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2020年5月 2日 (土)

詩編23編 1~4節 「羊飼いの配慮のもとで」

 ヨハネによる福音書1011節以下によれば、主イエス・キリストは羊飼いであると言われています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」。この、イエス・キリストが羊飼いとして、教会に連なる一人ひとりを羊として守り導き、育ててくださるのだというのです。

 この発言の背景には、イスラエルの歴史の中での、また生活感の中での身近さがあります。古代イスラエルで成立したユダヤ教は、元々砂漠の宗教です。出エジプトからカナン侵略の過程で、牧畜生活から農耕生活に生活スタイルの重点が徐々に移り変わっていきますが、牧畜民としてのDNAみたいなものは引き継がれていくのです。確かに、イエスの時代の頃にはすでに、ルカ福音書などによれば羊飼いは社会から疎外され軽蔑され差別されていたことが分かりますし、裁判の証人になれないほど信用されなくなっていたようです。

 しかし、ユダヤ教からキリスト教の歴史の流れの理解の中で、神が羊飼いであり民が羊であるという喩えは一般的に受け入れられていたと考えられます。そこで、まず今日の詩編23編を読むことから、まことの羊飼いである主イエスのイメージの捉えかえしの試みをしたいと思います。

 わたしたちは、聖書に限らず読書する場合に、書かれていることを自分の生活感や価値観とか経験値に基づいて理解しがちです。異質な世界観を、自分の理解の枠に追い込めようとするわけです。しかし、それでは十分ではありません。その書かれた時代的意味や背景を少し突き放しながら想像しながらでないとテキストに近づけなくなるように思われるのです。

 今日の詩編23編を一読してみて思い浮かべられる景色とはどのようなものでしょうか。一般的な日本における感覚だと豊かな初夏の牧歌的な景色を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、たとえば、詩編121編の都に上る歌の冒頭の言葉。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」とあります。ここで言われているのは、鎌倉とか丹沢などの豊かな緑に覆われた山ではなく、緑少なく岩場の多い険しい山です。詩編の謳う「山」のイメージがまず岩山だとすれば、23編に描かれている景色を想像すると、そこには砂漠とまでは言えないとしても、少なくとも荒れ野が広がっているはずなのです。

 そのような環境にあって、羊飼いは羊を引き連れていくのです。荒れ野の広がる中、羊飼いの馴染のポイントであったのか、あるいはオアシスであったのか、ともかく水辺から水辺へと羊の群れを引き連れて行きます。そこには餌となる草が生えているからです。その道中も決して楽なものではなかったことでしょう。緑を求めて山から山へと越えていく、道すがら、時には危険な「死の陰の谷」が横たわる尾根伝いの道であることも容易に想像できます。

 羊は知能が高く穏やかで従順で臆病だといわれています。そうかもしれませんが、実際に羊を飼育した人から聞いた話ではそれだけではないようです。警戒心が強く、悪知恵が働き、ずるがしこくて我儘だというのです。羊の小屋に入れておいても、如何に逃げ出すかの工夫をして隙間を見つけて土を掘ってみたりするそうです。はぐれてしまったり、怪我をしたりすることもあるでしょう。ですから、羊飼いにとって羊とは、なかなか手ごわい存在であり、気を緩めることができず緊張と集中が強いられる仕事であったと考えられます。西洋語では通常、名詞は、一つを表わす単数形と二つ以上を表わす複数形があります。たとえば、犬ならDogDogsと。しかし、羊の場合は単数形も複数形も同じSheepです。つまり、群れをもってこそだということです。空を流れる雲のように塊として動いているイメージでしょうか。

