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2020年6月

2020年6月28日 (日)

マタイによる福音書 6章5~8節 「まず祈ってみながら」

 マタイ福音書が語る「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とは、神は既に見守ってくださっており、常に配慮と導きを与えていることが前提とされており、そこに向かう応答として祈りがあるのだということです。神の招きにおいて祈る中で、自らが裸にされるように晒しだされ、自らのあり方が世間の目だけではなくて自分の思い込みのようなものさえからも自由にされていくのです。このようにして整えられていくところに密室の祈りの豊かさがあります。ここには、マタイが批判する律法学者やファリサイ派の人々のように世間の目に受けるような派手で自らの自己顕示欲を満足させるようなものは欠片もありません。神の守りの中での、安心と平安に包まれた孤独な時が祝福としてあります。

 今回はゲッセマネの園での祈りについて触れておきたいと思います。マタイ福音書で注目すべきは次の言葉です。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」。簡単に言えば、神に命乞いを祈るのです。ここには、自らの死を堂々と受け入れて死んでいくのではなく、いのちにすがりつきたい一人の惨めな人間の姿しかないかもしれません。しかし、神が人となったという出来事はこの惨めな人間の姿をも神が引き受けたことを示す、と教会は信じてきたのです。

 わたしたちは、この主イエスこそをキリストとして信じているのです。ですから、この主イエスにあって、何の衒いも気兼ねもなく祈ることが赦されているのです。こんなことを祈っていいのかななどととりあえずは考えなくていいのです。真っ直ぐで正直な言葉を神への応答として紡いでいけばいいのです。その祈りが神の前に相応しくなくても、です。ただ「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」を忘れないことが大切です。この関係性があるからこそ、わたしたちの勝手な祈りは「くどくど」せずに整えられ、育てられていくからです。ゲッセマネの園での主イエスがそうであったからです。

 「まず祈ってみながら」始める生活を目指して歩んでいきたいと思います。先立つ主イエス・キリストの招きがあるかぎり、わたしたちの応答としての祈りが無駄になるはずはありません。おそらく誰しも何かしらの課題や悩み、解決困難な問題を抱えているでしょう。祈れば、すぐに解決が与えられるとは限りません。それでも祈りましょう。日々わたしたちの応答としての祈りは祝福のもとにあるからです。

2020年6月21日 (日)

マタイによる福音書 6章1~4節 「隠れた行い」

 律法学者やファリサイ派を「偽善者」とマタイ福音書は非難しています。ただし、この言葉は、ブーメランのようにマタイに返り、現代のキリスト教会もまた「偽善者」の誹りから逃れることはできません。「偽善者」という言葉は、当時の言葉の意味合いからすると「役者」ということのようです。つまり、本人はその気になって大真面目で信仰深く振る舞っている「つもり」でも、人を貶めた上での振る舞いであるなら、それは演じているにすぎず欺瞞だというのでしょう。だから、【偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。】というのです。

 問題は、彼らの主張が、律法を分かりやすく受け入れやすくしようとする本来の意図と離れて「主義」になり、律法の解釈から漏れて外されることで「罪人」と呼ばれる人たちを広く生み出してしまったことです。律法とその解釈を守れる人が報いを受けて、そうでないと報いが受けられず呪われるという発想になっています。「律法学者やファリサイ派の人々」は、律法とその解釈を守れば自動的に報いが与えられると考えるという神を思い描いたのでしょうが、それは「世間の目」を神と勘違いしていたにすぎないと思います。

 しかも、「世間」であろうと神であろうと報いを期待することによって人間の関係をつなぐことができるという発想は、神への信仰を誤解しています。そもそも、報いなどの「ために」施すという発想自体ではダメだというのが主イエスの元々の意見だったと思います。63節には「 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」とあります。隠れてひっそりと行いさないということの比喩だと思いますが、この言葉で言いたかったのは、おそらく「意識しないほど自然に」ということだったのではないでしょうか。たとえば、歩くときは右足と左足をどのように動かすか、足を怪我をしたとかでなければ、あまり考えることはないと思います。このように意識しないほど自然に「施す」ような、肩意地を張らない気楽な、困っていたらお互いさまなんだから気にする必要なんかないさ、という生活感覚だと思います。

