マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門から入るということ」
「狭い門」と「道」は、キリスト者の歩む方向性を示すものですから、キチンと整理しておきたいものです。しかし、生活スタイルや価値観が多様になってしまった現代社会の中では正直なところ「これが正解」とは明確に言えないとも考えます。少し古い時代で、新しい生き方としてのキリスト者のあり方は倫理的に分かりやすかったのかもしれません。禁酒禁煙で清貧など、いわゆる「キリスト教倫理」を思い起こすようにです。
「狭い門」と「道」とは、どのように方向付けられるものなのでしょうか。少なくとも、わたしには「らしさ」を「ねばならない」によって強いていく方向は「広い門」「広い道」に思えてきます。「狭い門」と「道」について今一度、キリストが誰であったかから読み返していくべ きではないでしょうか。
「狭い門」と「道」は、「双方(※対立する2つの民族)を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」(エフェソ2:14-22参照)というあり方に示された主イエスご自身による招きとして受け止め直すことができるのではないでしょうか。「二つのものを一つにし」という言葉を現代に読み込むならば、「人種」や民族、セクシュアリティ、あるいは病気や格差など、わたしたちを分断する偏見や社会状況が無化されるということです。
「狭い門」と「道」を今一度捉えかえしていくならば、キリスト者とは、あれこれと条件を厳しく強いて、それが守れるなら一人前だと認めようということではなく、無資格者を無条件に受け止め、認めていくことだと考えられます。それは、今のあるがままの自分を肯定し、ありのままの他者を認めることです。イエスは、当時の時代の中で世間から除け者にされていた、徴税人や娼婦、罪人たちなどの友となり仲間となり、同じ地平を生き抜かれました。時代の要求する「期待される人間像」から排除され、取りこぼされ、価値なしと判断された人をこそ招くあり方を「狭い門」と「道」と呼ぶのではないでしょうか。何故なら、無資格者を無条件に受け止め、認めていくことは、理念としては受け止めても実際に生き方として選択するのは非常に難しいことだからです。
天国である神の国があるのだとすれば、このように祝福された豊かな方向性を歩む中で示されるのです。わたしたち自身の力や能力、努力によっては不可能です。ただ主イエス・キリストの「狭い門から入りなさい」呼びかけによってのみ開かれていく世界観なのです。人に頼らず、神に委ねていくことの徹底した生き方です。今のわたしたちのこれからの生き方の方向付けが整えられて、この一年間の歩みを思い起こし、来るべき新しい年への希望に生かされていくことができるに違いありません。
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