マルコによる福音書 4章20節 「たとえ話がリアルな出来事へと」
33節には「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」とあるので、折に触れて庶民の生活感に接近することで、今生かされてあるいのちの現実を無条件・全面的に肯定しただろうと思われます。ただし、マルコによる福音書の4章1~34節の、たとえのまとまりの中では、主イエスの語りと弟子たちの理解の現実との間にズレがあり、福音書記者は苦労しながら調整しているように読めてくるのです。
1~2節では、まず場面設定がなされています。3~9節、21~25節、26~29節、30~32節、これらは別々の伝承だったものをマルコが並べたものであろうという説に、わたしは賛同します。実際の歴史上の主イエスに近いところの発言は、彼の基本的な中心にある楽観主義に基づいてなされたのでしょう。特に3~9節について概略を見ておきたいと思います。種を植えるのではなくて、文字通り振り撒いて、放ったらかしにしておいても勝手に育って実を結ぶのだというのです。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった、別の種は石だらけで土の少ないところに落ち、すぐ芽を出したが日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまった、別の種は茨の中に落ちた、茨が伸びて覆い塞いだので実を結ばなかった、とあります。この物語は蒔かれた種が実を結ぶのは困難であるという印象が強いかもしれません。しかし、それは13~20節の解説から読み込んでしまうからです。そうではなくて、道端に落ちた種、石だらけで岩盤の上の薄地に落ちた種、茨の中に落ちてしまった種、これらは単数形で書かれていますから、種蒔く人が蒔いたすべての種の内で結局実らなかったのは3粒だけなのです。3粒だけが例外としてダメになったということで、放っておいてもほとんどの種はそれぞれが1粒のままで、すでに30,60,100の豊かな実りの約束があるし、その約束のもとで現実が祝福されてしまっているという、主イエスの楽観性というものが表れさているのです。わたしの感覚で訳せば「1すなわち30、1すなわち60、1すなわち100」です。
しかし、主イエスの12人の弟子たちや、もう少し広い範囲の人たち、さらには時間を経て福音書をまとめたマルコ福音書の教会の現実に至る時間軸の中で、主イエスの楽観性に対する無理解であるとか、ついていけない感覚をもつ中で、何かしらの合理化を行う必要に駆られたのが、34節の「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」であり、10~12節の「たとえの機能論」、解釈につながっていくのではないかと考えます。
しかし実際1~34節を通して読む時、それではいったい主イエスのたとえは分からせるためなのか分からなくさせるものなのかが混乱してくるのです。この点を整理する必要があります。おそらく3~9節の種蒔きのたとえそのものは伝承として知られてはいたのでしょうが、マルコの教会にとって自分たちの生活に共鳴しない。だから、何らかの合理化が必要とされたのでしょう。それが13~20節の解釈として表明されているのでしょう。その現実が14~19節で述べられるのです。【種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。】と。いわば、伝道の停滞・教勢低下など、教会の働きである種蒔きとしての「伝道」の成果が起こらず、むしろ悪化の一途を辿っているとしか思われない現実があるということなのでしょう。
実際には、13章を読むともっと激しい現実に直面していたと考えられます。【あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。】(13:9)や【兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。】(13:12-13a)状況が身近であるということ。そのような状況にあるからこそ、語れば語るほど分かってもらえないけれども、分ってもらえる時がくるのではないかという期待も同時に持っていたのではないでしょうか。すなわち、【イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」】(4:10-12)。マルコ福音書の教会を巡って「あなたがた」である内側と「外の人々」という外側を区別しているのですが、マルコ福音書はここにある内と外との関係を実線ないしは壁としてではなくて、むしろ点線や立て付けの悪い隙間風が入ってくるような窓みたいなものとして相対化を願っているようにも読めてきます。