 誰かが困っていたら何の衒いもなく助けてあげればいいし、自分が困っていたら助けてって言えばいいじゃないか、自然な流れの中で助け合えばいい、何も「世間の目」や、その背後にある幻想としての「神の目」を気にすることじゃない。本物の神は、すべてお見通しなんだから気にするなよ、こんなことを主イエスは言いたかったではないかと思うのです。

2020年6月14日 (日)

マタイによる福音書 5章43~48節 「広がりとしての隣人愛」

 今日の聖書で言われているのは有名な「敵を愛しなさい」です。キリスト教は愛の宗教であると一般的には知られています。しかし、この2000年にわたる歴史を学ぶ学問として「教会史」という分野がありますが、これに少しでも触れたことがあれば、あるいは広い意味での世界史を省みてキリスト教の果たしたマイナスの、負の歴史からすれば、キリスト教が愛の宗教などとは単純には答えられません。キリスト教の歴史から言えば、いわゆる「十字軍」「魔女狩り」あるいはユダヤ教の迫害からアメリカによる戦争など指摘し始めたらきりがないほどです。また、愛を巡る表現について、新約聖書を通して読むと濃淡があることも事実です。愛についての表現については、たとえばヨハネ文書では「兄弟愛」であり、パウロの場合はヨハネと似ていますが教会の内側における、閉じられた意味での「愛」がテーマとなっています。しかし、「敵を愛しなさい」の教えは、今日のマタイの箇書と並行する記事のあるルカだけに見られるもので、新約聖書全体から見たら中心的なキリスト教の考え方ではないのかもしれません。にもかかわらず、キリスト教の代表的な教えとして広く認知されているのは、「敵を愛しなさい」というテーマが、人々の反感や嫌悪感のようなものを引きずりながらも何か心魅かれ、あるいは心に引っ掛かりを与える言葉として聞かれていたからだと思われます。

 この「敵を愛しなさい」という、新約聖書の中では中心的だとは必ずしも言えない意味合いを今、どのようにして受け止めればいいのかがテーマとなるのですが、大変難しいのです。そこでまず、「愛敵」という「敵を愛しなさい」を捉え返す前提として、ユダヤ教からキリスト教に至る「隣人愛」の教えを整理しておく必要があります。

 この間、マタイによる福音書の山上の説教を読んでいます。ここでは、「あなたがたも聞いているように」、という枕詞が付くように、当時のユダヤ教の教えを前提として、これに対する主イエスの主体的な判断が教えとして整えられているのです。

 まず、ユダヤ教の考え方から見ていきたいと思います。隣人愛の教えは、有名なところでは旧約のレビ記1918節後半にあります。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」です。ユダヤ教徒は、レビ記19書の終わりの「わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。」に書かれているように各種の教え、とりわけ「隣人愛」の実践が要求されています。前提にあるのは、旧約でイスラエルが繰り返し表現されているテーマです。「聖なる者」であるとしてレビ記192節では「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」というように、です。神が「聖なる」方であるから、その民も「聖なる」存在として規定されなければならない、というのです。このことを自らが実践するために、隣人を愛すのだというのです。

 そこで問題になるのが、隣人を愛すというその「隣人」とは一体誰のことかということです。ご近所さんとかお隣さんと仲良くしましょうということではもちろんありません。ユダヤ教徒が律法において隣人を愛すということは、かなり限定されたもの、律法をきちんと守っている正しい同胞としてのユダヤ人のことです。同じ信仰を持っている仲間内での非常に閉じられた愛なのです。その交わりの中にいる限りにおいてのみ、自分たちは神に守られ祝福されて大切にされている関係が「隣人愛」の中身です。

