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2020年10月

2020年10月25日 (日)

エフェソの信徒への手紙 4章3節 「遠く離れていても…」

 キリスト教教育週間 

~子どもとおとなの合同礼拝~

 パレスチナのガザにあるアハリー・アラブ病院を覚えて今日は礼拝しています。この病院は、紙芝居で見たように、イスラエルからの攻撃で傷ついた人々でいっぱいです。パレスチナの領土をイスラエルが軍隊の力で奪い続け、パレスチナ人の生きていくための自由を失くし続けているのです。高さ8mの壁や検問所で移動の自由を奪い、他にも沢山の意地悪をイスラエルはパレスチナに行っています。世界中の心ある人たちが抗議していますが、イスラエルは聞こうとしません。「国際連合」が「やめなさい」と言っても、大国アメリカがイスラエルの味方し、イスラエルは、エジプト、ヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーンとも仲良くしています。これは、世界がパレスチナを仲間はずれにしていく方向だと思います。わたしたちが友だちを大切にしたり、増やしたりすることは素敵なことです。でも、その時に誰かを仲間はずれにしてしまうのだとしたら、「よいこと」とは言えません。国の場合も同じです。パレスチナをひとりぼっちにしてしまうことは間違っているのです。

 パレスチナの自由を求めて祈っていきましょう。これは無理なことではありません。実は、1948年にイスラエルという国ができる前には、ここではユダヤ教やイスラム教やキリスト教など宗教が違っていても、文化や習慣や生活のスタイルが違っていても、皆が一緒に生きていたのです。もう一度そのような暮らしに戻ることはできるはずです。違いがあることから、時には意見の違いなどから争い事も起こることでしょう。けれども、爆弾や銃などの武器で解決してはならないのです。まず一番に大切なのは、たとえ時間がかかり、面倒で煩わしいと思えても、話し合うことです。違いを違いとして認めながらお互いがきちんと納得するまで話し合いをやめるべきではないのです。

 今日の聖書はエフェソの信徒への手紙4章3節です。このようにあります。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」。この働きをアハリー・アラブ病院は続けています。特に、子どもたちが笑顔を取り戻すために力を注いでいます。聖書のイエスさまの願いがここにあるからです。

2020年10月18日 (日)

マタイによる福音書 7章1~6節 「自己相対化って難しいけど」

 今日の聖書は非常に明確です。人は自分の欠点には少しも気が付かないくせに、他人の欠点は非常に大きく見えるということです。説教題を「自己相対化って難しいけど」としましたが、「相対化」とは、相互の関係や対立を踏まえて方向付けされていく在り方を意味します。対義語の「絶対化」は、他からの制限や拘束を受けないことを意味します。主イエスの言葉は、自分のあり方を「絶対化」から「相対化」へと転じてみたらどうか、という問いかけです。「自己相対化」は単に自分を客観的に見つめることではなく、自身の見方を正してくれる他者を必要とします。それは主イエス・キリストに他なりません。

 教会の内側でも外側でも、様々な場においての出会いは、主イエスの導きのもとで「自己相対化」から始められることを、わたしたちは信じることができるのです。主イエスによって建設的で積極的な気づきがもたらされるのです。この「気づき」について讃美歌21444番は簡潔で明確に歌い上げています。「気づかせてください、知らずに犯した罪を。/与えてください、罪を見つめる力を/立たせてください、あの隣り人の前に。/そして立ってください、主よ、/わたしたちの間に。」

 自分の目の丸太に気付かされた、他人の目のおが屑をに対する批判を反省した、それだけではまだどこか固さが残ります。しかし、誰かを裁くことで自分を縛り付けていることから自由にされていく招きがあるのだと、この歌詞から促される思いです。主イエスにあって自らを省みることから他者へと向かう相応しさに向かう途上への招きがあると信じられるようになってくるのです。

 パウロがフィリピの信徒への手紙2章1から4節で述べていることとも別のことではありません。【そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。】このように語りつつ、続く箇所で根拠が主イエスにあると続けるのです(2:511)。さらにパウロは喜び合うことへと論を展開していくのです。

 今日の聖書では、厳しい裁きの言葉を用いて、しかし、人と人との関係がお互いに喜ばしくあることに向かって歩むようにとの優しい促しが語られているのです。

2020年10月11日 (日)

ルカによる福音書 12章31~34節 「天に富を積みなさい」鳥潟 紘一 神学生(農村伝道神学校)

