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2020年12月

2020年12月27日 (日)

マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門から入るということ」

 「狭い門」と「道」は、キリスト者の歩む方向性を示すものですから、キチンと整理しておきたいものです。しかし、生活スタイルや価値観が多様になってしまった現代社会の中では正直なところ「これが正解」とは明確に言えないとも考えます。少し古い時代で、新しい生き方としてのキリスト者のあり方は倫理的に分かりやすかったのかもしれません。禁酒禁煙で清貧など、いわゆる「キリスト教倫理」を思い起こすようにです。

 「狭い門」と「道」とは、どのように方向付けられるものなのでしょうか。少なくとも、わたしには「らしさ」を「ねばならない」によって強いていく方向は「広い門」「広い道」に思えてきます。「狭い門」と「道」について今一度、キリストが誰であったかから読み返していくべ きではないでしょうか。

 「狭い門」と「道」は、「双方(※対立する2つの民族)を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」(エフェソ2:14-22参照)というあり方に示された主イエスご自身による招きとして受け止め直すことができるのではないでしょうか。「二つのものを一つにし」という言葉を現代に読み込むならば、「人種」や民族、セクシュアリティ、あるいは病気や格差など、わたしたちを分断する偏見や社会状況が無化されるということです。 

 「狭い門」と「道」を今一度捉えかえしていくならば、キリスト者とは、あれこれと条件を厳しく強いて、それが守れるなら一人前だと認めようということではなく、無資格者を無条件に受け止め、認めていくことだと考えられます。それは、今のあるがままの自分を肯定し、ありのままの他者を認めることです。イエスは、当時の時代の中で世間から除け者にされていた、徴税人や娼婦、罪人たちなどの友となり仲間となり、同じ地平を生き抜かれました。時代の要求する「期待される人間像」から排除され、取りこぼされ、価値なしと判断された人をこそ招くあり方を「狭い門」と「道」と呼ぶのではないでしょうか。何故なら、無資格者を無条件に受け止め、認めていくことは、理念としては受け止めても実際に生き方として選択するのは非常に難しいことだからです。

 天国である神の国があるのだとすれば、このように祝福された豊かな方向性を歩む中で示されるのです。わたしたち自身の力や能力、努力によっては不可能です。ただ主イエス・キリストの「狭い門から入りなさい」呼びかけによってのみ開かれていく世界観なのです。人に頼らず、神に委ねていくことの徹底した生き方です。今のわたしたちのこれからの生き方の方向付けが整えられて、この一年間の歩みを思い起こし、来るべき新しい年への希望に生かされていくことができるに違いありません。

2020年12月20日 (日)

ルカによる福音書 2章1~7節 「飼い葉桶の情景」 

 幼な子の主イエスの生まれてきた姿を思うと、何だか悲しくて寂しくて惨めな感じがします。王などの偉い人の幼な子と全然違います。でも、この姿こそが、神が本当の人間として生まれた姿なのだと忘れないようにと聖書は教えてくれているのです。

 幼な子の主イエスはマリアとヨセフが宿もなく助けもなく、困り果てているところに生まれてきました。清潔とは言い難い動物の餌箱に寝かされて。このことは、これから育っていく主イエスが、どのような方なのかを暗示しています。

主イエスは、わたしたちが知っているようにやがておとなになり、悲しくて寂しくて惨めな思いをし、いじめられている人や差別され、弱くされている人たちと心の通じ合う友だちになっていくのです。つらい思いをしてきた人は、同じような人たちと、体の真ん中から分かり合いたいという心が与えられます。主イエスは、寂しくて悲しくて惨めなところに生まれてきたからこそ、ひとりぼっちの人が一人でもいてはいけないことを知っていたのです。今生きていることを誰かと一緒に喜び合うことが何よりも大切なのだということです。人が生きるためには、誰かと喜びによってつながっているという実感が大切です。誰かに見守られている感覚でもあります。

 この、主イエスの姿から、誰かに心を寄せていくことを忘れてはいけないことがクリスマスの意味だと教えられてくるのです。クリスマスは、餌箱に寝かされている主イエスの姿を思うことで、やがておとなになった主イエスが寄り添う人になったこと、元気づける人になったこと、いのちを大切にする人になったこと、人と人とはお互いのいのちを喜び合ってこそ生きるものだと指し示す物語です。そのことを忘れないよう、わたしたちはクリスマスを祝うのです。

 クリスマスを短い言葉で言うと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ316)ということです。

 主イエスが生まれるずっと前に書かれた「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)の言葉にある「男の子」が主イエスのことだと教会は信じています。「インマヌエル」という言葉は、「神は我々と共におられる」ということです。

 主イエスとしてがわたしたちと一緒にいてくださることを心に刻むこと、それがクリスマスです。とりわけ寂しい思いをしている人のところに、あなたと一緒にいるのだと生まれてくださいます。その人の生きている場所に来てくださるのです。そのことを決して忘れてはならない、嬉しいことなのだよと心に刻むことなのです。主イエスが、いつだってわたしたちと一緒にいてくださって助けてくださり祝福してくださる。このことから力をいただいて、わたしたち一人ひとりも誰かの友だちになっていくように、お互いを喜び合っていくようにと教えているのです。

2020年12月 6日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「お言葉どおり」

 今日の聖書は、天使からのお告げに対して開かれていくマリアの受け身の姿勢、受動性を表わしています。それは38節の「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とあるとおりです。その「お言葉」とは、良き知らせである「福音」を指し、その内容は人に仕える道を歩みつつ十字架から復活へと至る主イエスのいのちそのものです。そのいのちを孕むことをもって「この身に成りますように。」と受け止めているのです。

 この神に対して受け身である、受動的なマリアは、同時に世に対して行動的、能動的に立ち上がるのです。146節から55節の歌です。この箇書では、この世において弱りを強いられている人々の自由に向かう解放が高らかに歌われています。特に51節から53節では明確です。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」

 このマリアの物語は、神が歴史に介入し、その業がわが身に起こる時に受動から能動へと転じていく信仰のあり方が明確な形になっているのです。すなわち、神に対して自らの存在を受動的に受け止めることは、同時にこの世に対する能動的な正義を求める道へと展開するのだという筋道があることを示しているのです。このマリアの受動から能動への態度決定は、主イエスのあり方の先取りとして受け止めることができます。主イエスの支配とは、人を、そのあるがままで祝福されたいのちを回復していくこです。

 ルカによる福音書では「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(62021)とあるように、主イエスの活動は能動的な部分ばかりが目立つように思われるかもしれません。しかし、その前提としてゲッセマネの祈り「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」があり、それは先ほどのマリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉によって先取りされているのです。祈りとは神からの呼びかけに対する応答として受動的な信仰的な態度なのです。主イエスの公の活動は「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」の道なのです。もちろん、自らの考えや判断に基づく主体的な行動を続けて来られたことに間違いはありませんが、根っこのところで支えているのは神に対しする受動であったことを忘れてはなりません。

 この、受動から能動への道筋を教会はクリスマスの備えとしてのアドベントにおいて共々確認しておきたいのです。マリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」との祈りの言葉の共鳴に生きることが、主イエスの道に連なるからです。あるがままにと受け身であること、受動的であることは消極的な生き方ではありません。積極的な能動的な生き方を開いていく神の支えなのです。

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