マタイによる福音書 5章38-42節 「庶民の知恵に生きる」
日本の世間でのキリスト教徒に対する浮世離れしたイメージは、まだ残っていると感じることがありますか。わたしは横浜に来てからは感じることがあまりなくなったように思いますが、世間の人々のキリスト教徒のイメージは、大雑把に言って、いつもニコニコして不平不満も言わず怒ったりせず穏やかな人間、という感じでしょうか。「それでもクリスチャンか」とか「クリスチャンのくせに」とか行動や言葉に対する非難として向けられることが、まだあるとすれば、そのように言うような人たちにとっては、どこかで聞いた山上の説教の有名なエピソードなどが基準なのでしょう。たとえば、有名な「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」。戦時中に牧師の子どもであることでスパイの子であるとされ、殴られることがよくあったという新約学者の荒井献は、実際この言葉と同じように振る舞ったと証言しています。キリスト教徒のイメージは、教会の内でも外でも大差なかったのかもしれません。しかし、現代において、教会に集まって聖書と対話する中で、もっと別なイメージのキリスト教もアリだよね、と考えられる自由さは失いたくないと思います。
山上の説教は、かつてのカトリックの理解では司祭や修道士など特定の人にしか当てはまらないのだという解釈もあったくらいですから、そのまま言葉の上辺だけを読むと、無理難題が掲げられていることは否定できません。しかし、現代へと意味を受け止め直していくと、もっと建設的で実際的な生き方の捉え返し、考え直し、さらには生きるすべや知恵が与えられることを期待しながら、お話をしていきたいと思います。
山上の説教の5章21節から48節では、旧約の律法で語られている教えに対して「しかし」と、主イエスは「わたしはこのように考える」と主体的なものの言い方をしています。イエスのこれらの言葉は、当時の社会的な状況を踏まえながら読む必要があります。たとえば「悪人に手向かってはならない」という言葉ですが、もし主イエスが「悪人に手向かってはならない」ということを順説として文字通り語り、生き抜いたのであれば、十字架に磔られることはなかったでしょう。順説として生きたなら人畜無害な人間ですから相手にしなければいいだけの話です。律法に対する忠誠心を単純に徹底して見せただけのことです。しかし今日聖書を読む時には、その背後までを射程に入れながらでないと読みを間違えるのです。注意深さが求められているのです。そこで、「悪人に手向かってはならない」という言葉をイエスが語った時にどういう方向を指し示しているのかということを今日は確認したいと思います。
前提となっているのは、旧約の律法の「目には目を、歯には歯を」です。この言葉は、旧約以前のハムラビ法典にもあります。紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハムラビという王が制定した法律です。同様の法律は、古代オリエントにおいては珍しくありませんでした。これは、翻訳の言葉がキチンと統一されていませんが、いわゆる「同害報復法」と言われるものです。同じ害に対して同じ償いをさせるという発想です。これは旧約にはいくつかあります。
出エジプト21:24-25
「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
レビ記24:20
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
申命記19:21
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
このようにあります。探せば他にも出てきます。「同害報復法」というのは、元々は当時としては「良心的」であり「人道的」であったはずです。悲しいことに人間は往々にして、たとえば目をやられたら、それ以上の害を返してしまうからです。しばらく前のテレビドラマで「倍返し」なんて言葉が流行ったのも、そうです。人間が報復、復讐、仕返しをしようと思ったら、倍返しでは済まないのです。それを何とか人間の共同体、その社会のあり方の中で比較的穏やかに事を済ませようとする中で編み出されたのが、いわゆる「同害報復法」なのです。目なら目だけを、歯なら歯だけを、という、それを過ぎてはならないという規定です。ですから元々は「良心的」な法律、お約束であったわけです。そのような、やられた分だけやり返すという物語によって人間の共同性を保ちましょうという発想、それが当時のユダヤ教社会の中で「常識」とされていたのです。のちの時代になると「目には目を、歯には歯を」という発想が実際の目とか歯ではなくてお金になります。損害賠償であるとか弁償という仕方で解決しましょう、となっていきます。
