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2020年5月10日 (日)

ルカによる福音書 8章22~25節 「イエスはそこにいるのだから」

 ある日、主イエスは「湖の向こう岸に渡ろう」と弟子たちと舟に乗り込みました。「向こう岸」には、後に続く26節からの文脈では「悪霊に取りつかれたゲラサの人」がいたので、おそらく会いに行ったのだと思われます。40節の物語でも二人の女性の癒しの物語が続いています。この「湖の向こう岸に渡ろう」という言葉には、出会いを求めて、しかも癒しの業を行うという目的意識を念頭にした方向が示されていると読むことができます。つまり、病という困難情況から人を自由にすることで生き生きとしたいのちの質を向上させ、今生きていることへの喜びを取り戻すことが目的とされていたのでしょう。

 今日の聖書は、その途上でのエピソードとなります。その主イエスの意志を理解できなかった弟子たちの無理解の姿を描くことで、読み手に反面教師としての姿を見せようとしているのではないしょうか。

 舟を漕ぎ出したのは良かったのですが、主イエスはぐっすりと寝てしまったとあります。そこに急に激しい突風が起こり、水をかぶってしまい、このままでは船が沈んでしまう危険にさらさされると弟子たちは恐怖を覚えたのでしょう。ガリラヤ湖の突風は珍しいことではなかったようです。周りは山に囲まれており、天気の加減で冷たい風が流れ込んでくることもあったようなのです。弟子たちの何人もがガリラヤ湖の漁師でしたから、この現象について知らなかったはずがありません。突風に対処する術を知らなかったとは考えにくいのです。それなのに何故、彼らはおののいてしまったのでしょうか。主イエスが一緒にいることから油断していたのでしょうか、慌てて主イエスを起こして「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めます。この、弟子たちの姿。自分たちはプロの漁師であるとのプライドを捨てています。主イエスがいるのだからと、自分たちの信仰に安住することで理由のない自信や安心感にすでに溺れてしまっていたのかもしれません。主イエスの存在に信頼つつも、寝ていることで、その働きが無効にされているという不信感であったのかもしれません。

 主イエスは寝ています。突風により水をかぶり舟が沈むような状況に襲われたとしても、です。ここに主イエスの楽天的な信の態度を読み取ることができます。しばしば、わたしたちは何か不安なことや悩み、悲しさに陥ると眠れなくなることがあります。眠ることができるとは、安心感の中で神の守りに全的信頼を寄せることができているということです。突風が起こることもあるだろう、ガリラヤ湖の自然なのだから。しかし、眠ることができる。この態度をテキストから信仰と読むことができるのではないでしょうか。困難な時にでも眠れる力。弟子たちに信があれば主イエスと一緒に寝ていることができた、わたしはそう思います。しかし、弟子たちはその無理解と不信仰のゆえに主イエスを起こしたのです。すると主イエスは起き上がって風と荒波を叱りつけ、嵐は静まって凪になったのです。主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問いかけ、弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言い合った。こういう物語です。

 このテキストは、ただ単に自然の脅威に対して主イエスが絶対的な力をもっている素晴らしい能力者だということではありません。突風によって水をかぶり沈みかける舟の中で安心して眠る主イエスと、慌てふためく弟子たちの対比によって、信仰とは何かを弟子たちを反面教師として読者に悟らせようという意図を読み取ることができます。

 困難な状況に対して、眠ることで示される信なのか慌てふためく不信なのかを、神に委ねて生きるあり方を問うているのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」という弟子たちの言葉は、自然奇跡を行った主イエスに対する感嘆と偉大な奇跡行為者への驚きという風に捉えてしまうと、万能者である主イエスの像しか与えられません。そうではないのです。もちろん奇跡行為者である主イエスの力を否定するわけではありません。重要なのは、反面教師としての弟子たちの姿であり、これは、現代の弟子である教会に対する、自らの信仰に安住してはいないか、自らの信仰に対する自己検証である神学することを怠ってはいないか、という警告の物語なのです。

 確かに、わたしたちは主イエスをキリストと信じ、告白し、教会につながっています。主イエスが一緒にいてくださることを疑いもしていないでしょう。しかしそれはどこまで本当で真摯なものか、というところまでテキストは問いかけているのです。主イエスが一緒にいてくださるはずなのに、何故課題や苦しみから自由になれないのか、と。次から次へと解決困難な問題が起こってくる中、眠っておられる主イエスに対し、働いていないキリストなのではないかと不信に揺れていないかと。

 しかし、主イエスが眠っておられるのは、そこに全的な信があるからに他ならないのです。本当に困難な状況なのかを見極める必要があるということです。

 それでも、「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めたことに対して「風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」のですから「めでたし、めでたし」なのでしょう、きっと。しかし、忘れてはならないのは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という問いに対して「「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と感嘆をもって答えるだけでは充分ではないということです。「この方はどなたなのだろう」という疑問に対して、神学していく義務がキリスト者にあるという自覚が大切なのではないでしょうか。

 主イエスが共にいてくださることを根拠にしつつ、主イエスと一緒に歩む道に、わたしたちはすでに招かれてしまっているのです。8章26節以下では奇跡物語が続きます。最初に述べたように、出会い、苦しんでいる人の生き直しを支えるために、「向こう岸」に行くのです。9章1節からは弟子たちの派遣の記事へとさらに続きます。弟子たちは、主イエスの命じる伝道に導かれていくのです。ルカによる福音書に描かれる弟子たちの姿は過去の事柄に留まりません。今の、そしてこれからのわたしたちの姿でもあるのです。主イエスに促され、支えが必要な人と出会い、その隣人となっていく時に、その根拠となるのは、嵐の中、主イエスが共にいてくださる安心です。ただし、そこで油断しないように気を付けなければなりません。嵐の湖で眠る主イエスに動揺せず、信頼することができるか。常に「この方はどなたなのだろう」との問いを生きるものとして整えられ、主イエスに相応しく歩むことができるように祈りましょう。

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