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2020年8月

2020年8月30日 (日)

マルコによる福音書 12章13~17節 「国家暴力と信仰」井谷 淳

本日の聖書箇所においてイエスに対して意地の悪い角度での質問を浴びせてきたヘロデ派、ファリサイ派両党は通常それぞれのユダヤ教内での宗教的立場は異なります。この両派がイエスに対してこの難解な質問を浴びせてきたのは、イエスを宗教者として失脚させるためでありました。イエスの失脚に関して両派は「利害の合意」に達していたのであります。[皇帝に税を納めるのは律法に適っているか]この質問はもしイエスが「納めるべきではない」と答えれば、イエスはこれまでの民衆の支持を失います。人々はローマ皇帝の存在を疎ましく思っていたからです。一方で納めるべきではないと答えれば[ローマ帝国]に対する反逆罪としてイエスを「公に逮捕する法的根拠」が出来上がります。どちらの答えをしてもイエスはこれまでの宗教者としての立場を失う事態に陥るのです。この狡猾な[変則的な質問]に対してイエスは「主体的」に彼等に皇帝の銘が刻まれたローマ通貨[デナリオン銀貨]を手元に持って来させます。当時エルサレム神殿内における神殿税(献金)の納入はユダヤ通貨の「シケル銀貨」に両替しなければなりませんでした。そのために神殿内に両替商が存在していたのです。ヘロデ派の人々はこの両替商と結託し、自在に国家間のレートを操り、両替手数料と余剰金を算出し私腹を肥やし且つその利益を上部統治国家であるローマ帝国へと献上していました。植民地の巷にローマ通貨を多く流通させ両替を余儀なくさせそのレート上の余剰分を利益として搾取する。これがローマ帝国の創出した国家的収奪構造の一端であります。イエスが別箇所で両替商に対して怒りをぶつけたのもイエスはこの巧妙な搾取構造を熟知していたからであります。この両替システムの恩恵に預かっていたヘロデ派の人々に対し、ファリサイ派の人々はローマ帝国のエルサレム神殿への介在が気に入りませんでした。上部国家ローマ帝国への納税は「神に対する冒涜」であるという根底感情を持っていたのです。彼等への答弁としてイエスは彼等の質問事項にはない変則的な形で[神の存在]を自ら出してきます。彼等は[律法]という言葉を質問事項として出してきても、[神]という言葉は出してきてはいません。マカバイ王朝の統治、管理化にあったとしてもエルサレム神殿自体はあくまでも理念的は[宗教信仰の象徴]であるべきであります。故にイエスはユダヤ教の信仰的象徴である神殿への税の納入~献金行為自体は反対してはいません。問題になるのは支配、被支配の国家間のレートを操り、利益を上げる「中間搾取業者」の存在が神殿での献金行為をする人々からの不当搾取の現実を露呈させ、また業者が寄生する国家ローマの搾取構造を如実に象徴していた現実であります。「神のものは神へ」この言葉は自分達の信仰の象徴である神へ還してゆくべき献金と不当な余剰利益を収奪するローマ帝国への金銭の流出の現実をしっかり見極め、純粋なる宗教行為としての献金と世俗権力である支配国家への不当な上納金を区別化すべきであると説いています。よって彼等のレトリックである[律法に適うか]という質問に対して自分達の神に還すべき「感謝の金銭」が本当に「神に還されているのか」という揶揄を込めた彼等への「指弾」であったとも考えらないでしょうか。私達に置き換えますと私達は本当に「個としての自分自身」と「神」との関係の中で奉献行為をしているのでしょうか、それともその背後にある全体的なものに目がむいているのでしょうか。本日の箇所のイエスの言葉は私達の感謝行為を検証させる一言であると感じられます。

2020年8月23日 (日)

マタイによる福音書 6章16~18節 「断食問題の背後には」

 マタイ福音書の文脈では、ユダヤ教において善行・得を積む行為として「施し」「祈り」「断食」がセットになっていることを前提にして論が進められています。「施し」に関しては「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とあり、隠れて行うことが語られます。「祈り」に関しては「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とあり、いわば密室の祈りが奨励され、見せびらかしが戒められています。今日の断食問題も同じようなテーマだと読めます。「あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」とあり、「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と続きます。それは「あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とされているからです。わたしは苦行としての「断食」をしていますよ、みたいな自己顕示を戒めているように思われます。「断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」という言葉は、キチンと身だしなみを整えるようにという意味でしょう、普段の生活態度でいなさいということだろうと思われます。手洗い問題にあるように、ユダヤ教は宗教的な聖さと汚れに敏感でしたが、ただ単に宗教的なことだけではなくて平凡な生活態度にも影響があったはずです。

 「断食問答」から言えることは、今生かされていることに対する感謝と喜びをもて、生き生きとしたいのちに与っているかが問題なのです。「断食」あるいは「施し」「祈り」といった宗教的に善を行い、徳を積むことが、人の目によって評価してされたいという欲望を満たしたいという願いを満たすものになってしまうことは避けよ、ということです。また、自分の目から見ても同じことです。

 宗教批判はキリスト教会という内側にも向けられるべきです。信仰深さゆえの傲慢さによって、また信仰ゆえに自らの人間性が貶められることが十分ありうることは否定できないのです。

