マタイによる福音書 6章24節 「神と富について」
今日の箇書の「富」は「マモン」という言葉が使われていますが、これは人格を表わす言葉として読むことができます。仕える相手は神なのかマモン(=富)なのか、という問いは、わたしたちが何らかの判断をし、考え、行動し、振る舞う、その基準を問い返すという難しい問いでもあります。
わたしたちは絶えず、好き嫌い、良し悪しを瞬時に判断しながら行動しているわけですが、自分にとっての当たり前の判断の根拠を問うことは難しいです。人との関わり方、政治的な判断などには理由付けがなされているはずですが、その理由の意味を問うことでもあります。何故、そのように考え判断するのか、自分の頭の中にある「隠されたプログラム」を自己検証し、自分を動かしているのは神なのかマモン(=富)なのかを問い返せというのです。この点を突きつめていくと、少なからず現れてくるのは、世間という他者の目であったり、その根っこにある価値観や常識、という強いられた考え方や判断力です。マモン(=富)に仕えるとは、ざっくり言えば、神以外の基準に従うということです。意識的にせよ無意識的にせよ、神以外のものを「権威」としてしまう価値観です。マモン(=富)とは、総体としての偶像だと考えても良いのではないでしょうか。今日の聖書で「富」と呼ばれていることと「罪」「偶像礼拝」とは非常に近いものでもあります。要するに、心の奥底である無意識まで神の支配のもとにあるかを自己吟味することから、神にのみ仕えていく道を探れということです。
人は自分では自由に自分の考えから行動を導いていると思いがちですが、実際は隠されたプログラムから自由ではありません。そしてこの隠されたプログラムは、「わたしは信仰者であるから、当然神が基準だ」などと簡単に言えるようなものではないのです。ここで問われているマモン(=富)は、広い意味で考えられます。権力、名誉や地位、あるいは友情や愛情といった人間にとって美徳とされる事柄も含まれるかもしれません。常識や良識だとされている事柄、あるいは自分の中にある一定の論理や理屈なども考えられます。自分を突き動かす全体的な力を、広い意味でのマモン(=富)として理解すべきだろうと思います。マモン(=富)の力は非常に強いのです。その力に引きずられずにいられるか。
自らの内に聖霊の注ぎにおいてイエス・キリストご自身が働きかけていてくださるという信頼に生きることが、マモン(=富)ではなく神を選ぶということです。主イエス・キリストの働きは聖霊として、神の言葉として共にいてくださることによって呼びかけと招きをやめることがありません。わたしたちは日々の生活において、マモン(=富)を基準としていないかを常に自己検証し続けることで、その招きに応えていきたいと願います。
最近のコメント