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2020年7月

2020年7月26日 (日)

マタイ6:12-15「関係の修復を祈るために」

 12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」また主の祈り「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。」は難しい、と思う方は多いのではないでしょうか。自分はそんなに簡単に赦すことはできない、と。しかし、その前提にあるのは、わたしたちの傲慢さやその根源にある悲惨な罪の事態が主イエスによって、あるがまま全的に無条件に赦されてしまっている現実です。逆説的ですが、こう祈るわたしたちがすでに赦されているからこそ、わたしたちは他者を赦すことができる。

 主イエスの赦しとは、闇である罪を暴き出すものです。審きです。自らの罪をしっかり見つめていくことへの招きであり、促しでもあり、恵みなのです。わたしがわたしになっていくための愛の働きといってもよいかと思います。罪を自覚したうえで、自らをありのままに認めることのできる理性であり、今生かされている現実を肯定し、積極的に受け入れる能力のことでもあります。わたしたちにしばしば欠けてしまいがちな「自己肯定感」を主イエス・キリストは与えてくださったのです。

 しっかりとした「自己肯定感」を保持していれば、どのような悪意ある振る舞いや言葉に対しても主イエスに倣った楽天性に基づいて生きられるはずなのです。しかし、実際それができないのもわたしたちの現実です。他者からの激しい悪意だけでなく、ちょっとしたアプローチにも傷ついてしまう弱き者です。そんなわたしたちに向かって、主イエス・キリストが、今ここに居ていい、生きていていい、いやむしろ生きよと促してくださるところから、わたしたちは勇気が与えられ、人間としての度量が拡げられたり、自分を卑屈にしてしまう力から自由にされていくのです。いわば、主イエス・キリストから生きるべき暖かなエネルギーをいただいて、アイデンティティーを整えつつ歩む道へと召されていることに気付かされていくのです。ここに「赦された罪人」の生き方があります。

 このように祈ることは自分にも他者に対しても安っぽい赦しを認めることではありません。自分に対しては自己相対化を迫り、他者の間違いや不正義があれば批判していくことができる広がりにおいて理解されるべきです。赦されているからこそ、その赦しの力に導かれて自分に対しても他者に対しても正当な批判を行うことができるのです。このことによって、より豊かな人生の質を求め続けていく途上にあることを認めつつ、歩むことが確認できるのです。このような生き方へと踏み出すためにこそ祈るのです。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。」と。 

2020年7月19日 (日)

マタイによる福音書 6章11節 「飯は天なのだから」

 食とは生きるための最低限度の事柄です。食べなければ生きていけないからです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」との祈りは、元々わたしたちのいのちは神から貸し与えられているものですから、それを維持するための最低限の今日食べるものを今日ください、という祈りなのです。

 この姿勢を金芝河(キム・ジハ)は次のように示しました。

【飯は天です/天を独りでは支えられぬように/飯は互いに分かち合って食べるもの/飯は天です/天の星をともに見るように/飯はみんなで一緒に食べるもの/飯は天です/飯が口に入るとき/天を体に迎えます/飯は天です/ああ 飯は/みんながたがいに分かち食べるもの】

 「天を体に迎えます」とは、言い換えれば主イエス・キリストの願った世界観-皆が笑顔で、毎日最低限のご飯を食べて生きていく、わたしもあなたも一緒にね、ということです。喜び合って生きていくことができるためにこそ、わたしたちに必要な糧を今日与えてくださいと祈れということです。そのような、誰もが飢えることなく、必要な糧が与えられ、いのちが保持される世界観を求めていこうじゃないかとの呼びかけでもあろうと思います。

 ある牧師は「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは執り成しだと言います。ちょっと違うのではないかとわたしは思います。確かに、多分教会に集まる人たちのほとんどは、日毎の食の心配をするようなことはないだろうと思います。しかし、だからと言ってこの祈りを「執り成し」として言い切ってしまうことに対しては、若干違和感を覚えます。他人事のように「執り成し」とは言いたくないのです。それがちょっとしたことであったとしても、イエスがなさったことの真似をすることで、当事者性を取り戻すことはできるのではないのではないでしょうか。わたしたちの教会では、生活困窮家庭に使ってもらうお米を信愛塾に届けています。また、寿町にある「木楽な家」の昼食会での食事作りに参加しています。ささやかなことかもしれませんが、人と人とが具体的につながることが重要なのだと思います。

 このような世界観を夢見ていく、食料に留まらず富にしてもそうですが、独り占めしないで分かち合っていく世界を目指していこうじゃないかという、その徴として「聖餐式」というものは行われ、だからこそ非常に重要なのだと思います。金芝河の「飯は天です」という世界観を求めていくことと「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」という祈りの方向は決して無関係ではないのです。 

