マタイ6:12-15「関係の修復を祈るために」
12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」また主の祈り「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。」は難しい、と思う方は多いのではないでしょうか。自分はそんなに簡単に赦すことはできない、と。しかし、その前提にあるのは、わたしたちの傲慢さやその根源にある悲惨な罪の事態が主イエスによって、あるがまま全的に無条件に赦されてしまっている現実です。逆説的ですが、こう祈るわたしたちがすでに赦されているからこそ、わたしたちは他者を赦すことができる。
主イエスの赦しとは、闇である罪を暴き出すものです。審きです。自らの罪をしっかり見つめていくことへの招きであり、促しでもあり、恵みなのです。わたしがわたしになっていくための愛の働きといってもよいかと思います。罪を自覚したうえで、自らをありのままに認めることのできる理性であり、今生かされている現実を肯定し、積極的に受け入れる能力のことでもあります。わたしたちにしばしば欠けてしまいがちな「自己肯定感」を主イエス・キリストは与えてくださったのです。
しっかりとした「自己肯定感」を保持していれば、どのような悪意ある振る舞いや言葉に対しても主イエスに倣った楽天性に基づいて生きられるはずなのです。しかし、実際それができないのもわたしたちの現実です。他者からの激しい悪意だけでなく、ちょっとしたアプローチにも傷ついてしまう弱き者です。そんなわたしたちに向かって、主イエス・キリストが、今ここに居ていい、生きていていい、いやむしろ生きよと促してくださるところから、わたしたちは勇気が与えられ、人間としての度量が拡げられたり、自分を卑屈にしてしまう力から自由にされていくのです。いわば、主イエス・キリストから生きるべき暖かなエネルギーをいただいて、アイデンティティーを整えつつ歩む道へと召されていることに気付かされていくのです。ここに「赦された罪人」の生き方があります。
このように祈ることは自分にも他者に対しても安っぽい赦しを認めることではありません。自分に対しては自己相対化を迫り、他者の間違いや不正義があれば批判していくことができる広がりにおいて理解されるべきです。赦されているからこそ、その赦しの力に導かれて自分に対しても他者に対しても正当な批判を行うことができるのです。このことによって、より豊かな人生の質を求め続けていく途上にあることを認めつつ、歩むことが確認できるのです。このような生き方へと踏み出すためにこそ祈るのです。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。」と。
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