 そのような羊飼いは、多くの場合独身男性の仕事で、暮らしぶりは羊を引き連れての毎日がキャンプのような感じだったと思います。生活道具一式の中に、仕事道具もありました。その中に鞭と杖があります。一般的な解釈では、打ちつけることで躾けたりする目的だと考えられると思います。確かに鞭は、旧約での使われ方を見ると、神からの刑罰や試練とか権力からの罰や敵からの暴力について用いられることの多い言葉です。しかし、詩編23編の場合、杖とセットになることで意味合いが違ってくると考えます。杖は、武器にもなりますが旅などの道具でもあります。長い杖は迷い出る羊を群れに戻すときにも重宝したでしょう。羊飼いにとって鞭と杖は、羊に対して暴力的に使われるのではなくて、むしろ襲い来る猛獣や強盗などに対して向けられる防衛的なものです。つまり、羊を守るための道具なのです。

 さらに言えば、この杖のイメージは出エジプトから理解すれば、より分かりやすくなります。神が羊飼いであるイメージから転じて、神に委託された指導者に適用されるのです。後のダビデもそうですが、羊飼いには「指導者」や「王」の意味が与えられてきます。羊飼いをしていた時のモーセの杖は、出エジプトにおいては民という羊を40年間導く杖に意味が変わるのです。そう言えば、羊としての民イスラエルは、先ほどの友人から聞いた羊と似ています。奴隷の民から解放されたのに不平不満を言いつのります。いくつか引用すると、出エジプト記163節「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」と食べ物に対する不満が起こり、これに対して天からマナが与えられます。17章では、飲み水がない時「我々に飲み水を与えよ」と民は不平を述べます「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と。そこで神の指示のもとモーセが杖で岩を打つと水が流れ出たとあります。

 このように見てきた上で、詩編23編を読み返してみると、情景が明確になってきます。詩人は、神こそが羊飼いであると身をもって知っているがゆえに「わたしには何も欠けることがない」と告白できました。ですから、「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。」ことを感謝できるのです。ここは、何事も起こらない平穏無事な場なのではありません。「死の陰の谷」と隣り合わせの情況のただ中においての告白と感謝なのです。だからこそ、応答は「わたしは災いを恐れない」のです。これらの根拠は、守りとして「あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける」からこその「あなたがわたしと共にいてくださる」ところにあります。

 この詩編23のイメージを踏まえて、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」を解釈することができます。十字架と復活の主イエスに立ち返る時に、わたしたちの心に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14)という事実が、主イエスが共にいてくださることとして確認されるからです。わたしたちの今という状況は「死の陰の谷」と決して無縁ではありません。さらに言えば、出エジプト記において不平不満を述べたイスラエルの民を他人事だとも言えません。羊の我儘さから全く自由にされているわけではないからです(悪い意味での「自由意思」があるので‥)。

 現代社会においてわたしたちは、落ち着きや冷静さを失いつつあるようです。情報の量が多過ぎて判断する能力が低下していたり、感覚が鈍くなったり、あるいは確からしく見えるけれども不適切な言説や報道などに惑わされがちだからです。また、無感動、あるいは逆に過剰な反応に陥ってはいないでしょうか。自分の意見や考えなのか、それともテレビ等で誰かが言っていたことを自分の考えと勘違いしてしまっているのか……。そして、スケープゴートを見つけては、寄ってたかって叩くことを「正義」と勘違いする。見事なまでに「群れ化」してしまう。冷静な判断のもと自分の考えと向き合うことのできない状態にあるのではないでしょうか。

 このような困難な状況の中で、羊飼いである主イエスが共にいてくださることへの信頼に生きる群れとして、また一人のキリスト者として、地に足をつけて歩むことができように祈りましょう。復活の主イエス・キリストは、わたしたちが迷い惑う時、羊飼いとして、その鞭と杖によって正しい道へと導いてくださるのです。わたしたちに必要なのは、まず、雑多な音の中で羊飼いの声を聴き分けることです。主イエス・キリストのみが、まことの羊飼いとしての主イエスの配慮に委ね、鞭と杖をもって導き、共にいてくださることへの信頼に歩んでいきましょう。

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