 そして、その「隣人愛」を行うために、みんなで頑張って神さまを信じていきましょう、ということだけでは結集力が充分ではありません。人間の共同性やつながり、結集力を強めるためには、枠が必要となってきます。そこから弾かれる人たちが必要とされるのです。自分たちの団結力だけではなくて排除の力が必要とされるのです。神から呪われ、捨てられているという人たちを設定しておかないと、その「隣人愛」によって支えられる共同性はより強くならないからです。そのために生み出されたのがいわゆる「罪人」「地の民」という概念です。その罪人の中には徴税人や異邦人などが含まれるのです。この人たちを共同性から排除することによって枠をきっちりと強化することができるからです。実は、旧約の律法を読んでも「隣人を愛し、敵を憎め」と文字通りには書かれていません。しかし、内容的には「隣人愛」のためには「敵を憎む」ことが必要とされるのです。ユダヤ教の主流派ではありませんが、エッセネ派とか第4哲学派と呼ばれるグループの一つであったとされるクムラン宗団の残した文献によれば自分たちを光の子とし、外側の人々を闇の子と呼んだとされています。自分たちと外の人とを神を根拠にして明確に区別するのです。そのようにして自らを聖く保とうとしたのです。このようにして自分たちのあり方の確からしさを証明したいという発想があるのです。このような方向を当時のユダヤ教の主流派も共有していたフシがあります。「隣人愛」を説けば説くほどに実際は差別が強められ、広い意味での「罪人」として断罪され、社会から疎まれ憎まれる人たちが増えていくという皮肉な状況が広がっていったのです。

 主イエスは、この当時のユダヤ教の欺瞞に対して否、と反旗を翻したのです。その教えがマタイによる福音書521節から48節まで、旧約の律法を前提としながら論じられているのです。主イエスは、隣人愛の本質と、その限界を見抜いているからです。敵を憎むことが含まれている隣人愛というものをイエスは疑っているのです。隣人を愛すと言いつつ、その内実は敵を憎むことへとつながる方向性は間違っているとし提起しているのです。ある一定の枠によって閉じられている人間関係のあり方を乗り越えるための問題提起として、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と語ったのです。そのような意味で本来キリスト者は、当時のユダヤ教徒とは違うかも知れません。しかし、実際のところ現代に至るキリスト教も大差ないと、わたしには思えています。敵を愛するようにと語られているけれども、それができておらず、ユダヤ教の教えと同じ機能を果たしていく結果になっているのではないか。結局新しい敵を見つけて敵を愛する教えを再解釈して堕落させてしまっているのではないでしょうか。この点については冒頭のところでキリスト教の歴史からも確認できることです。

 今日の説教題を「広がりとしての隣人愛」としました。「隣人愛」から「愛敵」という道筋にイエス・キリストの愛があるのだから、ここからわたしたちのあり方をきちんと見極めつつ、修正していく道筋に立ち返ることが中心的なテーマであり、決して安易な答えが与えられなくても担い続けていくべきことの確認が必要だと思うからです。

 2000年前のユダヤ社会の主イエスの時代、「罪人」「地の民」とレッテルが貼られた人たちは一生、死ぬまで、他者の側からも蔑まれ、自分の側からも自尊感情が奪われて、疎外されていました。自分は生きるに値しない、何故なら神からも祝福されておらず、人からも愛されていない、と信じ込まされていたからです。他者からも自分からも今生きていることの価値が認められていないことによって貶められていく存在であったからです。しかし、その同じ地平に立つことをイエスは志したのです。そもそも「罪人」「地の民」という風に人のいのちにランク付けをしたり、差別行為によって、より神に近いとされた人だけが救われていくという筋道ではなくて、「罪人」という概念を規定する基準そのものをイエス・キリストは無化するために来たのです。このことによってイエス・キリストは敵を愛す、つまり敵を作り出してしまう発想自体を打ち壊す意味において十字架への歩みを続けたのです。

