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2020年9月

2020年9月27日 (日)

マタイによる福音書 6章24節 「神と富について」

 今日の箇書の「富」は「マモン」という言葉が使われていますが、これは人格を表わす言葉として読むことができます。仕える相手は神なのかマモン(=富)なのか、という問いは、わたしたちが何らかの判断をし、考え、行動し、振る舞う、その基準を問い返すという難しい問いでもあります。
  わたしたちは絶えず、好き嫌い、良し悪しを瞬時に判断しながら行動しているわけですが、自分にとっての当たり前の判断の根拠を問うことは難しいです。人との関わり方、政治的な判断などには理由付けがなされているはずですが、その理由の意味を問うことでもあります。何故、そのように考え判断するのか、自分の頭の中にある「隠されたプログラム」を自己検証し、自分を動かしているのは神なのかマモン(=富)なのかを問い返せというのです。この点を突きつめていくと、少なからず現れてくるのは、世間という他者の目であったり、その根っこにある価値観や常識、という強いられた考え方や判断力です。マモン(=富)に仕えるとは、ざっくり言えば、神以外の基準に従うということです。意識的にせよ無意識的にせよ、神以外のものを「権威」としてしまう価値観です。マモン(=富)とは、総体としての偶像だと考えても良いのではないでしょうか。今日の聖書で「富」と呼ばれていることと「罪」「偶像礼拝」とは非常に近いものでもあります。要するに、心の奥底である無意識まで神の支配のもとにあるかを自己吟味することから、神にのみ仕えていく道を探れということです。
 人は自分では自由に自分の考えから行動を導いていると思いがちですが、実際は隠されたプログラムから自由ではありません。そしてこの隠されたプログラムは、「わたしは信仰者であるから、当然神が基準だ」などと簡単に言えるようなものではないのです。ここで問われているマモン(=富)は、広い意味で考えられます。権力、名誉や地位、あるいは友情や愛情といった人間にとって美徳とされる事柄も含まれるかもしれません。常識や良識だとされている事柄、あるいは自分の中にある一定の論理や理屈なども考えられます。自分を突き動かす全体的な力を、広い意味でのマモン(=富)として理解すべきだろうと思います。マモン(=富)の力は非常に強いのです。その力に引きずられずにいられるか。
 自らの内に聖霊の注ぎにおいてイエス・キリストご自身が働きかけていてくださるという信頼に生きることが、マモン(=富)ではなく神を選ぶということです。主イエス・キリストの働きは聖霊として、神の言葉として共にいてくださることによって呼びかけと招きをやめることがありません。わたしたちは日々の生活において、マモン(=富)を基準としていないかを常に自己検証し続けることで、その招きに応えていきたいと願います。

2020年9月20日 (日)

マタイによる福音書 6章22~23節 「内なる光」

 ここで言われている「目」は全体性を表わします。今生きているわたしたちが、この時代のただ中にあってどのように生きていくのかを示すのが、「目」という言葉に表されている「内なる光」として働き続けている主イエス・キリストなのだということです。

 この方に今一度、そして日毎にあるいは瞬間ごとに聞き続け尋ね求めつつ、問いを立て、そして答えを見いだしていく途上を歩み続けていくのがキリスト者だということでしょうか。

 わたしたちは日々自分のことや家族のこと、暮らしている街や職場、さらにはこの国や世界のことなど考え出せば切りがないほどの課題に巻き込まれつつ暮らしいています。そのただ中に「内なる光」である「内在のキリスト」つまり、「わたし」の内から働きかけている神の言葉を聞き洩らさない生き方を今一度思い起こそうじゃないかという呼びかけが今日の聖書ではないかと思うのです。

 パウロにはしばしば「内在のキリスト」の理解があります。たとえば、コリントの信徒への手紙二の1120節です。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」。この、十字架に磔られたままのキリストこそが共に、しかも「わたしの内に」生きておられるという事実によって支えられているということ。ここからこそ、今日のマタイによる福音書の「目」という言葉で表されている立ち位置に留まることができるのではないでしょうか。「内なる光」と「内在のキリスト」はイコールと断言することには慎重であるべきですが、共鳴があることは確かです。

 キリスト教信仰とは、信じて従う「わたし」の全体的なあり方全てを言うのです。

 基本的にはキリスト教とは明るく喜ばしい教えです。だからこそ、パウロはフィリピの信徒への手紙212節以降で「喜び」のテーマを語るのです。この「喜び」とは、「内なる光」としてのキリストの働きかけによって導き出されるものです。

 このあり方が「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(マタイ6:22)ということです。どのように生きていくのか。どのように死んでいくのか。そのために考え、祈り、行動する基準が、すでに「内なる光」として、わたしたちの全体的なあり方としての「目」として与えられていることをご一緒に確認したいと思います。しっかりと自分と自分の周りに広がりゆく世界を見極め、判断し、行動していくこと、仕えていくことに向かって、「内なる光」によって支えられた「目」というあり方から今を生き抜く知恵が与えられていることに信頼していきたいと願います。その力がすでに備えらえれ、与えられていることから始めていけばいいのです。

