創世記1章3節 「根源としての光」
創世記1:1-2:4aは、いわゆる「天地創造神話」となっています。この記事が史実であると信じなければならないという立場を、少なくともわたしは取りません。しかし、神による「天地創造」自体を否定するわけではありません。「天」と呼ばれる人間の理解を超えた世界も「地」と呼ばれるわたしたちの暮らす世界のいずれも、神による被造物であることは信じています。というか、むしろ「天地創造」の物語それ自体を信じるよりも、創造者である神を信じることの方が大切なのだという立場です。すなわち、「天」であれ「地」であれ被造物なのであり、その限界が置かれているのだということです。とりわけ、「地」にあるわたしたちはとことん被造物であることに対して謙虚であるべきだと考えます。この謙虚さを維持することは、傲慢な人間にとってなかなか難しいことだと言えます。続く物語では、アダムとエバが禁断の実を食べてしまう動機が、蛇の言葉に表されています。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(1:3b‐5)とあり、「神のように」なりたいという願望から自由ではないのです。また、11章の初めの「バベルの塔」建設の動機も「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(11:4)とあるように「天まで届く」力の誇示としての傲慢さがあるのです。
この「天地創造神話」は、常識的な人からすれば荒唐無稽で笑い飛ばすほどの物語であるかもしれません。また、古代人もどこまで本気で信じていたのかも分かりません。しかし、「神話」という形式でなければ伝えられない「本当の本当」があるのではないかと思うのです。人間は、確かに知的でありますが、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)と命じられたことにおいて他の被造物に対して何をしてもいいのだという「支配」の権威が与えられているのでしょうか。否、あくまで人間もまた被造物であるのですから、他の被造物を侵さずに、保護し、共存する仕方で「仕える」謙虚さが求められているのではないでしょうか。
さて、神は六日間で世界を創造し、七日目に休まれた、とあります。神は、神として自己完結することも可能であり、「天地創造」をしない自由ももちろんあったわけです。しかし、神は創造された。ただ、恵みの業として行われたのです。そしてすべてをご覧になって「良し」とされました。この究極の肯定、大いなる恵みから、世界は始まっているのです。
神の第一声は、「光あれ」という言葉でした。この天地創造の光とは何だったのでしょうか。第4日目には次のようにあります。【神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。】(1:14-19)。ここでは、太陽や月や星が創造されています。そうすると、3節で「光あれ」との言葉で呼びかけることによってたらされた「光」とは何を指しているのでしょうか。岩波版の創世記を月本昭男が訳していますが、註で「光は生命と秩序と救いの根源の象徴」とあります。すなわち、神の意志の表れとしての生命の基本、秩序の基本だというのでしょう。いわば、最初に創造されたのは不可視的な「根源としての光」だというのです。
何故、創世記は「根源としての光」を「天地創造物語」で最初に描かなくてはならなかったのでしょうか。この背景には、「バビロン捕囚」というイスラエルの歴史における困難な事態があります。そこでまず、大雑把にイスラエル王国について説明しておきます。紀元前1000年ごろにイスラエル統一王国がダビデ・ソロモンによって繁栄します。しかしソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国に分裂します。その後、北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民族混交政策が取られます。残った南王国ユダは新バビロニア帝国により紀元前587年に滅ぼされ、上流階級の人や祭司、また腕の立つ職人などはバビロンに連行されました。国の再建をさせないためにです。古代における戦争は国と国との戦いだけではなく、それぞれ背後にいる神の闘いでもあるわけです。すなわち、国の滅亡とは、自分たちの神の敗北なのです。したがって、バビロン捕囚は自分たちの神が負けたゆえの出来事であるとさえ言えるのです。その嘆きは次のようでした。【バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。】(詩37:1-4)。
当初は祖国復帰を願っていたのでしょうが、この事態が60年続く中で世代交代されつつ、バビロニアに同化していく向きもあったようです。しかし、この困難な状況の中でイスラエルの民族性・宗教性を保持し、整え、純化していく運動もありました。その人々が、この「天地」は神による創造だとの信仰、つまりあらゆる事象は被造物であるという認識に至るようになりました。バビロン捕囚のただ中、その闇の時代の中にあって、神の敗北は自分たちの罪のゆえであると自覚したのです。そして「根源としての光」を再認識し、歌い上げたのが「天地創造物語」の「光あれ」という言葉の出来事だったのです。
キリスト教会は、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、先在のキリストとして再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:1-5a)。
この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」である世界は混沌として絶望に満ち、希望のかけらさえ完全に失われているように見えるかもしれない。しかし、それでもこの世界は神の言葉の呼び出しによって創られたのだから神の想いに立ち返れ、との促しがあるのです。その立ち返りを促す言葉が、「光あれ」なのだと。この世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。
「光あれ」という言葉のもたらす現実をパウロは語ります。【こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。…‥】(Ⅱコリント4:1以下)。
このパウロの指摘する現実を、わたしたちの時代においても十字架のイエス・キリストの力として受けとめることができるのではないでしょうか。
現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。なぜなら、今日もイエス・キリストは揺らぐことなく働き続けておられるからです。「光あれ」という言葉の成就であるイエス・キリストによって包まれており、「土の器」としての限界と責任性をもって歩むことが赦されているのです。根源としての光の前で、わたしたちは被造物である事実に対する謙虚さを学び直すときなのではないでしょうか。人が万能感に酔いしれて来た近代から現代に至る歴史を冷静に省みることはできないものでしょうか。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)、この言葉における「支配」を人間は誤解してきたのではないでしょうか。人間は、他の被造物に対して全能でも万能でもないのです。これは核や遺伝子をいじることへの警告に留まりません。アダムとエバが誘惑に陥った事態、またバベルの塔の建設への欲望は、終わってしまった過去などではないのです。今というこの時の課題です。被造物としての自覚をもちつつ、「光あれ」という大いなる神の恵みを生きていくこと、それがわたしたちに示された道ではないでしょうか。人間は、あくまで被造物であることを直視することから絶えず謙虚さに引戻されなければ、道を踏み外してしまうのです。
主イエス・キリストは「光あれ」が人となった姿そのものです。その方から示される、まことに立ち返ることを願い、また祈ります。そして、主イエス・キリストが先在であり光であるという理解から、わたしたちは被造物であるという限界における責任性において歩んでいけばいいのです。「根源的な光」の祝福と守りのもとで…‥。
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