 今日、わたしたちが敵を愛せるのかという問いの前に立つのであれば、そもそものわたしがわたしであるという基準、枠というもの、この枠の中にいれば自分は大丈夫という閉じこもったあり方ではなくて、その枠自体を無化していくことが重要です。ヘイトスピーチなどに代表される空気の流れを無化していく可能性が、教会の使命として与えられていると言えるでしょう。ここにイエス・キリストの教えを見いだしていくのであれば、わたしたちはもっと自由になれるはずです。敵を作り出してしまうことによって、自分を縛り付けている不自由な思想から自由になるために、今一度イエス・キリストの敵を愛する物語が用意されているところに立つべきなのです。敵だと信じられている人たちの顔や姿や言葉や、その人のいのちが全く違ったものに見えてくるはずです。もしかしたら「そうだよ、キリスト教なんだもの、敵を作りださないのは当たり前」と思われるかもしれません。しかし、表面的にではなく、深く掘り下げていけば、それは「防衛力・自衛力」の否定も含まれます。防衛費をゼロにせよ、と覚悟をもって言えるか、ということでもあります。話が大きくなってしまいまいましたが、そもそも、わたしが、わたしたちが、敵だと考え、信じていること自体が本当に真実なのかを見極め、冷静に判断することが必要なのです。この関係の捉えなおしの中に主イエス・キリストが教えたところの「敵を愛する」神の国の欠片を見いだすことができるに違いないのです。

 イエスは、「隣人愛」から外された罪人と呼ばれる人たちのいのちが尊くてかけがえがなくて大切なのだと語り、友となり仲間になったのです。ユダヤの隣人愛という枠を乗り越え、突き破っていったのです。「隣人愛」を支える憎しみの働きに疑問符を与えることで、立ち止まって考え直すことを求めているのです。愛するという言葉は、親しい仲間や友だち同士の間で通用する、好きという感情ではありません。本田哲郎神父は「愛する」の代わりに「大切にする」という言葉を使います。

 大切にされていること、尊重されていることを支えているのは、見捨てられていないということです。差別され、見捨てられている人の友だちになり、仲間となった人こそがイエス・キリストだと信じているからです。その人がどのような状態であっても決して見捨てられていないことをまず「わたし」が受け入れ、それをその相手に伝えていくこと、それが「敵を愛する」ことです。

 この道は、困難であることは間違いありません。各地で繰り広げられている憎しみの連鎖や言葉や行動、他者の人格を否定し殺害にまで至る現実に満ち溢れているのが現代社会です。しかし、先週のテーマであった「目には目を、歯には歯を」を乗り越える主イエスに支えられたキリスト者や匿名のキリスト者(キリストを信じていないけれどもキリストの教えと同様に実践している人)は確実に存在します。今のアメリカの暴動の元となっているヘイトを根拠にした殺害の被害者の弟さんの平和的発言をニュースでご覧になった方もあるでしょう。きょうだいが殺された中で平和的なあり方で正義を求めておられます。この間、川崎でのヘイト行動の中で崔江以子さんは激しい差別による非難と中傷の中でヘイトする側に対して「共に生きよう」と呼びかけ続けています。

 絶望的に思える現代社会であることを否定できる人は少ないでしょう。しかし、まだ希望はあります。憎しみを乗り越えていく道が、安易な仕方でなくて、十字架の主イエスの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」との言葉が肉になる現場は、たとえマスコミに報道されていなくても起こされていくのです。そこに十字架の主イエスが共にいてくださるなら可能なのです。このことに心を寄せて歩む者として、教会がまた一人ひとりが整えられることを祈りましょう。

2020年6月 7日 (日)

マタイによる福音書 5章38-42節 「庶民の知恵に生きる」

 日本の世間でのキリスト教徒に対する浮世離れしたイメージは、まだ残っていると感じることがありますか。わたしは横浜に来てからは感じることがあまりなくなったように思いますが、世間の人々のキリスト教徒のイメージは、大雑把に言って、いつもニコニコして不平不満も言わず怒ったりせず穏やかな人間、という感じでしょうか。「それでもクリスチャンか」とか「クリスチャンのくせに」とか行動や言葉に対する非難として向けられることが、まだあるとすれば、そのように言うような人たちにとっては、どこかで聞いた山上の説教の有名なエピソードなどが基準なのでしょう。たとえば、有名な「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」。戦時中に牧師の子どもであることでスパイの子であるとされ、殴られることがよくあったという新約学者の荒井献は、実際この言葉と同じように振る舞ったと証言しています。キリスト教徒のイメージは、教会の内でも外でも大差なかったのかもしれません。しかし、現代において、教会に集まって聖書と対話する中で、もっと別なイメージのキリスト教もアリだよね、と考えられる自由さは失いたくないと思います。