 キリスト教は、もっと明るくて喜ばしいものです。これらを取り戻すための反面教師として、主イエスが山上の説教で「施し」「祈り」「断食」に関して「偽善者」と呼ぶところの態度を読むことができるのではないでしょうか。今、生かされていることへの感謝と喜びをまず噛みしめる。そして、自らの傲慢さから自由にされ神にのみ向かうことです。人の目に映る自分を意識しながら神に向かうことはできない。そんな余裕はない。ただ神に集中する中でしか断食し祈り施すことはできないのだと。主イエスの批判を自らのこととして受け止めていくならば、一度自分が解体されつつ、同時に自分を獲得していく道が備えられつつあるのだと考え直す機会が与えられるのではないでしょうか。

2020年8月 9日 (日)

マタイによる福音書 6章13節 「悪から逃れる道」

 通常、「悪」というのは能動的になされるものだと考えられていますが、ハンナ・アーレントはむしろ、受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しました。ナチスの高官アイヒマンが、ホロコーストの実行を「ただ命令に従っただけ」と証言する姿から出した結論です。それは、その時代や場所において自分に与えられている役割の中で無自覚に「善」「正義」「正しさ」を追求する生き方です。そのような凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうるのです。「自分で考える」ことを捨ててしまうならば、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。

  つまり、必要なのは、自分の限界の中で、自らの歪んだ「善」「正義」「正しさ」を批判的に、そして主体的に罪を引き受けることです。ここで思い出すのは、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉です。「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにのみ成り立つであろう。すなわち、祈ることと、人間の間で正義を行なうことだ。」。この言葉をわたしはこれまで矛盾しない二つのことだと考えていました。祈りつつ正義を行う道につらなることだとして、順説として捉えていたのです。しかし、考えを修正したいと思います。「祈ること」と「人間の間で正義を行なうこと」の間には緊張関係があることに気が付いたからです。無自覚的に、あるいは受動的に、今まで与えられてきた価値観における「人間の間で正義を行なう」のでは、アイヒマンにおけるような価値観や基準に陥る可能性があるからです。「正義を行う」の前に「人間の間で」という言葉があることに注意を寄せてみる必要がありそうです。「正義」は固定した自明のものではない。関係性の中で、今何が「正義」なのかを探ることが必要になってきます。正しい意味での「人間の間で正義を行なうこと」のためには「祈ること」によって、絶えず修正がなされなければならないことへと導かれたのです。「善」「正義」「正しさ」は自明のこととして与えられているのではありません。受動的に理解することではダメなのです。今一度、「善」「正義」「正しさ」を疑い、自ら考えを整理していくことが必要なのです。だからこそ祈るのです。「祈ること」によって「人間の間で正義を行なうこと」へと導かれ、「人間の間で正義を行なうこと」を「祈ることに」によって支えるということです。この緊張関係の中でこそ、わたしたちは日毎に「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」「我らを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ。」と祈らざるを得ないのです。

2020年8月 2日 (日)

エフェソの信徒への手紙 6章10~20節 「平和を求める姿勢」(平和聖日)

 今日のテキストでは、一見軍隊の装備のような姿が描かれています。しかし読み取るべきは、それが丸腰なのだということです。武器によらない方法によって平和を実現することを考え、行動していくことを求めているのです。そこで、様々な平和を作り出す志に生きたキリスト者たちを思い起こしました。

 その中の一人が、医師の中村哲さんです。2019124日、長年活動されていたアフガニスタンの東部において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、搬送される途中で亡くなりました。

 中村哲さんの活動は、医師ですから当初は医療が中心でしたが、平和のないただ中にあって、診療所をつくることよりも井戸や用水路を作る方向へとシフトしていきました。共に生きることの具体を水の確保に求めていったのです。圧倒的な水不足や水を巡る諍いが起こっていることからです。アフガニスタンでの活動について言葉を残しています。【アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです。】

 中村哲さんは日本国憲法9条に記された中身を具体化するために働かれました。丸腰で平和を作り出すことを志しておられたのです。しかし、日本国の実際は彼の主張や活動に対して耳を傾け協力することはありませんでした。共感することもありませんでした。それでも中村哲さんの平和へと歩む道にブレが生じることはありませんでした。そして、彼は殺されてしまった。おそらく、近年の日本の実情により、「9条」というメッキがはがれてしまったがゆえに。日本国は、彼の殺害をテロとして非難をしました。

 エフェソの信徒への手紙の告げる「神の武具」を身に着けることは、彼のように丸腰で知恵を出し、働き、汗をかくことなのでしょう。正直、誰にでもできることではないなあ、と思います。しかし、そこで諦めていいのか。中村哲さんを「偉人」に仕立て上げてしまって「終わり」でいいのか。

 さだまさしが、凶弾に倒れた中村哲さんにささげた歌に「ひと粒の麦~Moment~」があります。サビの部分で歌われている内容は次のようなことです【薬で貧しさは治せない/武器で平和を買うことは出来ない/けれど決して諦めてはならない/いつか必ず来るその時まで/私に出来ることを為せば良い/私に出来るだけのことを】。わたしは、このさだまさしの歌詞への共鳴の歩むことが「平和聖日」に込められた方向を示すものだと確信しています。「私に出来ることを為せば良い」とある、その中身をそれぞれがたとえ小さなことに思えても諦めず、丸腰で歩む決意を新たにすることが、「平和聖日」の意味なのではないでしょうか。 

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