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2020年11月 1日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章19~20節 「<喪>を支えるために」

~永眠者記念~

 <喪>とは、愛する人を喪った「死別」の嘆き悲しみを正直さの中で体験し、心の一番良い場所に至るまで整えていく一連の作業を指します。身を引き裂かれるような痛みが伴われることも当然あります。

 この<喪>の作業において、遺族は心底嘆き悲しむことが保証されなければならないことを何度もお話してきました。ここで嘆き悲しみに不自然な仕方で蓋をしてしまうと心の底にタールのようなものがこびりついてしまうようです。人の死、とりわけ愛する者の死は、この<喪>の作業を続ける正直さの中で受け止めていくしかないことなのです。

 わたしたちの通常の人生の時間の流れの理解からすれば、生まれて育ち、やがて死を迎えるということになります。この世の死をもっていのちが終わるというのです。しかし、キリスト教の教会はそのようには信じていません。確かに人間の力では、いのちを作り出すことも操作することも許されてはいないからです。死に対してもそうです。いのちも死も人間のものではありませんし、自由気ままに扱うことが許されていない厳粛なことだからです。わたしたちの考えの及ばないところに死はあるのです。

 今日の聖書の続く箇所には次のようにあります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(1521-22)」と。キリスト教会にとって、決して手放してはいけない中心の中心はイエス・キリストの復活にあるというのです。

 主イエス・キリストはこの世において公の活動をしました。貧しさや病、社会の不条理などの諸々の悪と対峙し、人間の尊厳を取り戻すために権力との闘いの道を歩まれました。しかし、当時のローマやユダヤの権力は、死をもって、しかも当時もっとも愚かであり軽蔑され卑しいとされた十字架によって処刑にしたのです。しかし、その主イエス・キリストのいのちは、そこで終わりとはなりませんでした。復活されたのです。これは、この世における死に対する勝利であったのです。いのちから死へという方向から、死からいのちへの方向への転換点です。主イエスこそが、その初穂として実現してくださったのです。この主イエスという初穂、続いて実る穂を希望において約束するという宣言をパウロは信じたのです。主イエス・キリストにおいてのみ、わたしたちはこの世の死からいのちへと至る道を希望することができるようにされたのです。この希望の約束において、死からいのちへの道が整えられたのです。

 わたしたちはこの世の死をもって終わりだと信じないのです。初穂である主イエス・キリストにあって死なないものへと転じていくことへの招きに与っているのです。このようにして<喪>は支えられているのです。

 

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