ルカによる福音書 1章5~25節 「待つ事の意味」 井谷 淳
私達の目の前にもたらされる[朗報]とは時として「両義的なもの」であります。イエスの生誕日であるクリスマスは私達にとっては「喜ばしい福音の日」ですが、他宗教を信ずる「隣人」にとっては「喜べない日」なのかもしれません。このように[知らせ]を受け取る人が「直面している現実」の[在り方]によってその[知らせ]の「価値」も様々に変わってしまうのです。
祭司ザカリアが天使ガブリエルによってヨハネ生誕の「知らせ」を受けた時の心情は複雑なものでありました。待望の子どもを授かったと素直に喜べない気持ちの背後には、ザカリアとエリザベトの直面している[二人とも既に年をとっていた](7節)という現実があります。生まれてくる子どもに対して果たして充分に「扶養者としての役目」を果たせるだろうかという思い、子が一人前になるまで寄り添ってゆけるだろうかという「現実的な不安」が頭をよぎった事でしょう。また「何故今になって」「何故一番望んでいた時期に子を授けてくれなかったのだ?」と神を疑い、恨む思いも気持ちに含まれていたのかも知れません。神はこのようなザカリアの複雑な心情を見抜いたように、彼に[沈黙]を余儀なくさせます。目前に在る「現世的な事情」から離れ[沈黙]の中での[祈り]の中で神が「本当に求めているもの」を見極める時間をザカリアに与えたのです。その意において「待つ」という事は時として「沈黙」と同義であると感じます。生まれてくる子どもを育ててゆく事は神から与えられた「喜び」であり、同時に神から与えられた「試練」でもあります。冒頭にお伝えした「朗報に纏わる両義性」をどのように乗り越えてゆくかが、この二人が神から与えられた新しい「課題」でありました。
生まれてきた洗礼者ヨハネは後にヘロデ王によって殺害されてしまいます。そして「待望のメシア」イエスも十字架の上で非業の死を遂げます。現世的な感覚においてはヨハネとイエスの死は決して「喜ばしいもの」ではないのかも知れません。しかし後に「試練を背負わされる運命」にあるヨハネとイエスという二人の人物の関係をも考えながら「生誕の意味」が何故に喜ばしいものであるのか「待ちながら」「祈りの中で考えてゆく」そのような時間をこの「待降節」の期間に私達は神から与えられていると切に感じるのです。
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