« 2020年10月 | トップページ | 2020年12月 »

2020年11月

2020年11月29日 (日)

ルカによる福音書 1章5~25節 「待つ事の意味」  井谷 淳 

 私達の目の前にもたらされる[朗報]とは時として「両義的なもの」であります。イエスの生誕日であるクリスマスは私達にとっては「喜ばしい福音の日」ですが、他宗教を信ずる「隣人」にとっては「喜べない日」なのかもしれません。このように[知らせ]を受け取る人が「直面している現実」の[在り方]によってその[知らせ]の「価値」も様々に変わってしまうのです。

 祭司ザカリアが天使ガブリエルによってヨハネ生誕の「知らせ」を受けた時の心情は複雑なものでありました。待望の子どもを授かったと素直に喜べない気持ちの背後には、ザカリアとエリザベトの直面している[二人とも既に年をとっていた](7節)という現実があります。生まれてくる子どもに対して果たして充分に「扶養者としての役目」を果たせるだろうかという思い、子が一人前になるまで寄り添ってゆけるだろうかという「現実的な不安」が頭をよぎった事でしょう。また「何故今になって」「何故一番望んでいた時期に子を授けてくれなかったのだ?」と神を疑い、恨む思いも気持ちに含まれていたのかも知れません。神はこのようなザカリアの複雑な心情を見抜いたように、彼に[沈黙]を余儀なくさせます。目前に在る「現世的な事情」から離れ[沈黙]の中での[祈り]の中で神が「本当に求めているもの」を見極める時間をザカリアに与えたのです。その意において「待つ」という事は時として「沈黙」と同義であると感じます。生まれてくる子どもを育ててゆく事は神から与えられた「喜び」であり、同時に神から与えられた「試練」でもあります。冒頭にお伝えした「朗報に纏わる両義性」をどのように乗り越えてゆくかが、この二人が神から与えられた新しい「課題」でありました。

 生まれてきた洗礼者ヨハネは後にヘロデ王によって殺害されてしまいます。そして「待望のメシア」イエスも十字架の上で非業の死を遂げます。現世的な感覚においてはヨハネとイエスの死は決して「喜ばしいもの」ではないのかも知れません。しかし後に「試練を背負わされる運命」にあるヨハネとイエスという二人の人物の関係をも考えながら「生誕の意味」が何故に喜ばしいものであるのか「待ちながら」「祈りの中で考えてゆく」そのような時間をこの「待降節」の期間に私達は神から与えられていると切に感じるのです。

2020年11月22日 (日)

詩編 65:10~14 「収穫の風景に思いを寄せながら」

 収穫をささげる態度は、神との関係によって整えられるものです。人間の背きにも関わらず、贖いによる赦しによって導かれていく「わたしたちへのふさわしい答え」としての方向性があるのです。神から「よし」とされるところの人間同士の関係性と言えるかもしれません。権力や支配によって規定される、人間同士の上下や優劣を、収穫から得られる食物の問題として捉え返してみましょう。「わたしたち」の「たち」のありようが問題化し、顕在化される、その場こそが問われているからです。そこから、わたしたちに求められている方向が示されるのではないでしょうか。

 収穫感謝でよく読まれる箇所に申命記26章があります。最も古い信仰告白の一つとされています。実りを携え感謝をしているのですが、そこでは出エジプトの出来事を思い起こしながら、より広い「わたしたち」の「たち」への展開を読むことができます。申命記2610 から11節では「『わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。』あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。」とあり、それが13節では「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」へと広がっていくのです。一方、現代の日本社会ではどうでしょうか。本来、国や各自治体が熱心に取り組まなければならない課題であるはずです。しかし、対象が広がっていく申命記とは反対に、日本の現実は逆の方向を向いているように思われます。生活保護費は削られ続けていますし、難民認定率は国際的に最低レベル、弱い立場に置かれた人たちに対して冷たく、生きることをより困難な方向へと強いているとしか思えません。

 収穫感謝の心とは、広い意味での福祉と呼ばれる分野の活動のあり方をその時々に状況の中で捉えなおしていくことと別の事ではありません。人間は生きるために食べ、食べるために生きるという営みの中で、食を支える収穫について考えを整えつつ歩むことが求められているからです。

 今日のテキストの収穫を思わせる風景を、ただ単にロマンティックで理想的なものとして受け止めるのではなく、今の現実の中で少しでも本当だと言えるような世界を求めていく心や気持ちを忘れてはならないと思います。人間の力や能力や努力も必要なのかもしれません。しかし、根本のところでは人間には作り出すことの出来ない世界観です。歴史を顧みれば、人間は何度もバベルの塔を建てようとしてきました。今もその過程にあります。最も大きくて分かりやすいのは原子爆弾でしょう。バベルの塔を作り上げてしまう心根によって、つまり、神に成りたいという欲望によって、大地に対する破壊的な行為を繰り返し、神に背いてきたことは否定できないのです(讃美歌21424参照)。

 収穫感謝を祝うことによって今ある生き方を修正し、神に向かいつつ歩みたいとの決意を新たにしたいと願います。

2020年11月15日 (日)

