葉によってとらえられない限り、わたしは何事も取り消すことはできません。なぜなら良心に反して行動するのは、なすべきことではないからです。わたしは断固としてここに立つものです。それ以外のことはできません。神よ、わたしを助けたまえ。アーメン。」 主イエスの語るところの「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」として立ち振る舞った一人の誠実なキリスト者の姿をルターに確認できるのではないでしょうか。

 現代社会にあってキリスト者として召されつつ、わたしたちは歩んでいます。「山上の説教」に生かされることは、その時々の時代状況の中にあって、マルチン・ルターがそうであったように生きかたにおける決断を迫るものです。わたしはどのように生きるのか。わたしはだれとどのように生きるのか。わたしとこの世の関係はどのようになっているのか。これらの問いに対して答えを求め続けていく生き方への招きを「山上の説教」は引き起し、生き方を修正し、導こうとしているのです。わたしたちが主イエスの生き方に倣い、誰と共にどのようにして生きていくのかを絶えず問いつつ歩む、そのあり方をこそが問われているのです。それらの場において「砂の上に家を建てた愚かな人」に陥ってしまう危険を完全に回避することは、弱いわたしたちにはできないのかもしれません。しかし、「土台はキリスト」である事実は確実であり、これによって守られていると信じることはできるのです。権力に批判的でありつつもユーモアを忘れずに、いのちを守っていくこと。わたしでありつつ、同時に誰かと一緒に喜びに向かって生きていくことが大切です。わたしたちの願いに先立つ主イエス・キリストが「土台」として、支えてくださっている事実に感謝しつつ、ご一緒に祈りましょう。

祈り

主なる神! ありがとうございます。

「土台」としての「キリスト」に信じ従う決意を新たにしてください。

赦された罪人として生きることができますように。

「わたしは断固としてここに立つものです。」とルターに倣いつつ歩ませてください。「土台はキリスト」である事実を信じます。

この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。     アーメン。                      

2021年1月17日 (日)

マタイによる福音書 7章21~23節 「キリスト者として歩むために」

 本日は、マタイによる福音書7章21から23節をテキストにして「キリスト者として歩むために」という題で説教します。

 先ほど、わたしたちの聴いた聖書の言葉は非常に厳しく重たいものです。イエス・キリストに向かって「主よ、主よ」と呼びかける人たちとは、すなわちキリスト者です。しかし、この誰もが「天の国」である「神の国」に入るのではないという宣言であるからです。「天の国に入る」とは、単に死後の世界の幸いの約束に留まりません。来るべき日の裁きにおいて、今あなたはどのような立ち位置にあるかを問いかけているのです。「天の国」「神の国」に向かう途上としての今に重点があると理解していいと思います。礼拝に忠実に出席し献金をささげることや教会員としての務めを果たすことがキリスト者であることの条件ではない、ということです。あるいは、教会に集わなくても自らを律し、「キリスト者であること」を真面目に考えており、相応しさを志していることが肝要だというわけでもありません。

 先ほどの聖書で「預言し」「悪霊を追い出し」「奇跡をいろいろ行った」のは、すべて「御名によって」とありますから、イエス・キリストを信じる信仰の業であったことを示しています。これらの業は教会の活動として大切なことです。いわば、教会の基本的なあり方としての伝道一般を指すとも言えそうです。しかし、これらすべてを行ったと言う者たちに、主イエスは「否」を突きつけるのです。それでは不十分だというのではありません。23節で「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」と語られる非常に強い調子から判断できるのは、今の状態がたとえば80パーセント相応しくて、20パーセント足りないから、足りない分の相応しさを獲得すればOKということではないのです。そもそも、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」との言葉から考えられることは、「完全」であれ、ということです。ユダヤ教においては、律法という基準があって、サドカイ派の場合は5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に書かれている律法を墨守すること、ファリサイ派の場合は律法とその解釈を学者先生の系譜にそって生活に適応しながら守り抜くことが「完全」ということでした。しかし、ここで求められている「完全」とは、そのようなことではありません。