創世記1章には「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」と書かれています。この記述には、その時代、王こそが神の姿を表し、王だけが価値のある存在とされる価値観に対する強い批判があります。ここには、いや、王だけではない、全ての人間が神にかたどられた存在であり、全ての人間には価値があるんだという思想が含まれています。イエスはその生涯の歩みのなかで、名もない一人一人を大事にしてくれました。社会からはじき出されるような一人にも、「あなたは大事」と教えてくれました。5千人が満腹したというあの奇跡物語は、人々がそんな彼と出会い、その愛に触れてしまったために、五千人という大人数にもかかわらず、一人一人が、一人一人として、一人一人のために、互いに分かち合うことができた。与え合うことができたのだと想像します。ではその時、イエスは何をしていたのか。ただそこにいただけなのか。そうかもしれません。ただし、人間のことを、徹底的に信じていて下さいました。「神にかたどって創造された」人間の価値と、そして愛の可能性を信じて、そして照らし出した。普段ではなかなかに見えにくい、自分でさえ気づかないような、人間の愛の可能性に光を当ててくれた。人間にとって「信じる」ことは力になりますが、「信じられる」ということもまた力です。イエスは信じたのだと思います。これが人間に示されたキリストの奇跡だと、今では考えています。世界には、思ったよりも結構たくさんの善意があります。確かに人間は罪に囚われます。しかしこの罪の存在が同時に愛を持つというのも確かな事実です。小さなことに目を向けたいと思います。小さな愛に気付きたいと思います。イエス・キリストが示すからです。このイエス・キリストという存在のゆえに、人間に向けた神の眼差しがいかなるものかを思い出したいと思います。

2020年10月 4日 (日)

マルコによる福音書 14章22~25節 「イエスの食卓の広がりとして」(世界聖餐日)

 食卓をめぐる物語はマルコ福音書を読み進めていく中で、意味が濃縮していきます。その結論的部分として今日の聖書を読み返すことで世界聖餐日の意味を捉えなおすことができるのです。

 今日の箇書で描かれている食事は、共観福音書では「過ぎ越し」の食事であったとされます。奴隷の民からの解放であるエジプトからの脱出の時の記念としてユダヤ人の間で祝われていたものです。その解放者が主イエスに他ならないのだと教会は再解釈したのです。一つのパンとブドウ酒の入った一つの杯なのです。裂かれたパンを食し、杯を回し飲みしたのでしょう。出エジプトの記念の食卓につながる「奴隷」からの解放が「罪人」という理解を無化する運動に深められたのです。これまで闘われてきた主イエスの食卓を記念し、主イエスの幸いに満ちた闘いへの招きがここにあるのです。

 いつの日にかこの世は終わるでしょう。その日が来るまでは教会は主イエスの闘いとしての食卓である聖餐を祝うことによって、歩むべき方向性を修正しつつ整えていくのです。来るべきメシアの前での宴会を先取りして祝うのです。25節では「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と語ります。つまり、くだけて言えば、神の支配の行き渡る神の国、来るべき日に再会した時には、ブドウ酒をたらふく飲んで宴会しよう、ということです。聖餐は、かつて主イエスがなさったところの食卓の業と、やがて来るべき日に至るキリストとの宴会の間にあって、キリストに従うものへと招かれていることを確認するという、そういう儀式でもあります。最後の晩餐として有名なこの場面は、ここに至るまでの主の食卓の総決算として読まれるべきです。

 聖餐は、このような主イエスの生き方を受け入れるのかどうか、ということです。主イエス・キリストの道、それが一つのパンであり、杯です。主イエス・キリストの杯に与るということは、その苦しみに与ると同時に、その恵みとしての命にも与るということです。食卓は閉ざされた人たちによってなされるものではなく、誰もが、とりわけ、貧しいもの、飢えているもの、泣いているものに向かって差し出されている。主の晩餐とは、主イエス・キリストがここに臨んでおられるのだとの招きなのです。世界聖餐日は第二次世界大戦の頃、世界の平和を願って始められたといいます。聖餐に与ることは、ただ個人的な内面や精神性に閉じられるものではありません。主イエスの目指した、格差のない社会、誰一人「罪人」として排除されることない世界、平和の構築を引き受けていく、という態度表明に他なりません。だからこそ、世界中で同時に祝い確認し合うことで、その思いを強くしようと、世界聖餐日は制定されたのでしょう。

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