しかし、それでいいのか、という指摘が三つ挙げられています。一つ目は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。これはいわゆる「非暴力」の運動の中では力のある影響力を持ってきた聖句ではありますが、文芸評論家の吉本隆明は、ここには「底意地の悪さがある」と読みました。大抵の人は右利きですから、普通に平手打ちをすると左の頬に当たります。右利きの人が手の甲で打つと右の頬を打てます。手の甲で打つことは、嘲り、罵り、侮蔑とか軽蔑の所作となります。その背後には、おそらく手のひらで触るのも汚らわしい、触りたくないという感情があるのでしょう。ですから、右を受けたら左も向けてやれ、というのは、侮辱するならこちらも打てよ、という態度です。侮蔑されて右の頬を打たれたときに左の頬を差し出すとき、そこに見えてくるのは、従順さというよりはむしろ挑発ではないでしょうか。
二つ目は「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。これは、裁判が前提になっています。ここで言われている上着とか下着というのは、わたしたちの感覚と違い、普段着のことです。浴衣みたいに来て帯で縛る感じのものだったようです。上着というのは、オーバーとかコートとか毛布とか寝袋とかを兼ねるようなものを想像してください。要するに、庶民はフカフカのベッドで寝る習慣がなかったので、その上着に包まって寝るのでした。これは律法によれば
出エジプト22:25-26
「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」
申命記24:12-13
「もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。」
寒さに凍えて、その人の命とか健康を損ねるようなことに関して律法は規定していることをマタイは前提にしています。庶民でも下着は2枚とか3枚持っていたかもしれませんが、それを質草にしていたのか分かりませんが、ともかく裁判にされたのでしょう。そして差し押さえられてしまう状況になったら、自分の大切な寒さから守り安らかな眠りに必要な上着も差し出してやれ、という発想です。ここにも没収されることを超越する、却って寄付してやろうか、というほどの挑発的な発想があります。
三つ目は「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」これも権力との関係が関わってきます。さあ一緒に散歩しましょう、などではないのです。1ミリオンは計算方法にもよりますが、1,5キロメートル前後です。「強いる」というのは、当時駐留していたローマ軍が荷物持ちを強制する場面に相当します。イエスが十字架の横木を担ぎきれなかった時に通りすがりの男に担がせたのと同じように、強いる権力が、そこにいる人を捕まえて、担いでいけと命じる場面が前提とされているのです。そこで断ったら何をされるか分からないのです。1ミリオン行けと強制されたら2ミリオン行け、そういう話です。強制を無化する主体的なあり方の提案です。
これらは、一般的に捉えられているような善意や受容、懐の広さの推奨ではありません。ここで言われている三つの事柄「右の頬を打たれたら‥」「訴えて下着を‥」「1ミリオン‥」ここには強い者と弱い者、強いる者と強いられる者というように権力関係が反映されています。それに対して庶民の知恵として、イエスは挑発的なしかしいのちの危険性が比較的少ないような抵抗を提案したと思われます。さらに言えば、ここにはささやかなユーモアによる抵抗とか反逆とかがあるようにも思えます。自己の尊厳を取り戻しつつ、にです
「やられてもやり返さない」という方法ももちろんありますが、一度限りならともかく、日常の中では、余程の聖人君子でもない限り、それでは自分の心を殺していくことになってしまいます。やられたら、そのまま返す、報復するというだけでは事柄に何か新しいものが生まれてくる可能性は比較的少ないのではないでしょうか。いわゆる、「憎しみの連鎖」が永遠に続いてしまう可能性が大きいでしょう。「同害報復法」もまた、その場では一応の落着はなされるかもしれないけれども、強いられる者たちの鬱屈とか強いられた者たちの自尊心の傷つけられ方とかが、そのまま置き去りにされてしまう可能性があるのです。そうではなくて、もっと見方を変える、ものの考え方を変える、もう少し違う角度から物事を見つめることができて、しかも権力に対して抗う思想を作り出していく、そういうユーモアの幅が生まれてくる可能性が、この三つの提示にはあるのです。