 そもそもの発想が違っていたと言えるでしょう。「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と自己規定することが、「不法を働く」ということなのです。律法を「守る」から救われる、祝福されるという、○○すればとか△△すればということを律法を巡って条件づけることにより、結局救いの根拠を人間の側からの努力にすり替えてしまう危険性が非常に強いからです。この点に関しては、プロテスタントも「聖書のみ」「恵みのみ」を語りながらも、約束事や規則など人間の側からの「相応しさ」によって、救いに関する条件化をしがちなので、注意が必要です。

 今日、わたしたちが心に留めるべき第一は、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」との言葉です。「天の父の御心を行う」ことです。たとえば、マタイによる福音書12章50節には「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」とあります。12章46節では「イエスがなお群衆に話しておられるとき」と場面設定がなされています。「わたしの兄弟、姉妹、また母」というつながりが肉親の血筋によるものではなくて、「群衆」という豊かな広がりの中で捉えられていくことを示しています。ただ、マタイの文脈では12章49節で「弟子たちの方を指して言われた」とあるので弟子たちに限定されているという理解も可能ではあります。しかし、たとえば、マタイ21章の「二人の息子の譬え」のまとめの言葉は31節によれば「「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」というものでした。「天の父の御心」とは、より弱く抑圧された側への意思であり選びだと理解できるのではないでしょうか。

 この意志とは、マタイ3章の主イエスの洗礼の記事によれば、天から聞こえた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」としての主イエスの存在それ自身であったはずです。山上の説教の冒頭の5書に戻れば、より明快とされます。

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 この、「幸い」の祝福の言葉の実現である主イエス・キリストのみが、「天の父の御心を行う」のです。ここでの「行い」とは、主イエスの十字架への道行きに示される歩みを総合的に言い表したことに他なりません。この幸いに生きる主イエス・キリストがどのような方であるのかが、11章25節以下に語られています。

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 このように読んでくると「天の父の御心を行う」という言葉が形となってくるのを感じることができます。十字架への道行きにおける「柔和で謙遜」という従順において「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」、この道を歩むことだと知らされるのです。平たく言えば、他者に仕える、共に生きていくということです。生前の主イエスがそうであったように、です。「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」という上から目線ではなく、必要とされているところで、隣る人であれ、ということです。マザー・テレサや中村哲さんのようにはなれなくても、今自分の暮らしている場所で、いのちにおいて分ち合う道はわたしたち一人ひとりに向かって用意されているはずです。ここにおいて誠実であればいいのです。主イエスの後を追い、同時に主イエスと共なる道をキリスト者として歩みつつ、「天の父の御心を行う」ことへの尊い恵みと招きが今日、わたしたちに向けて届けられているのです。

 

祈り

豊かないのちの神!

柔和と謙遜と従順の主イエスによって開かれた「天の父の御心を行う」ことへの尊い恵みと招きを信じます。

その招きによって露わにされる、わたしたちの罪を告白し悔い改めます。

共々主イエスの道を歩ませてください。

この祈りを、わたしたちの主イエス・キリストの御名によってささげます。

                          アーメン。

2021年1月10日 (日)

マタイによる福音書 7章15~20節 「偽預言者を見極める」

 今日の聖書の「偽預言者を警戒しなさい。」を読んで、もしかしたら様々な教会のホームページや看板に書かれている言葉を思い起こした方もあるかもしれません。たとえば、こんな感じです。「当教会は、ものみの塔(エホバの証人)、世界平和統一家庭連合(旧統一協会)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)とは一切関わりありません。」。少し積極的なものだと、「(これらの宗教で)お困りの方はご相談ください」、と書かれています。この三つはキリスト教の主流派の理解するところの、異端で規模も大きく、有名なものです。他にも問題のあるキリスト教を標榜する宗教はありますし、正統と自称する教会においても疑わしいものがあることは否定できません。

