エフェソの信徒への手紙 6章10~20節 「平和を求める姿勢」(平和聖日)
今日のテキストでは、一見軍隊の装備のような姿が描かれています。しかし読み取るべきは、それが丸腰なのだということです。武器によらない方法によって平和を実現することを考え、行動していくことを求めているのです。そこで、様々な平和を作り出す志に生きたキリスト者たちを思い起こしました。
その中の一人が、医師の中村哲さんです。2019年12月4日、長年活動されていたアフガニスタンの東部において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、搬送される途中で亡くなりました。
中村哲さんの活動は、医師ですから当初は医療が中心でしたが、平和のないただ中にあって、診療所をつくることよりも井戸や用水路を作る方向へとシフトしていきました。共に生きることの具体を水の確保に求めていったのです。圧倒的な水不足や水を巡る諍いが起こっていることからです。アフガニスタンでの活動について言葉を残しています。【アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです。】
中村哲さんは日本国憲法9条に記された中身を具体化するために働かれました。丸腰で平和を作り出すことを志しておられたのです。しかし、日本国の実際は彼の主張や活動に対して耳を傾け協力することはありませんでした。共感することもありませんでした。それでも中村哲さんの平和へと歩む道にブレが生じることはありませんでした。そして、彼は殺されてしまった。おそらく、近年の日本の実情により、「9条」というメッキがはがれてしまったがゆえに。日本国は、彼の殺害をテロとして非難をしました。
エフェソの信徒への手紙の告げる「神の武具」を身に着けることは、彼のように丸腰で知恵を出し、働き、汗をかくことなのでしょう。正直、誰にでもできることではないなあ、と思います。しかし、そこで諦めていいのか。中村哲さんを「偉人」に仕立て上げてしまって「終わり」でいいのか。
さだまさしが、凶弾に倒れた中村哲さんにささげた歌に「ひと粒の麦~Moment~」があります。サビの部分で歌われている内容は次のようなことです【薬で貧しさは治せない/武器で平和を買うことは出来ない/けれど決して諦めてはならない/いつか必ず来るその時まで/私に出来ることを為せば良い/私に出来るだけのことを】。わたしは、このさだまさしの歌詞への共鳴の歩むことが「平和聖日」に込められた方向を示すものだと確信しています。「私に出来ることを為せば良い」とある、その中身をそれぞれがたとえ小さなことに思えても諦めず、丸腰で歩む決意を新たにすることが、「平和聖日」の意味なのではないでしょうか。
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