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2020年10月 4日 (日)

マルコによる福音書 14章22~25節 「イエスの食卓の広がりとして」(世界聖餐日)

 食卓をめぐる物語はマルコ福音書を読み進めていく中で、意味が濃縮していきます。その結論的部分として今日の聖書を読み返すことで世界聖餐日の意味を捉えなおすことができるのです。

 今日の箇書で描かれている食事は、共観福音書では「過ぎ越し」の食事であったとされます。奴隷の民からの解放であるエジプトからの脱出の時の記念としてユダヤ人の間で祝われていたものです。その解放者が主イエスに他ならないのだと教会は再解釈したのです。一つのパンとブドウ酒の入った一つの杯なのです。裂かれたパンを食し、杯を回し飲みしたのでしょう。出エジプトの記念の食卓につながる「奴隷」からの解放が「罪人」という理解を無化する運動に深められたのです。これまで闘われてきた主イエスの食卓を記念し、主イエスの幸いに満ちた闘いへの招きがここにあるのです。

 いつの日にかこの世は終わるでしょう。その日が来るまでは教会は主イエスの闘いとしての食卓である聖餐を祝うことによって、歩むべき方向性を修正しつつ整えていくのです。来るべきメシアの前での宴会を先取りして祝うのです。25節では「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と語ります。つまり、くだけて言えば、神の支配の行き渡る神の国、来るべき日に再会した時には、ブドウ酒をたらふく飲んで宴会しよう、ということです。聖餐は、かつて主イエスがなさったところの食卓の業と、やがて来るべき日に至るキリストとの宴会の間にあって、キリストに従うものへと招かれていることを確認するという、そういう儀式でもあります。最後の晩餐として有名なこの場面は、ここに至るまでの主の食卓の総決算として読まれるべきです。

 聖餐は、このような主イエスの生き方を受け入れるのかどうか、ということです。主イエス・キリストの道、それが一つのパンであり、杯です。主イエス・キリストの杯に与るということは、その苦しみに与ると同時に、その恵みとしての命にも与るということです。食卓は閉ざされた人たちによってなされるものではなく、誰もが、とりわけ、貧しいもの、飢えているもの、泣いているものに向かって差し出されている。主の晩餐とは、主イエス・キリストがここに臨んでおられるのだとの招きなのです。世界聖餐日は第二次世界大戦の頃、世界の平和を願って始められたといいます。聖餐に与ることは、ただ個人的な内面や精神性に閉じられるものではありません。主イエスの目指した、格差のない社会、誰一人「罪人」として排除されることない世界、平和の構築を引き受けていく、という態度表明に他なりません。だからこそ、世界中で同時に祝い確認し合うことで、その思いを強くしようと、世界聖餐日は制定されたのでしょう。

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