 しかし、今日のテーマは、いわゆる正統と異端という問題に閉じられているものではありません。正統とされる教会内部の問題性を捉えているからです。何度かお話してきましたが、マタイ福音書は、教会とは善人と悪人の混合体であるとの理解に立っています。羊と山羊を分けるとか麦と毒麦を収穫まで放っておくように、と指摘しています。これは、やがて来るべき裁きの日に担保することの決意の表れであり、今の教会員を相応しいかどうかを人間が裁くことを断念することであり、最終的な判断は神に委ねるということです。しかし、同時に教会の今において許せない状態もあるのだという歯がゆさもあるのです。その一つが教会の中に偽預言者がいるのだというのです。少なからずの影響や発言力、確からしい言葉をもつカリスマがある人たち教会内にい、教会を思いのままに動かそうという意志があるのだということです。ここに危機感を抱いているマタイの教会が、主イエスに語らせているのかもしれません。

 教会は、新約聖書のギリシャ語ではエクレシアと呼ばれます。人の集まりのことですが、意味するところは、神によって集められた群れのことです。この教会としての一人ひとりのありようが、主イエス・キリストに信じ従う道から外そうとする偽預言によって脅かされているので、「偽預言者を警戒しなさい」と言われているのです。この「偽預言者」と呼ばれる人たちの特徴がどのようなものであったかについては特定できませんでしたが、教会の歩みについて大きな影響力をもっていた人たちであるでしょう。つまり、教会が主イエス・キリストの具体的な身体として、どのようにしてあり、どのようにして働くかの決定づける方向性を指導する立場にあったと言えます。

 教会は、その時々の歴史にあって具体的に存在します。心の中や頭の中に存在するものではないからです。主イエスをキリストと告白することは、一つの政治的決断でもあるからです。

 そこで教会の信仰のありようについて偽物ではなく、本物を志した宣言を紹介します。何度も扱っているのですが、今日の聖書との関わりからすれば重要だと思われます。それは、いわゆる『バルメン宣言』です。これは1934年5月29-30日、バルメン告白会議において決議されました。正式名は「ドイツ福音主義教会の現状に関する神学的宣言」です。

『第1テーゼ』

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14・6)

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10・7、9)

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 ここで特に注目したいのは「教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」という箇書です。教会が依って立つのは「唯一の御言葉」のみであるという決意表明です。したがって、ここから「それと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならない」とあるように、承認すべき事柄はイエス・キリスト以外からやってくることはあり得ないということです。おそらく、「偽預言」とは、人々が簡単に同意し納得し、なびいていく仕方で魅力的な存在であったのでしょう。多少理性的であった人たちでさえ、つい魅かれてしまう力です。『バルメン宣言』が語るところは、当時のドイツ社会にあって多くの教会がナチスに賛同し、ヒトラーを指導者として認めていくことと信仰のあり方をつなげていくことの問題性をも指摘しているのです。この『バルメン宣言』に立つ牧師や教会は抵抗運動を起こします。この運動は「ドイツ教会闘争」と呼ばれます。しかし、残念なことにやがて敗北していきます。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」、これは現代の教会も無視してはならない点です。

 偽預言者は、教会の歴史の中で、巧みに騙そうとし、自分たちの主張こそが正しいと言い募るのです。この点について詳細は述べませんが、日本基督教団は、その成立からして天皇制に敗北したところから始まったことを心に刻んでおく必要があります。これに反して、国家に従順した態度は、教会を守るためであったという美談が語られることがありますが、そもそも十戒の第一戒違反であったことは指摘できます。出エジプト記202節と3節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」。そうです。わたしたちは、イエス・キリストの神以外を神として認めないのです。この点をあやふやにするための誘惑を語る者を「偽預言者」と呼ぶことができるのです。

 イソップ物語には次のようなものがあります。狼が羊を狙っていました。どうしても獲物を獲ることができないでいたのです。それは羊飼いがしっかりしていたからです。ところがある夜のことです。狼は羊の皮が置き去りにされて忘れられているのを見つけたのです。そこで、次の日、狼はその羊の皮を被って、羊のいる牧場に出かけました。チャンスをものにした狼は羊の群れといっしょに囲いの中に紛れ込むことに成功します。ところがその夜は、羊飼いが夕食に羊のスープを食べたいと思い、ナイフを持って囲いの中に入りました。そして、羊飼いが殺したのは、羊の皮を被った狼でした。簡単に言うと、こんな話です。悪意による行いは、自らを死に至らせるほどなのだというのです。このようにして、羊の皮で偽装しても化けの皮がはがれてしまうものだというのです。おそらく、イソップが作った話か分からないかもしれませんが、「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」から発想したのでしょう。