2020年9月13日 (日)

マタイによる福音書 6章25~34節 「いのちは神のものだから」(高齢者の日礼拝)

 創世記27節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。この、神から貸し与えられた存在というイメージは、旧約聖書ヨブ記にも描かれています。ヨブという無垢で正しい人が試みにあわされ、牛や羊が奪われ、家や家族を失う知らせを聞いてもなお、121節の 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と語る言葉にも、ただ神からのみ一切が与えられるということへの共鳴があると思われます。

 人のいのちが神にのみ根拠があることを楽天的に、つまり積極的に肯定的に受け止めたのが、今日の記事です。捨てられて当然、という雑草である「野の花」は「働きもせず、紡ぎもしない」、「空の鳥」は「種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」とあります。これは、それぞれ男も女も役割分担としての労働によっていのちが支えられるのではない事を語っています。何もしなくても、ただいのちのゆえに祝福されているのだという、楽観的な主イエスの感覚があるのです。この世の富にまつわる「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という生き方から人間は自由でない現実があるけれども、主イエスキリストは、思い悩む必要は、すでに取り除けられていると宣言しているのです。「空の鳥、野の花」と同様、すでにその生命が祝福され、そのありようが主の目から見れば美しいと宣言なさっているのです。今日を生きることが神への責任ある応答なのだと、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(6:34)。一切の苦労がなくなるわけではありません。今日という日に与えられた苦労は負わねばならないのです。しかし、明日や将来において負わなければならない苦労を今のことにする必要はないのです。今日を生き抜くことにこそ、将来への責任と可能性が約束されていくのだという、主イエスの楽観主義に学ぶ必要があるのです。

 この「高齢者の日礼拝」において確認しておきたいのは、「老い」は恐怖でも失望でも苦痛でもないということです。「死」に向かっていく「老い」の現実は、この世の基準からすればマイナスの要因ばかりが目につき、様々な衰えがわが身に起っていることの実感抜きには考えられないことでしょう。しかし、その先に希望があることを認めていれば全く違った価値観によって支えられていくはずなのです。「死」を苦しみだけではなく、最後の神からの贈り物として受け止めることだってできる、ここに信仰があるのです。

 

2020年9月 6日 (日)

マタイによる福音書 6章19~21節 「天に富を積むとは?」

 20節の「富は、天に積みなさい」との主イエスの言葉の示すところはマタイによる福音書の考えでは「施し」を意味しています(191630参照)。イエスの場合、ユダヤ教の伝統的な解釈を踏まえた上で、それを徹底的に掘り下げ、同じ言葉を別の意味に捉えるとか乗り越える方向へと導く癖のようなものがあります。形式的な神に対する信仰や行いを越えて、中身を問う仕方で語っていくのです。

 614では、「施し」を見せびらかすのではなく、隠せと命じています。「施し」の業を他者の目あるいは神の目に見てもらうことによって褒められるなど何らかの良い評価を受けること、つまり、その業に見合った「見返り」のようなものを求めてしまうことが懸念されるからです。

 主イエスの語る「施し」には、富んでいる者から貧しいものへという方向によって、施し施される関係に権力とか支配などの関係がつくられることへの警戒心があると読めます。何かを人のためにするという行為の背後にある「心のありよう」を自覚したものかを問うているかのようです。「施し」を見せびらかさず隠せという言葉には、その行為は無償の愛に基づいているのか、という問いが隠されているのだと読めてきます。

 「施し」という言葉を広く捉えると、誰かに対しての差し向かいの態度であると考えられます。何かを与え、何かを行い、何かを語りかけ、など具体的にそこにいる相手との関係が、「無償の愛」に基づいているのかという問いかけがあるのです。主イエスの「無償の愛」です(このあり方についてはⅠコリント13章を参照のこと)。ここでいう「愛」とは、「施し」の背後にある、主イエスによって備えられた人間のありようの基本です。今日のテキストの言うところの「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」、という人間同士の絆の理想とも目標とも呼ぶことができるかもしれません。このような「愛」に基づいた関係を病や死が襲いかかってきたとしても、大丈夫なのだと言い切ることのできる唯一の方が、主イエス・キリストなのです。

 本当の富とは、この地上に流通しているお金ではないのだと諭し、加えて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と語られます。この富とは、主イエスの愛でなければなりません。生前の主イエスが、あの人この人という個別の一人ひとりに向かって語りかけ、共にいて、喜びも悲しみも分かち合った現実から導かれることです。その人にとって一番ふさわしいあり方に向かって、丸ごとの命をかけがえのないものとして無条件に、そして全面的に肯定した生き方から示されるものです。この主イエスにあってこそ、わたしたちの関わる全ての一人ひとりとの関係性は整えられ、祝福されていくのです。そのような関係の一つひとつが「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」ということであり、そこにわたしたちの心が向かうようにと、今日も主イエス・キリストは招き続けているのです。

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