確かに、マルコ福音書の現実は厳しいはずです。この点を見極めつつも「だからこそ」主イエスにある立脚点を明確にしたいと願っていたのではないかと思うのです。「伝道不振」「教勢低下」「この世からの無関心」など、教会がこの世との軋轢をも含めた危機的な状況を打開したかったのでしょう。豊かな実りを妨げる状況に対して「伝道」という掛け声を大きくしたり、「方策」とか「理論」で解決策を立てることも必要なのかもしれません。しかし、その主張が強化されたり、目的化されてしまうことに、時に教会は堕落することをマルコ福音書の著者は知っていたのではないでしょうか。シンプルな主イエスの言葉である3~9節を解釈するための13~20節の説明の言葉は、いわばマルコ福音書の教会の現状の合理化として読むことができます。しかし、重要なのは単純に主イエスがそうであったように、楽観性を取り戻し、たとえの物語を追体験するところから、マルコ福音書の残念な現実を見極めることが大切ではないでしょうか。キリスト者は、あらゆる現実の厳しさに対処する道があると知らされた人々であり、その集いであると、わたしは信じています。そこで、13~20節で展開されるマルコ福音書の苦闘をマイナスではなくてプラスの意味に読み、解釈することが相応しいのではないかと思うのです。そしてそれは、どのような態度をもって行われていくのかと読みつつ、パウロの伝道のあり方を思い起こしました。
パウロのアテネでの困難を思います。使徒言行録17章16節以降の記事です。ギリシャ哲学の末裔たちの街で伝道しますが、結果は失敗に終わります。伝道説教は最後までまともに聞かれませんでした。【死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。】(使徒17:32)とあるとおりです。そこでアテネからコリントに行ったと18章にはあります。それこそ這う這うの体でした。コリントではアキラとプリスキラという同労者が与えられ、教会が設立されていきます(このあたりの事情については別の話)。コリントに辿り着いたパウロの状況は、コリントの信徒への手紙一2章1~5節にあります。【兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。】、この1節の「わたしも」を「わたしもまた」とすべきだと青野太潮は強く主張します(この箇書に関しては田川建三も同様に訳しています)。すなわち、ここでやっとの思いでアテネからコリントに辿り着いたパウロには、主イエスが同行者として存在したという含みがあるということです。「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」という事実に支えられていたというパウロの証しであり、実体験でもあります。
共にいてくださる主イエスゆえの喜びと感謝に支えられた楽観性をパウロも共鳴として知っていたとしか考えられません。喜びと感謝なしに苦難を乗り越える道があるでしょうか。パウロにはまた次の言葉もあります。【あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。】(Ⅰコリント10:13)。このようにパウロは述べています。主イエスの楽天性に倣うような態度を支えにしつつ苦難に対処するパウロ像が立ち現れてくるのです。
わたしはマルコ福音書は、パウロに対して批判的でありながら、同時にパウロの神学の継承者であると仮定しています。このような視点からからマルコ福音書を読み込でいくことが可能だと考えています。その上で13~20節を読み解いてみたいのです。「それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」「御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」、このような現実は、信仰を含めた「わたしの日常」から無縁であると誰が胸を張って言うことができるでしょうか。この警告は、他者に対してではなく自らに向かっているものとして受け止めるべきなのです。マルコ福音書の教会と同様、わたしたちの世界の現実でもあるからです。ここを忘れてはいけない。しかし、あくまでも中心は、「30倍、60倍、100倍」に実る種の現実感です。ミレーやゴッホの有名な「種蒔く人」の絵のように、主イエスが大地に向かって大きく手を振り広げ、種を飛ばす。そして、それはきっと鼻歌を歌うか口笛を吹きながらだったのではないかと思うのです。底の抜けた楽観的な主イエスであるから。大きく育てよと声をかけ、強く育っていくだろうと信頼し、祝福の祈りを込めて楽し気に、慈しんで種を蒔く。
このような意味において、わたしたちのいのちの源である主イエス・キリストは生きており、働いておられます。そして、わたしたちの実りの確かさを信じて種を蒔き続けているのです。わたしたちの状況がどのようであるかに関わりなく‥‥。このことへの気づきをもたらす信仰が、わたしたちに向けられているのです。だからわたしたちは、安心して、それぞれ与えられている業に励んでいけばいいのです。楽しげに種を蒔く主イエスの姿を心に思い描きつつ、歩んでいきましょう。この歩みの中で、実りをもたらさないとされる土地さえも、主イエスの信頼によって蒔かれているがゆえに「良きもの」へと変えられる可能性があると信じてもいいのではないでしょうか。実りが約束されているからこそ、良き畑へと自らを楽しみながら耕していくことができる。楽天的な全能者の赦しの力を信じるとは、このような方向にも向かうのではないでしょうか。実りの豊かな約束の射程は広い、このように信じながら、ご一緒に祈りましょう。
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