 このイソップ物語を踏まえて聖書に帰っていくと、「偽善者」は恐れる必要がないという結論を導き出せるでしょう。16節から20節で説明されているとおりに、です。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」「偽善者」の悪意は、今明らかにされていなくても、いずれ裸にされるようにすべてが明らかにされる、そのような「実」によって知らされるのは確実である、ということです。

 マタイ福音書は教会の内側に問題意識を感じていたのでしょうが、もっと広い射程距離をもって解釈することもできると思います。現代社会、わたしたちの暮らす社会にも、やはり悪意をもって善意を偽装する羊の皮を被った狼に喩えられる人たちや勢力は教会の内外を問わず存在します。しかし、見極める心と知恵が備えられていることに信頼していればいいのです。バルメン宣言によれば、「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」という点です。マタイ福音書の理解からすれば、教えとして主イエス・キリストがいつも共にいてくださる現実とでもいうのではないでしょうか。ここに立ち続ける限り、主イエス・キリストに信じ従う道は、わたしたちに向かって開かれているのです。それが、「狭い門」「狭い道」であったとしても、です。聖書の言葉を信頼し、「偽預言者」にしっかり警戒していれば惑わされることはない、ということです。だからこそ、わたしたちは安心して今日からの信仰に道を前進できる幸いに与ることができるのです。

 

祈り

主なる神!

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ、と祈りつつ歩ませてください。

「偽預言者」を見極める知恵と心を与えてください。

それにもまして、主イエスの道を信じ従わせてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                       アーメン。

2021年1月 3日 (日)

ヨハネによる福音書 14章6節 「道・真理・命のあるところ」 横田幸子

1)「わたしは道である」について  画家・東山魁夷の代表作「道」という絵は、簡単な構図なのに、惹きつけられる。元となった何枚かのスケッチには、道をとりまく風景が描かれていて、視る者の眼・心が開かれる。戦争で召された家族全員のことも一言、語られている。これら作品の背後にあるものが「道」の絵に深みを与えているのだろう。魁夷は戦時、熊本城から見た阿蘇の自然に衝撃を受け、名声を望んでカンバスに向かう姿勢は間違いであったと気付かされた。絵を描く時には、その背後にある自然や事柄への心があってこそ、自然そのものの美しさ・深さの前に立たされるということであった。

 イエスが「わたしは道である」と言われた言葉には同様に、背後にイエスの人生そのもの・多くの人たちとの関わりがある。イエスが様々な障がいや困難のあった人たちを癒すことが「奇跡物語」として聖書には記述されているが、実は「奇跡」とは、イエスに出会った一人ひとりに生きることへの方向転換が起こされたということなのではないだろうか。今まで社会的な価値観によって自己規定していたことを知らされる。自分を呪縛していたものからの解放である。

2)「わたしは真理である」について  ヨーロッパ型の大学や世界的に著名な研究機関の多くが、聖書の言葉「 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)を建物に刻んでいるとのこと。そこには、学問研究や芸術研鑽など真理の探究こそが人間を人間たらしめ、自由を手にすることができるという共通理解がある。

 しかしイエスの語る「真理」は、全てのものを相対化する目をもつことのようだ。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:4344)「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ172021)などが示すように。さらにイエスは言う。神の国はすでに始まっている、宗教作法を守れず「罪人」呼ばわりされている人や異国人と共なる食卓が開かれているではないか、と。イエスの言う「真理」は、人が他者と出会ってお互いの違いを知り、認め、「神の食卓」に招かれている喜びをもてることに他ならない。

3)「わたしは命である」について  1)と2)で言われていることの総まとめとして「神に愛されている、わたしとあなた」という命の「根源」を自覚して、それぞれに備えられた道を歩むことに他ならない。

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