 山上の説教は、かつてのカトリックの理解では司祭や修道士など特定の人にしか当てはまらないのだという解釈もあったくらいですから、そのまま言葉の上辺だけを読むと、無理難題が掲げられていることは否定できません。しかし、現代へと意味を受け止め直していくと、もっと建設的で実際的な生き方の捉え返し、考え直し、さらには生きるすべや知恵が与えられることを期待しながら、お話をしていきたいと思います。

 山上の説教の521節から48節では、旧約の律法で語られている教えに対して「しかし」と、主イエスは「わたしはこのように考える」と主体的なものの言い方をしています。イエスのこれらの言葉は、当時の社会的な状況を踏まえながら読む必要があります。たとえば「悪人に手向かってはならない」という言葉ですが、もし主イエスが「悪人に手向かってはならない」ということを順説として文字通り語り、生き抜いたのであれば、十字架に磔られることはなかったでしょう。順説として生きたなら人畜無害な人間ですから相手にしなければいいだけの話です。律法に対する忠誠心を単純に徹底して見せただけのことです。しかし今日聖書を読む時には、その背後までを射程に入れながらでないと読みを間違えるのです。注意深さが求められているのです。そこで、「悪人に手向かってはならない」という言葉をイエスが語った時にどういう方向を指し示しているのかということを今日は確認したいと思います。
 前提となっているのは、旧約の律法の「目には目を、歯には歯を」です。この言葉は、旧約以前のハムラビ法典にもあります。紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハムラビという王が制定した法律です。同様の法律は、古代オリエントにおいては珍しくありませんでした。これは、翻訳の言葉がキチンと統一されていませんが、いわゆる「同害報復法」と言われるものです。同じ害に対して同じ償いをさせるという発想です。これは旧約にはいくつかあります。

出エジプト21:2425

「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。

レビ記24:20

骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。

申命記19:21

あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。

 このようにあります。探せば他にも出てきます。「同害報復法」というのは、元々は当時としては「良心的」であり「人道的」であったはずです。悲しいことに人間は往々にして、たとえば目をやられたら、それ以上の害を返してしまうからです。しばらく前のテレビドラマで「倍返し」なんて言葉が流行ったのも、そうです。人間が報復、復讐、仕返しをしようと思ったら、倍返しでは済まないのです。それを何とか人間の共同体、その社会のあり方の中で比較的穏やかに事を済ませようとする中で編み出されたのが、いわゆる「同害報復法」なのです。目なら目だけを、歯なら歯だけを、という、それを過ぎてはならないという規定です。ですから元々は「良心的」な法律、お約束であったわけです。そのような、やられた分だけやり返すという物語によって人間の共同性を保ちましょうという発想、それが当時のユダヤ教社会の中で「常識」とされていたのです。のちの時代になると「目には目を、歯には歯を」という発想が実際の目とか歯ではなくてお金になります。損害賠償であるとか弁償という仕方で解決しましょう、となっていきます。

 しかし、それでいいのか、という指摘が三つ挙げられています。一つ目は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。これはいわゆる「非暴力」の運動の中では力のある影響力を持ってきた聖句ではありますが、文芸評論家の吉本隆明は、ここには「底意地の悪さがある」と読みました。大抵の人は右利きですから、普通に平手打ちをすると左の頬に当たります。右利きの人が手の甲で打つと右の頬を打てます。手の甲で打つことは、嘲り、罵り、侮蔑とか軽蔑の所作となります。その背後には、おそらく手のひらで触るのも汚らわしい、触りたくないという感情があるのでしょう。ですから、右を受けたら左も向けてやれ、というのは、侮辱するならこちらも打てよ、という態度です。侮蔑されて右の頬を打たれたときに左の頬を差し出すとき、そこに見えてくるのは、従順さというよりはむしろ挑発ではないでしょうか。