山上の説教が語られた場面とは、理不尽な状況が日常である社会です。直接、権力や力あるものに対して逆らってみたところで下手したら殺されてしまうかもしれない修羅場に庶民は生きていることを忘れてはなりません。そこで、理不尽な社会の日常生活の中で何とか生き抜く知恵を、主イエスが提案していると読むことができるはずなのです。これは長いものに巻かれろ、という権力に迎合していくあり方とは全く違います。別の物語や可能性が、理不尽な中にあっても開かれてくるという希望でさえあります。新し関係を作り上げていく積極的な生き方でもあります。
この点について、子どもたちの生きにくい時代を乗り切る知恵を提案しているのが、アメリカのカニグズバーグという作家です。子どもたちをテーマにした作品を数多く書いています。これについて清水真砂子が適切な記述をしています。小見出しでは「『物語』をこわす物語」という部分です(『幸福の書き方』56ページから58ページ)
学校や社会が既成の物語を強化する傾向を踏まえて次のように言います。
【さて、「物語」をこわす物語ということを言ってきましたが、そういう作品としてたとえば私は、カニグズバーグの作品を思い浮かべます。彼女の最初の作品は、『魔女ジェニファーとわたし』(岩波書店)ですが、彼女はのっけからみごとな「物語」こわしをやっている。こんな場面があります。「わたし」はある日友だちに意地悪されます。ところが学校の帰り、自分のアパートのエレベーターに乗ったら、その友だちも同じアパートだものですから一緒になってしまった。さあ、意地悪されたその子は仕返しがしたい。
私が子どもの時から読んできた作品では、こういう時、ほとんどが「仕返ししてはいけない」と言っていたように思います。学校の先生も、親もしばしばそう言ってしまう。しかしカニグズバーグは、「いじめられたら仕返ししたくなるのはあたり前でしょ」と言う。実際はそんな言葉では書いてありませんけどね。「ただし、仕返しするならこんなふうにしたらどう?」と、仕返しの仕方が書いてある。意地悪した子は「わたし」より上の階に住んでいるのです。そこで「わたし」は、ドアが開いてエレベーターを降りる瞬間さっと全部のボタンを押すんです。そして、止まらなくてもいい階に全部止まっていくのを見て、ニヤッと笑って自分の家に帰る。】
こういう物語をかつて読んでいたら、もっと楽に生きられたのにと清水は感想を続けます。仕返しをしない「いい子」を演じることを相対化する視点が与えられるのです。
イエスの言葉と行為は、清水真砂子の言葉を借りれば、物語をこわす物語の提示だったと思います。昔の人に言われている物語があって、それをこわすことによって見方を変える、物事の発想とか判断の基準の位置をずらすことによって、見えてくる世界が変わってくるということです。確かに庶民は、権力あるもの、あるいは軍隊から日ごとに抑圧されています。その中で主イエスは、「同害報復」という物語を壊し、ユーモアと知恵を絞って権力とか悪に対峙する物語へのヒントを与えているのです。
単調な毎日を過ごしている中で、もう一度生き直していくための希望の欠片みたいなものが、そこには現れてくるのではないでしょうか。色々な場面で上からの権力の力によって嫌がらせとか物理的な暴力を含むものがあるかもしれない。人間関係の中で強い者からの何かしらの力を受けるときに「悪人に手向かってはならない」というのは、相手のなすがままにさせておくことではありません。そこでユーモアとかウィットとか、そんなものを忘れないで、色々なことのできる可能性のあることを覚え、よく考えていきながら応答していく、それがイエスの語っているところの「悪人に手向かってはならない」という意味合いと方向性なのではないでしょうか。イエスは日ごとに苦しめられている人たちの中で、こういう風に生きてみたらもっと楽しい、こういう風に生きてみたらもっと面白い、こういう風に生きてみたらもっと豊かなあり方ができる、そんなことを絶えず呼びかけていたのだろうと思います。それはまた、キリスト教徒はしばしば「お人好し」と見做されるかもしれないけれど、もう少ししなやかでしたたかに生きてごらんよ、というわたしたちへの呼びかけでもあります。
今日の説教題は、「庶民の知恵に生きる」としました。決して難しいことではありません。ちょっとした知恵を庶民のレベルで考えればいいのです。そのために必要なのは、心のしなやかさとか庶民の生活感覚とか、マスコミの余計な情報に踊らされず物事を冷静に判断することなどです。自分を見失わなければ大丈夫なのです。時には失敗することもあるでしょう。大切なのは、その場にあっての「QOL」「生活の質」「人生の質」です。生きていることの面白味を、日常の苦難や悲しみを抱えつつも実現することは可能だということです。今を主イエス・キリストによって支えられ、守られているなら、その場にあって必要な庶民の知恵がすでに備えられている信頼さえあれば、きっと大丈夫なのです。この大丈夫な感じを恵みとして受けつつ、歩んでいけばいいのです。
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