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2020年12月 6日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「お言葉どおり」

 今日の聖書は、天使からのお告げに対して開かれていくマリアの受け身の姿勢、受動性を表わしています。それは38節の「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とあるとおりです。その「お言葉」とは、良き知らせである「福音」を指し、その内容は人に仕える道を歩みつつ十字架から復活へと至る主イエスのいのちそのものです。そのいのちを孕むことをもって「この身に成りますように。」と受け止めているのです。

 この神に対して受け身である、受動的なマリアは、同時に世に対して行動的、能動的に立ち上がるのです。146節から55節の歌です。この箇書では、この世において弱りを強いられている人々の自由に向かう解放が高らかに歌われています。特に51節から53節では明確です。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」

 このマリアの物語は、神が歴史に介入し、その業がわが身に起こる時に受動から能動へと転じていく信仰のあり方が明確な形になっているのです。すなわち、神に対して自らの存在を受動的に受け止めることは、同時にこの世に対する能動的な正義を求める道へと展開するのだという筋道があることを示しているのです。このマリアの受動から能動への態度決定は、主イエスのあり方の先取りとして受け止めることができます。主イエスの支配とは、人を、そのあるがままで祝福されたいのちを回復していくこです。

 ルカによる福音書では「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(62021)とあるように、主イエスの活動は能動的な部分ばかりが目立つように思われるかもしれません。しかし、その前提としてゲッセマネの祈り「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」があり、それは先ほどのマリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉によって先取りされているのです。祈りとは神からの呼びかけに対する応答として受動的な信仰的な態度なのです。主イエスの公の活動は「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」の道なのです。もちろん、自らの考えや判断に基づく主体的な行動を続けて来られたことに間違いはありませんが、根っこのところで支えているのは神に対しする受動であったことを忘れてはなりません。

 この、受動から能動への道筋を教会はクリスマスの備えとしてのアドベントにおいて共々確認しておきたいのです。マリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」との祈りの言葉の共鳴に生きることが、主イエスの道に連なるからです。あるがままにと受け身であること、受動的であることは消極的な生き方ではありません。積極的な能動的な生き方を開いていく神の支えなのです。

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