 二つ目は「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。これは、裁判が前提になっています。ここで言われている上着とか下着というのは、わたしたちの感覚と違い、普段着のことです。浴衣みたいに来て帯で縛る感じのものだったようです。上着というのは、オーバーとかコートとか毛布とか寝袋とかを兼ねるようなものを想像してください。要するに、庶民はフカフカのベッドで寝る習慣がなかったので、その上着に包まって寝るのでした。これは律法によれば

出エジプト22:2526

「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」

申命記24:1213

「もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。」

 寒さに凍えて、その人の命とか健康を損ねるようなことに関して律法は規定していることをマタイは前提にしています。庶民でも下着は2枚とか3枚持っていたかもしれませんが、それを質草にしていたのか分かりませんが、ともかく裁判にされたのでしょう。そして差し押さえられてしまう状況になったら、自分の大切な寒さから守り安らかな眠りに必要な上着も差し出してやれ、という発想です。ここにも没収されることを超越する、却って寄付してやろうか、というほどの挑発的な発想があります。

 三つ目は「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」これも権力との関係が関わってきます。さあ一緒に散歩しましょう、などではないのです。1ミリオンは計算方法にもよりますが、1,5キロメートル前後です。「強いる」というのは、当時駐留していたローマ軍が荷物持ちを強制する場面に相当します。イエスが十字架の横木を担ぎきれなかった時に通りすがりの男に担がせたのと同じように、強いる権力が、そこにいる人を捕まえて、担いでいけと命じる場面が前提とされているのです。そこで断ったら何をされるか分からないのです。1ミリオン行けと強制されたら2ミリオン行け、そういう話です。強制を無化する主体的なあり方の提案です。

 これらは、一般的に捉えられているような善意や受容、懐の広さの推奨ではありません。ここで言われている三つの事柄「右の頬を打たれたら‥」「訴えて下着を‥」「1ミリオン‥」ここには強い者と弱い者、強いる者と強いられる者というように権力関係が反映されています。それに対して庶民の知恵として、イエスは挑発的なしかしいのちの危険性が比較的少ないような抵抗を提案したと思われます。さらに言えば、ここにはささやかなユーモアによる抵抗とか反逆とかがあるようにも思えます。自己の尊厳を取り戻しつつ、にです

 「やられてもやり返さない」という方法ももちろんありますが、一度限りならともかく、日常の中では、余程の聖人君子でもない限り、それでは自分の心を殺していくことになってしまいます。やられたら、そのまま返す、報復するというだけでは事柄に何か新しいものが生まれてくる可能性は比較的少ないのではないでしょうか。いわゆる、「憎しみの連鎖」が永遠に続いてしまう可能性が大きいでしょう。「同害報復法」もまた、その場では一応の落着はなされるかもしれないけれども、強いられる者たちの鬱屈とか強いられた者たちの自尊心の傷つけられ方とかが、そのまま置き去りにされてしまう可能性があるのです。そうではなくて、もっと見方を変える、ものの考え方を変える、もう少し違う角度から物事を見つめることができて、しかも権力に対して抗う思想を作り出していく、そういうユーモアの幅が生まれてくる可能性が、この三つの提示にはあるのです。

 山上の説教が語られた場面とは、理不尽な状況が日常である社会です。直接、権力や力あるものに対して逆らってみたところで下手したら殺されてしまうかもしれない修羅場に庶民は生きていることを忘れてはなりません。そこで、理不尽な社会の日常生活の中で何とか生き抜く知恵を、主イエスが提案していると読むことができるはずなのです。これは長いものに巻かれろ、という権力に迎合していくあり方とは全く違います。別の物語や可能性が、理不尽な中にあっても開かれてくるという希望でさえあります。新し関係を作り上げていく積極的な生き方でもあります。

 この点について、子どもたちの生きにくい時代を乗り切る知恵を提案しているのが、アメリカのカニグズバーグという作家です。子どもたちをテーマにした作品を数多く書いています。これについて清水真砂子が適切な記述をしています。小見出しでは「『物語』をこわす物語」という部分です(『幸福の書き方』56ページから58ページ) 