ルカによる福音書 2章52節 「神と人とに愛されて」 -子ども祝福合同礼拝―

 アニメの「それ行け!アンパンマン」には、「バイキンマン」(正しくは「ばいきんまん」)という悪役が登場しますが、小さな子どもに人気のあるキャラクターのようです。バイキンマンのする「悪さ」に共鳴するからかもしれません。バイキンマンの心は、多かれ少なかれ誰もがもっているものです。アンパンマンも、悪戯や意地悪をするバイキンマンを諫めはするものの、排除しようとはしません。バイキンマンの存在をそのまま受け止めているようです。バイキンマンの心が押さえつけられたり、切り捨てたりせずにしっかり受け止められてこそ、子どもたちは安心して育ち、バイキンマンの心をコントロールする技を身につけていけるのでしょう。子どもたちのもつバイキンマンの心を、まるごとに受けとめるのがおとなの役目です。おとなにとって大切なのは、子どもを教え導くことよりも、寄り添い見守ることだと思います。

 子どもたちは、バイキンマンの心がムクムク出てきてしまっても大丈夫。その心も一緒に神様は受け止めてくださいます。お家の人や先生たちは、悪いことをしたときには叱るでしょう。それがおとなの役割だからです。アンパンマンがバイキンマンと闘うように。でも、神様はそっと見守っていてくださる、そのことをどうぞ忘れないでください。勉強ができたら、お手伝いをしたら、○○ができたら‥‥という条件は、神様には全くないのです。

 子どもたちがバイキンマンに心惹かれてしまう現実をこそ今、子どももおとなも一緒に受け止めていくことが必要です。「○○すれば」とか、「××になれば」ということなしに、「あるがままのあなたが全部OKだよ」と受け止められている安心感をもつこと、寄り添ってくれるおとながいると心から感じられること、それがまず何よりも大切です。バイキンマンを受け入れているアンパンマンのように、子どもの自分勝手を受け止めることができるおとなでありたい、と願います。

 このあり方をイエス様は子どもたちを祝福することで教えてくれています。イエス様のところに子どもたちが連れて来られた時に弟子たちが叱りますが、泣いたり走ったりうるさくて「良い子」ではなかったからかもしれません。しかしイエスは、弟子たちを怒りました。子どもたちをあるがままで受け入れたのです。抱き上げ、手を置いて祝福されたとは、そういうことです。

 「神と人とに愛された」状態とは、イエスがこのようにあるがままの子どもたちの姿を「大丈夫」「OK」と言っていることに、おとなたちも賛成していくことです。子どもたちを見守るおとなたち、おとなたちを導く子どもたち。この関係をイエスが作り出していくださっていることを覚える日にしましょう。きっと心が暖かくなっていくはずです。

2020年11月 1日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章19~20節 「<喪>を支えるために」

~永眠者記念~

 <喪>とは、愛する人を喪った「死別」の嘆き悲しみを正直さの中で体験し、心の一番良い場所に至るまで整えていく一連の作業を指します。身を引き裂かれるような痛みが伴われることも当然あります。

 この<喪>の作業において、遺族は心底嘆き悲しむことが保証されなければならないことを何度もお話してきました。ここで嘆き悲しみに不自然な仕方で蓋をしてしまうと心の底にタールのようなものがこびりついてしまうようです。人の死、とりわけ愛する者の死は、この<喪>の作業を続ける正直さの中で受け止めていくしかないことなのです。

 わたしたちの通常の人生の時間の流れの理解からすれば、生まれて育ち、やがて死を迎えるということになります。この世の死をもっていのちが終わるというのです。しかし、キリスト教の教会はそのようには信じていません。確かに人間の力では、いのちを作り出すことも操作することも許されてはいないからです。死に対してもそうです。いのちも死も人間のものではありませんし、自由気ままに扱うことが許されていない厳粛なことだからです。わたしたちの考えの及ばないところに死はあるのです。

 今日の聖書の続く箇所には次のようにあります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(1521-22)」と。キリスト教会にとって、決して手放してはいけない中心の中心はイエス・キリストの復活にあるというのです。

 主イエス・キリストはこの世において公の活動をしました。貧しさや病、社会の不条理などの諸々の悪と対峙し、人間の尊厳を取り戻すために権力との闘いの道を歩まれました。しかし、当時のローマやユダヤの権力は、死をもって、しかも当時もっとも愚かであり軽蔑され卑しいとされた十字架によって処刑にしたのです。しかし、その主イエス・キリストのいのちは、そこで終わりとはなりませんでした。復活されたのです。これは、この世における死に対する勝利であったのです。いのちから死へという方向から、死からいのちへの方向への転換点です。主イエスこそが、その初穂として実現してくださったのです。この主イエスという初穂、続いて実る穂を希望において約束するという宣言をパウロは信じたのです。主イエス・キリストにおいてのみ、わたしたちはこの世の死からいのちへと至る道を希望することができるようにされたのです。この希望の約束において、死からいのちへの道が整えられたのです。

 わたしたちはこの世の死をもって終わりだと信じないのです。初穂である主イエス・キリストにあって死なないものへと転じていくことへの招きに与っているのです。このようにして<喪>は支えられているのです。

 

« 2020年10月 | トップページ | 2020年12月 »

無料ブログはココログ