2020年7月12日 (日)

マタイによる福音書 6章10節 「前進し続ける神」

 御国とは、神の国を示しますが、ただ単に俗な言葉で言うところの「天国」という場のこととして捉えるには狭いと考えます。国という領域だけではなくて、支配とそのあり方を示す広がりをもつものであり、そこでは神の意志であるところの「御心」の実現が祈られます。天という人の手の届かない神の領域において、神の思いが完全に成立している情況がこの地上に具体的にやってくることを祈るのです。御心とは、神が願う世界が神から見て喜ばしいありようなのです。

 新しい天と新しい地の到来までの中間時における、キリスト者個人と教会の社会倫理としての教えに深く関わる事柄です。やがて来るべき日に向かって歩む今を全面的に問う、激しい義に飢え渇き、平和を実現していく途上における、激しい祈りなのです。

 わたしたちが、「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」と祈るなら、どのような方向を目指して行くのでしょうか。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:68)あるいは「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙示録21:4)という世界観に共鳴しているのでしょうか。 

 「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」との祈りは、キリスト者個人と教会に向かって、社会倫理のありようを整えることへの促しと反省を迫り、今あなたはどこにいるのかを問うのです。ここで、「キリスト教倫理」という言葉を使いました。倫理とは、社会生活を送る上での一般的な決まりごとと捉えることができます。人と人との関わり、人と社会とのかかわりにおいて、より相応しい人生の質やあるべき関係性を整える思想であり生き方のことです。

 キリスト教倫理は、それがすべて神に基づくものだと理解します。なぜなら、天地創造から終末に至るまでに与えられている人間の営みはすべて、神ご自身が御心として前進し続けている中で生まれてくるものだからです。それは教会においては、とりわけ十字架へとイエス・キリストとして歩まれる姿に表わされています。、さらに十字架と復活の出来事において、神がよしとされたあり方において示されています。この復活の主イエス・キリストが現在も聖霊として働き前進し続けておられることへの信頼において応答していくことが、キリスト教倫理なのです。この意味において「御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」との祈りをもって、わたしたちは、現代の構造的な悪である罪の事態に対して責任的に振る舞い、語ることが求められているのです。

2020年7月 5日 (日)

マタイによる福音書 6章9節 「すべては神の御名のもとで」

 「御名があがめられ(聖とされ)ますように」という祈りの方向はユダヤ教の伝統の延長線上にあります。「御名」とは単に名前に閉じられるのではなくて、実体そのものを表わします。「聖」という概念は区別するという意味があります。イスラエルの場合は、神が聖いのだから、神によって選ばれたイスラエルの民は聖くあるべし、と考えています。つまり、その神を信じ従う民は聖くされるという発想です。しかしながら神と聞く側の人間の側には一定の距離感がある。しかし、マタイによる福音書においては、敷居とか壁が乗り越えられており、その上で「祈りなさい」「祈るべきである」という命令があるのです。

 敷居とか壁が乗り越えられているのは、マタイによる福音書には「インマヌエル=(神、我らと共におられる)」という一貫したテーマがあるからです。神が人となり、その方がいついかなる場合にも共におられるという事実があるのです。どこか遠くにいて自己完結しているのではなく、―確かに「天」におられるけれども、神はどこにでも臨在するから―、すぐ傍にいる神のイメージを事実として信じるが故に祈ることができるのです。 

 主イエスはゲッセマネの園で祈った時、「アバ父よ」と呼びかけました。「アバ」という言葉は、父に対する子からの極々親しい呼びかけです。かしこまった言葉ではなく、ユダヤ教の伝統では本来神に対して使う言葉ではありません。すぐここにいる、その神に向かって祈るのです。つまり、「御名があがめられ(聖とされ)ますように」とは、「インマヌエル=(神、我らと共におられる)」である方が、イエス・キリストとして命じるところの祈りなのです。

 「御名」が「聖」とされるということは、人となったイエス・キリストという「聖なる」方、その方ご自身が祈れと命じているのだから、つまりイエス・キリストのあり方そのものが祈りであったのだと思います。マタイによる福音書におけるイエス・キリストは「インマヌエル=(神、我らと共におられる)」なので、振る舞いと言葉によって、弱りを覚えている者、悩み病に苦しみ、また社会的な構造悪・差別抑圧などによって虐げられた一人ひとりに向かって友となった、仲間となったのです。これを「聖なる」現実として受け止めることができるのは、祈る者と命じる者とがイエス・キリストとして一致しているからです。

 どのように生き、また信じ従っていくのか、という問いに対して、わたしたちが自らをイエス・キリストの側からの招きに応じて正していく応答の態度が、「御名があがめられる=御名が聖とされるように」という祈りです。

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