 学校や社会が既成の物語を強化する傾向を踏まえて次のように言います。

 【さて、「物語」をこわす物語ということを言ってきましたが、そういう作品としてたとえば私は、カニグズバーグの作品を思い浮かべます。彼女の最初の作品は、『魔女ジェニファーとわたし』(岩波書店)ですが、彼女はのっけからみごとな「物語」こわしをやっている。こんな場面があります。「わたし」はある日友だちに意地悪されます。ところが学校の帰り、自分のアパートのエレベーターに乗ったら、その友だちも同じアパートだものですから一緒になってしまった。さあ、意地悪されたその子は仕返しがしたい。

 私が子どもの時から読んできた作品では、こういう時、ほとんどが「仕返ししてはいけない」と言っていたように思います。学校の先生も、親もしばしばそう言ってしまう。しかしカニグズバーグは、「いじめられたら仕返ししたくなるのはあたり前でしょ」と言う。実際はそんな言葉では書いてありませんけどね。「ただし、仕返しするならこんなふうにしたらどう?」と、仕返しの仕方が書いてある。意地悪した子は「わたし」より上の階に住んでいるのです。そこで「わたし」は、ドアが開いてエレベーターを降りる瞬間さっと全部のボタンを押すんです。そして、止まらなくてもいい階に全部止まっていくのを見て、ニヤッと笑って自分の家に帰る。】

 こういう物語をかつて読んでいたら、もっと楽に生きられたのにと清水は感想を続けます。仕返しをしない「いい子」を演じることを相対化する視点が与えられるのです。

 イエスの言葉と行為は、清水真砂子の言葉を借りれば、物語をこわす物語の提示だったと思います。昔の人に言われている物語があって、それをこわすことによって見方を変える、物事の発想とか判断の基準の位置をずらすことによって、見えてくる世界が変わってくるということです。確かに庶民は、権力あるもの、あるいは軍隊から日ごとに抑圧されています。その中で主イエスは、「同害報復」という物語を壊し、ユーモアと知恵を絞って権力とか悪に対峙する物語へのヒントを与えているのです。

 単調な毎日を過ごしている中で、もう一度生き直していくための希望の欠片みたいなものが、そこには現れてくるのではないでしょうか。色々な場面で上からの権力の力によって嫌がらせとか物理的な暴力を含むものがあるかもしれない。人間関係の中で強い者からの何かしらの力を受けるときに「悪人に手向かってはならない」というのは、相手のなすがままにさせておくことではありません。そこでユーモアとかウィットとか、そんなものを忘れないで、色々なことのできる可能性のあることを覚え、よく考えていきながら応答していく、それがイエスの語っているところの「悪人に手向かってはならない」という意味合いと方向性なのではないでしょうか。イエスは日ごとに苦しめられている人たちの中で、こういう風に生きてみたらもっと楽しい、こういう風に生きてみたらもっと面白い、こういう風に生きてみたらもっと豊かなあり方ができる、そんなことを絶えず呼びかけていたのだろうと思います。それはまた、キリスト教徒はしばしば「お人好し」と見做されるかもしれないけれど、もう少ししなやかでしたたかに生きてごらんよ、というわたしたちへの呼びかけでもあります。

 今日の説教題は、「庶民の知恵に生きる」としました。決して難しいことではありません。ちょっとした知恵を庶民のレベルで考えればいいのです。そのために必要なのは、心のしなやかさとか庶民の生活感覚とか、マスコミの余計な情報に踊らされず物事を冷静に判断することなどです。自分を見失わなければ大丈夫なのです。時には失敗することもあるでしょう。大切なのは、その場にあっての「QOL」「生活の質」「人生の質」です。生きていることの面白味を、日常の苦難や悲しみを抱えつつも実現することは可能だということです。今を主イエス・キリストによって支えられ、守られているなら、その場にあって必要な庶民の知恵がすでに備えられている信頼さえあれば、きっと大丈夫なのです。この大丈夫な感じを恵みとして受けつつ、歩んでいけばいいのです。

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